第五話 千影、ダイエットする①

 千影はまるで別人のようになった。

午前七時四十五分、目覚まし時計のやかましい音が千影の部屋に鳴り響いた。その聞き慣れない騒音で目が覚めた千影は、ほこりだらけの時計を叩いてアラームを止めると、ポテチの袋を宙に舞散らしながらベッドから飛び起きた。

床に散らかるカップ麺の空き容器を足でどかしながら洋服ダンスの前まで行き、急いで西町高校の真新しい学ランを着た。そして、ぺしゃんこのカバンに教科書やらノートやらをたくさん詰め込み、突き破るように部屋のドアを開けると、雪崩のように階段を下り洗面所へ行き、顔をじゃぶじゃぶ洗った。時計を見ると、ちょうど七時五十分をまわるところだ。


「ばぁちゃん!おはよう!」


居間へ飛び込むと、千影は元気よく挨拶をした。


「あら、千影さん!?あ、あなた、いったいどうしたの?」


とつぜん、千影が朝早くにきっちり制服を着て、しかも、居間へ顔を出したので、祖母はおたまを片手に持ったままきょとんとしていた。


「ばぁちゃん、何言ってんの?今日は学校がある日だよ。だからさ、今すぐ朝飯作ってくれよ。俺さ、八時までに食い終わらないと間に合わないんだ」


千影がこう言ってテーブルに着くと、祖母は少しの間その場に立ち尽くしてが、エプロンの裾で目頭を押さえながら駆け足で台所へ向かった。


(今日から俺は、変わるんだ)


千影は懐から一巻の赤い巻物を取り出した。昨晩、蛍からもらったものであった。それは、“写真集の約束”を交わした後の話である。


「ところで、ひとつ気になっていたことがあるんだが、たしか、千影の部屋に散乱していたのはインスタント麺の空き容器だったよな?」


突然、思い出したかのように蛍はそう訊いてきた。


「あぁ、俺の三大好物のひとつの徹平ちゃん塩味だよ。もうひとつはポテチで、ええと、それから、コーラ!」


「はぁ、そうか。それが太る原因の一つだな。では、千影、明日からインスタント麺、菓子、コーラは一切禁止だ」


「えぇー!どうして!俺、最低一日一食、徹平ちゃんを食わないと気持ちが収まらないというか、何というか……」


「忍者の体重制限は、だいたい六十キロまでだ。なぜなら、忍者は忍務中、一本の縄を素早く登ったり、木の上や家屋の屋根からなどの高い所から飛び降りたり、天井などに親指と人差し指のみでぶら下がらなければならない状況が多々ある。だから、忍者は常日頃から食事の取り方にも気をつけている。

忍者の飯は低カロリー低脂肪、それでいて、筋肉をつけるために高タンパクでなければならない。たとえば、豆腐などの大豆製品や、鳥の胸肉、白米ではなくて玄米、できれば、黒ごま、大豆、黒大豆、はと麦が混ざった五穀米が望ましいな」


「は、はぁ」


「それからもうひとつ!お前は生活習慣が非常にだらしない。今日だって、学校サボって歯も磨かずに寝ていただろう?」


「えぇ!ど、どうしてそんなに詳しく知ってるんだ?」


「お前、俺を誰だと思っている」


「は、はぁ」


「とりあえず、お前は、食生活の見直しとともに、乱れた生活習慣も整える必要があるな」


そう言うと、突然、蛍はその場にあぐらをかいて座ると、懐から赤い巻物を取り出し、それをひざの上に広げると、そこに携帯していた筆ペンでなにやら細々と書き始めた。

やがて朝露が草原を濡らす頃、蛍は巻物を千影の目の前に広げてみせた。

そこには、“見習い忍者 藤林千影の一週間のスケジュール”と、迫力ある太字で書かれていた。起床時間から朝食の時間、登校時間から下校時間、復習予習の時間、夕飯の時間と就寝の時間まで、分刻みで一日の予定が子細に書かれてあった。


「え?これ、何ですか?」


「見て分からないのか?これは今日、これから朝日が昇ったとたんに実践してもらうお前のスケジュールだ。千影の学校生活のスケジュールは把握済みだから安心しろ。課外授業がある火曜と木曜の日程も、それ用に組んであるからな」


蛍は得意満面でそう言うと、その赤い巻物を千影に手渡した。

千影は苦笑いを浮かべながらそれを受け取ると、眉間にしわを寄せて巻物に目を落とした。


「えぇと、今日は木曜日だから……七時四十五分、起床。そのあと洗顔して五十分に朝食。八時に歯磨きとトイレ。八時五分に登校。八時十五分に学校到着。その後十六時五十分まで学校で授業を受けて、十七時十分に帰宅。その後、一時間二十分自主トレ(ある程度体重が落ちるまではウォーキングでいい。)をして、十八時半に風呂。十八時四十五分に夕飯で、十九時から一時間、学校の勉強の予習復習。そのあと五十分だけ自由時間で、二十時五十分、歯磨きとトイレ。二十一時に就寝。零時三十分、起床。五分で身支度をして零時三十五分に村正神社へ出発。徒歩十五分で村正神社に着いて、一時からダイエットを兼ねた忍術の特訓開始……」


千影はここまで声に出して読むと、顔を真っ青にして蛍を見た。


「あ、あの、もし、これを守らなければ……」


千影がこう言いかけると、蛍の目は意地悪そうに細くなった。


「はい、どうぞ」


朝日をぼんやり眺めていた千影の目の前に、ほかほかの白いご飯と湯気立つみそ汁、金色に照り輝く卵焼きと焼きたての鮭が置かれた。

時計を見ると、もう八時を回ろうとしている。


「やばい!早く食っちまわないと!いただきます!」


そう元気よく言うと、千影は慌ててみそ汁をすすり、一気にご飯をかき込んだ。


(今日から、俺は変わるんだ!遅刻せず、恐ろしいヤンキーにも怯まず、ちゃんと授業を受けにいくんだ。あの蛍のことだ。どこで見ているか分からないからな。もしも、決められたスケジュール通りに動かなかったら、それを理由に、昨日の約束を破棄されるかもしれない。それは絶対に阻止しなければならない。

そして、夜中の一時から四時までの三時間、俺は、わざわざ忍者部員のフリをして、中二病の相手を全力でするんだ)


千影の表情は一瞬曇ったが、首を横に振って気を取り直すと、焼き鮭にかぶりついた。


(とにかく、お宝を手に入れるまでの辛抱だ。蛍が昨日言ってた忍びの話とか厳しい鍛錬とか、所詮それは中二病たちが作った空想でデタラメなお遊びだ。適当に合わせていればいいさ。

そして、お盆明けにはゲニンとやらになってお宝を手に入れる。そうしたら、俺は忍者部からとっととおさらばしてやる!)


朝ご飯をすべて平らげ箸をテーブルに置いた時、千影はすっかり悪人の顔になっていた。


 学校に着くと、千影は昨日の双子のヤンキーがいないか、周囲をキョロキョロと注意深く見回しながらそそくさと正面玄関に入った。中へ入ると、さっそく下駄箱の周りでたむろするヤンキーたちの七色の頭がお出迎えしてくれる……と千影は思ったのだが、今日は頭に奇抜な色を乗せている生徒はひとりも見当たらない。

廊下を歩いても、見かけるのは厚化粧をする女子生徒や、ちちくり合うカップルくらいのもので、殴り合いのケンカをしたり恐喝をしたりするヤンキーはひとりもいなかった。

教室のドアを開けると、そこには、付けまつ毛を慎重に付けたり、アイラインをパンダのように目の周りに引きまくっている女子たちと、冴えない感じの男子が三人で教室の隅に寄り集まっている光景だけであった。

千影が席へ向かう途中、三人組の男子たちの前を通り過ぎた。

背が小さくて真四角の黒ぶちメガネがやたら大きい子、ひょろりと背が高くて学ランがぶかぶかな子、目玉が影で見えないほどの奥目で猫背の子。

以前、千影が双子のヤンキーに絡まれている時、怯えながらその様子をただ黙って見ていた男子たちであった。

おそらく、ヤンキーやギャル男とは違う、何か似たものを感じて友達になったのだろう。千影はこの三人を横目で見やりながら自分の席に着いた。

 その後、千影は学校が終わるまで、誰からも威喝されることなく、とても平和な時間を過ごした。

それは、この間の入学初日とは違いすぎて、千影は何度も、自分は間違って他の学校に来てしまったのではないか、と思うほどであった。

学校が終わると、千影は誰とも言葉を交わすことなく校舎を出た。

そして、家に着いた千影は制服を脱ぎ捨て、高校のジャージに着替えると、あの赤い巻物を広げて、帰宅後のスケジュールを再確認した。


「えぇと、このあと一時間二十分自主トレをして、十八時半に風呂。十八時四十五分に夕飯で、十九時から一時間、学校の勉強の予習復習。そのあと五十分だけ自由時間で、二十時五十分時に歯磨きとトイレ、そして、二十一時に就寝……。おいおい、これじゃあ、俺の自由時間は一日たったの五十分しかないじゃねぇか!こんなの、耐えられるかよ!」


千影は腹の底から声を出してこう言ったが、言った直後、天井からドンと一回、物音がしたような気がしたので、渋々このスケジュール通りに動くことにした。


(きっと蛍アイツがどこかで俺のことを見張っているに違いない!これじゃあプライバシーもクソもない!だいたい、昨日だって俺の部屋に勝手に入ってきたし。

自分は忍者ですって申告すれば、不法侵入が許されるのか?)


考えるうちに、千影は腹が立ってきたが、これもすべてはつばきたんの写真集のためだと思い、怒りを抑えた。

 

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