第五話 千影、ダイエットする②
その後も、千影は課せられたスケジュールを何とか予定通りこなした。そして、貴重な自由時間が始まる二十時、急いで宝物庫からつばきたんのCDとサイリウムを取り出し、無心で振った。その後、歯磨きとトイレを済ませてから、目覚まし時計を予定より十分早い零時二十分にセットすると、布団に潜り、すぐにいびきをかきはじめてぐっすり眠った。
そして、午前零時二十分、セットした通りに目覚まし時計がけたたましい音とともに飛び跳ねると、同じく千影も飛び起きた。
「あぁ……早く用意をしないと……」
千影は半分寝ぼけた頭を何とか働かせながら身体を動かして、西町高校のジャージに身を固めると、そそくさと階段を下りて外へ出た。
「うぅ!寒っ!」
春の夜は、まだ寝起きの身体には寒すぎた。千影は運動靴にかかとを入れながら玄関のドアの鍵を二カ所しっかり閉めると、村正神社へ向かって小走りで向かった。
今日の月は昨日よりもまん丸で、靄もそれほどかかってはいなかったが、そんなことは千影にとってはどうでもいいことであった。それよりも、夕方のウォーキングのせいか、足を前に出すたび、ひざが軋んで痛くてたまらなかった。
家から村正神社までは、一般のごく健康な普通の人が歩くと十五分くらいで到着できるが、千影の場合、小走りでも三十分はかかる。
千影は左手首に付けていた、つばきたんカラーであるピンク色の戦国少女隊腕時計を見た。今はもう零時三十五分。
(これも、すべてはつばきたんのため!頑張るんだ!俺!)
千影は心の中でそう自分に言い聞かせると、ひざの痛みを我慢しつつ短い腕を一生懸命に振り、大きいお腹を揺らして喉をヒューヒュー鳴らしながら、急いで村正神社へ向かった。
「千影、やっときたか」
月影にぼんやりと紫紺色に浮かび上がった第一鳥居に、腕を組んだ覆面黒装束の忍者がひとり、柱にもたれかかって立っていた。
「ご、ごめん蛍。遅くなった……」
蛍の目の前までやってきた千影は、もうすっかり息が上がり、ひざもガクガクと震え、立っているのがやっとであった。
「昨日のお前と比べたら上出来だと思うが……千影、たかが自宅からこの神社まで来るだけでそんな風になってしまっては、特訓できないじゃないか。お前、今まで運動経験はないのか?その……サッカーをちょっとだけかじっていたとか、野球をちょっとだけかじっていたとか」
「なんで全部“ちょっとだけかじった”なんだよ。まぁ、俺の体型を見れば、誰だってそう思うでしょうけどね。でもな蛍、俺だってまったく体を動かしたことがないわけじゃねぇよ」
千影はしっとりと濡れた芝の上に立てひざをついて息を整えつつ、少し自慢げにそう言った。
「ふーん、何をやってたんだ?」
蛍は少し面倒くさそうに訊いた。
「それはですね……」
そう言うと、千影は、まるで侍が鞘から刀を引き抜くように、持っていた巾着袋の中から二本の棒を取り出した。
「見ろ蛍!これが俺の特技だ!」
そういうと、千影は二本の棒同士をクロスしてぶつけた。すると、その途端、二本の棒は蛍光ピンクに発光した。そして、それを両手に持つと、頭と腕を同時に振り始めた。
千影が振りまわす二本のサイリウムの光の残像は、天女の羽衣のようで妙に綺麗であった。
「あ、あぁ、お前がすごいのはもうわかった。だから、その奇妙な踊りはもうやめてくれ」
蛍にこう言われた後も、千影はしばらくサイリウムを振りまくっていたが、蛍の視線がすっかり冷たくなっていたことに気がついた千影は、光るサイリウムを巾着の中にそっと戻した。
「まぁ、お前にはまだそれだけ動ける体力はあるということがよく分かった。では、これから、忍者の特訓を始めるとしよう。けっきょく、昨日は写真集を譲る約束がどうのこうのといって、何もできなかったからな」
そういうと、蛍は懐に手を突っ込み、中から一巻の巻物を取り出し、それを仰々しく広げた。
「えぇと、特訓に取り組む前にひとつ言っておくが、今のお前は、正直言って忍者とはほど遠い体型だ。その身体では、忍術を学び鍛錬を積むのは難しいだろう。だから、忍術を錬磨する前に、まず、そのたるんだ身体を引き締めることから始める。
では、さっそく村正神社の目の前を横切るこの道を、田んぼ五枚分、つまり片道約五百メートルを往復十周ランニングすることにする。だが、今のお前にはこの距離は無理だな。まずは一周、これを目標にするとしよう。さぁ、千影、歯食いしばってついてこいよ!」
そういうと、蛍は後を振り返らずに走り出した。
「えぇ!ちょ、ちょっと待ってよ!お、俺、まだ、ヲタ芸を打ち終わったばかりで、もうちょっと休みたいんだけど……」
「早く来ないと、写真集が手に入らないぞー!」
千影の弱音をかき消すように、蛍は暗闇の中から千影に向かってそう叫んだ。
「うぅ!もう、こんなことしたって、忍者になんかなれねぇっての!」
しかし、忍者にはなれなくとも、この特訓を乗り越えなければ、つばきたんのお宝写真集が手に入らない。千影は小さく舌うちをした後、歯を食いしばり、だるい両手両足を振り上げて蛍の後を追うように走っていった。
明日の満月を控えた月からは、繊細な絹糸のような月光が大地へ垂れる。時おり吹く少し肌寒い風は、静かな春の夜をすべりながら、乾宮山の麓にたたずむ春柳をやさしくなでた。千影は左手にさざめく木の葉の笑い声など無視をして、右手に広がる田んぼを一枚ずつ数えながら走った。
「ク、クルシイ……」
田んぼ五枚分を走りきり、折り返し地点に着いた頃、千影はその場に座り込んでしまった。
「おいおい、まだ五百メートルくらいしか走ってないぞ。もうバテたのか?」
「も、もう、無理だ!苦しくて、苦しくて……」
千影は両足を投げ出して、空を仰いで苦しそうに胸を上下に動かした。すると、蛍は千影の目の前に立てひざをつくと、千影の肩に手をおいた。
「よし、千影、さっそく、ここでいいことを教えてやろう」
「えぇ?い、いいこと?」
「あぁ、そうだ。それは、二重息吹という忍者の呼吸法だ」
「二重息吹?」
「そうだ。忍者は忍務を遂行する中で、ものすごく長い距離を早く走らなければならない時がある。そのような時にこの呼吸法を使うんだ。
呼吸の仕方はこうだ。“吸・吐・吐・吸・吐・吸・吸・吐“。この一定のリズムを走るペースに合わせてすると、乱れた呼吸も整えられるし、精神もこれに集中して安定する。だから、長距離間走っても、肉体的だけではなく、精神的にも疲れにくくなるんだ。まずは、千影、正座をしてこの呼吸法を試してみろ。きっと、息苦しさが和らぐよ」
千影は蛍の言われた通り、地べたに正座をして姿勢を正すと、目をつむり、二重息吹を試してみた。すると、先ほどまで辛かった息苦しさは和らぎ、気持ちも何だか落ち着いたような気がした。
「あぁ、すごいや。本当だ……楽になったよ」
千影が目を開けてこう言うと、蛍の目は細くなった。
「それじゃあ、残りの五百メートル、頑張って走ろうな」
そして、千影は何度か立ち止まったりしたものの、蛍の手を借りずに何とか第一鳥居の前まで戻って来ることができた。
「それでは、次に、腹筋五十回、背筋五十回、腕立て伏せ五十回をするぞ。さぁ、俺が足を押さえてやるから、頑張れ!」
「えぇーまだやるのか?俺、こんなに身体動かしたの久々だよ!」
「あぁ、そうか。だけどな、これをやりきらないと、つばきたんの超プレミア写真集が……」
「わ、わかったよ!やるよ!やりますから、足、押さえててよ!」
そして、千影は腹筋五十回、背筋五十回、腕立て伏せ五十回を一時間半もかけてやった。これをやり終える頃には、東の空はもう白んでいた。
「も、もう、む、無理!」
そう言って千影は両手両足を広げて仰向けに倒れた。その足元で蛍は腕を組んでため息をついた。
「おいおい、この程度でバテられては困る。今日は特訓の一日目だから、こんなもので許してやるが、明日からはこうはいかないからな」
「は、はい……頑張ります……」
それから、雨の日だろうと風の日だろうと、千影は、課せられたスケジュールをきっちりと守り、真夜中には厳しいトレーニングに励んだ。
真夜中のトレーニングは、徐々に厳しくなった。ランニングは一周から十周に増え、腹筋と背筋と腕立て伏せもそれぞれ五十回から百回に増えた。トレーニングは日に日に厳しくなるのに、千影の体重はまったくといっていいほど変わらなかった。それに加えて、千影の腕や足、腹や背、全身が悲鳴をあげた。いくら、つばきたんのためだとはいえ、心さえも悲鳴をあげてしまいそうであった。
だが、ひとつ、変化したこともあった。学校ではヤンキーがあちこちにたむろして、教室へ行くと、お決まりごとのようにあの双子のヤンキーが絡んできたが、この時、千影の頭の中に“戦わずして逃げろ”という蛍の言葉がとっさに浮かび、ヤンキーに胸ぐらをつかまれそうになったとたん、しっぽを巻く前に一目散に逃げた。その逃げ足は、まるで韋駄天のようで、ヤンキーたちは誰も千影に触れることができなかった。
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