第四話 忍者と写真集の約束②
けっきょく千影は、両手首と足首のところに紫とからし色のラインが入ったエメラルドグリーン色の西町高校のジャージを着て特訓を受けることとなった。
村正神社に着いた千影は色々と不安ではあったが、少しだけ胸がわくわくした。薄緑色に淡く光る春の月、人気がない境内、ひんやりと漂う真夜中の怪しい空気。
千影は今まで何度も夜中に外出をしたが、ここで感じる雰囲気はどれも独特で、初めてのようであった。そして、どうしてこんな真夜中にトレーニングするのか?というのは聞くまでもないと千影は思った。
(どうせまた、忍者は夜中に活動するものだーとか何とか言うんだろうな、コイツは)
千影は、腹に食い込んだズボンのゴムを引っぱって腹を掻きながら、ひとり張り切る蛍を見ていた。
「さて、トレーニングに取りかかる前に、千影、まずお前が“忍者”と聞いて思い浮かべるイメージを思いつくだけ言ってみてくれ」
「へ?忍者といえば?うーん、そうだな……」
頭の中で色々な忍者の像を思い浮かべていると、十一年前に見た、あの父親の背中が浮かび上がったので、千影は慌ててこれをかき消した。
「え、えぇと、夜中にコソコソしている。巻物を口でくわえて姿を消す。風呂敷を広げて空を飛ぶ。手裏剣とか刀とかで悪者と戦う……とか、かな」
「うん。まぁ、そんなものだろうな。だが、現実の忍者は違う。まず、忍者とはスパイであり、表立って戦う戦闘員ではない。だから、手裏剣や刀などの武器はあくまで護身用であって、戦闘用ではないのだ」
「へぇ、そうなんだ。なんか、忍者ってかっこよく武器やら忍術やらを使って派手に戦うイメージがあったんだけどなぁ」
「そうか。では、そのイメージは今日のうちにお前の頭の中からすべて払拭しろ。それに、忍者はぜんぜんかっこいいものではないぞ。忍者において何よりも優先すべきことは、あくまで忍務の完遂だ。そのために、忍者はその存在を誰にも気付かれることなく忍務を遂行する必要がある。
万が一、敵と鉢合わせした時は、戦わずに逃げる。なぜなら、敵と戦ってしまうと、自分か敵のどちらか、あるいは、どちらともケガをしたり命を落としたりすることになる。余計ないざこざを残さないために、忍者は戦わない。戦わずして逃げるのだ」
「でも、それって敵に気付かれないようにやることやって、とっとと逃げるってことでしょ?なんだか卑怯でセコい感じだなぁ」
「あぁ。だが、戦わずして逃げることは忍者の鉄則だ」
「それにしても、忍者の忍務って、いったい何をするんだ?」
千影がこう訊くと、蛍は目を輝かせた。
「おぉ、よくぞ訊いてくれたな。まだお前は正式な忍びではないから、詳しい忍務の内容については、今この場では教えることができないが、忍びについて知っておくべきことがあるから、それを教えることにしよう」
張り切る蛍を見て、千影は余計なことを訊かなければよかったと後悔した。
「まず、忍びの掟についてだ。千影、耳をかっぽじってよく聞くんだぞ。忍びの掟、それは、“正心第一”である」
「せいしんだいいち?」
「あぁ、そうだ。忍びである者は誰しも知っている言葉だ。忍者になる者が一番初めに覚えなければならない重要な言葉だから、千影もよく覚えておくように。“正心”とは大義。ここでいう大義とは、天道に殉ずることを言う」
「は、はぁ」
「千影、少しでも分からないことがあれば、この場ですぐ訊け。さもないと、俺がこの先話し続けても、俺の言葉は、お前の耳にはただの雑音でしかなくなるからな」
「はぁ。じゃあ、天道って何?」
「天道とは、超自然の宇宙原理、天地自然の法則、天が万物を化育する自然の法則のことだ。これを忍びは、陰と陽の二つの気が滞ることなく万物を巡ることとして認識しているが、これだけの説明では、たぶん、お前にとっては何のことだかさっぱりだと思うから、まず、この世の起源について話をしようか」
蛍は姿勢を整え直すと、改まったように話し始めた。
「それは、まだこの世が誕生していない時の話だ。宇宙の始まりは、天地未分の混沌たる状態であった。そこから、光溢れ軽く澄んだ気である“陽”が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気である“陰”が降下して地となった。そして、この二つの気は、交合、交感して万物を生み出した。
雨は天から地上へ降ると、やがて太陽の熱で蒸発して雲となり、ふたたび、雨となって地上に降り注ぐ。
この世、つまり陰と陽の世界のすべては、この二気の往来があって初めて生々流転の輪廻が可能となった。つまり、陰と陽の交わる力は魂を巡らせる力なんだ。
陰と陽の世界で最も“善し”とされることは、“魂は永遠に巡り、消滅することがないこと”。
忍びにおける天道とは、つまり、陰と陽の二つの気が、誰にも邪魔されることなく正しく交わり万物を巡ることなんだ。
かなり抽象的ではあるが、ここまでは理解できたか?」
千影は腕を固く組んだまま、眉間にしわを寄せて小首を傾げていた。それを見た蛍も困った顔をして首を傾げた。
「まぁ、要するに、忍びは陰と陽の正しい巡りを大事にしていて、もしも、この巡りの邪魔をするものや事態が生じた場合、それを排除したり解消したりすることに命をかけよ、と言っているんだ。こんなものでどうだ?」
「何となく、うっすらぼんやりと。うーん、でも、俺、陰と陽の二つの気っていうヤツがいまいちよく分からないな。それは、いったい何なんだ?“気”っていうことは、それは目に見えるものじゃないんだろ?それをどうやって正しく巡ってるとか、誰かに邪魔されてるとか分かるんだよ」
「あぁ、そうだな。それはだな、神様に訊くんだ」
「へ?神様?」
「あぁ、神様だ」
“神様”という言葉を聞いたとたん、千影の顔は、たちまち訝る表情になった。
「神というのは、まさに、この陰と陽の力の源のことだ。忍びの起源は、神の声を聞く覡や巫女であった……と、謂われている。だから、忍びの忍務は、すべて神様の言う通りに実行されるんだ」
「神様の、言う通り……」
千影は、ついさきほどまで滅多に使わない脳細胞をフルに活性化させて、蛍の言葉の一言一句に耳を傾けていた自分が急にバカらしく思えた。
「まぁ、ともかく、今のお前に一番覚えておいて欲しいことは、敵とは戦わず、万が一敵と遭遇したら、とにかく逃げろということだ。わかったな?」
「は、はい」
「千影、忍びの世界にきれいごとなどひとつもない。忍者は現実主義者でなければならない。常に変化し続ける現実の状況を把握して、何を優先すれば忍務を確実に達成することができるのかを考えながら、臨機応変に行動をする。そのなかで、仲間を見捨てなければならない状況など、非情な決断に迫られることが、なきにしもあらず。思わず目をそらしてしまいたくなるような現実にもぶつかることだってある。
だが、そこから決して逃げてはならない。ヤケになってはならない。現実から目を背けてはならない。忍務を最後までやり遂げるために、忍びは、常に己と戦わなければならないのだ」
(てっきり、忍者とは悪の親玉を倒すために影で格好よく戦う正義のヒーローであるっていうような説明をされるのかと思っていたのに……)
蛍から教えられた“忍び”は、千影が今まで抱いていた忍者のイメージとはだいぶ異なり不可解なものだった。そして、陰と陽の世界や神様の言葉という非現実的な話の中で、“逃げろ”という言葉だけがやけにリアルで、千影の頭の中にいつまでも残っていた。
「まぁ、忍者とは、おおかたそのようなものであるが……千影、何か質問などあるか?」
蛍にそう訊ねられたとたん、脳裏にすっかり埋もれていた一番大事なことを千影は思い出した。
「は、はい!あります!」
千影が元気よく挙手をしたので、蛍は驚いていたが、少し嬉しそうであった。
「なんだ?」
「えぇと……」
「遠慮はするな。分からないことがあれば何でも訊け」
「う、うん。それじゃあ……あの、この前、蛍が見ていた本のことなんだけど……」
「は?本?本がどうした」
蛍の嬉しそうな顔は徐々に曇った。
「いやぁ、その、確かその本は、今や日本のトップアイドルグループに君臨する五人組アイドルユニット戦国少女隊の人気アイドル、つばきたんの直筆サイン入り特大ポスターまで付いた一日限定販売の超プレミア写真集……でしたよね?」
「あぁ、確かにそうだが……それがどうした」
蛍の眉間には深いシワが刻まれていた。
「あ、あの、その、ええと、つまり、つばきたんがメジャーになる前から俺はずっとつばきたんの大ファンでありまして、その……」
千影は両手握りこぶしに力を込めた。
「つばきたんの超プレミア写真集を、俺に譲って頂けないでしょうか!」
千影が言い終わった頃には、蛍の両目は、すっかりまん丸になっていた。
「急にお前は何を言い出すんだ」
「お願いします!譲って下さい!」
「いや、待て」
「お願いします!どうかお願いします!!」
「おい!」
「お願いします!どうか!どうか!お願いいたします!!!」
千影は、まん丸な身体をさらにまん丸にして、蛍の目の前にうずくまり土下座した。ジャージのズボンからは、おおきな尻が半分むき出しになっていた。
「ったく、質問があるというから意欲的だなと思っていたのに、そんなことかよ」
「え?そんなこと?それじゃあ、俺に譲ってくれの?」
千影が目を輝かせてそういうと、蛍はしゃがんで千影と目線を合わせ、千影の頭を人差し指で小突いた。
「アホかお前は。この俺が、はいわかりました、いいですよって渡すとでも思ったのか?」
「えぇ!違うの?だって!俺はもうこの忍者部の一員だよ!本の一冊や二冊、譲ってくれたっていいじゃないか!」
千影は蛍にすがりつくように言ったが、これを見た蛍はニヤリと目を細めた。
「まぁ、譲ってやらないことも……ないけどな」
「え?」
「お前が、これから俺が課す特訓をすべてこなし、盆明けには晴れて“下忍”になれたのなら、譲ってやってもいいぞ」
「えぇ!ほ、本当か!?」
「あぁ、本当だ。俺は自分の言霊で結んだ約束は絶対に破らない」
蛍がそう言ったとたん、千影は、重たい身体とは思えないほど軽やかなジャンプをして立ち上がった。
「蛍!俺、ぜってぇ頑張るから!ぜってぇ、すべての特訓をやりこなして、そのゲニンとやらになってみせるから!」
「あぁ、期待しているぞ。大丈夫、千影、お前ならできるさ。俺はいつもお前のことを信じているよ」
淡く黄緑に霞む月のもと山桜の花吹雪が舞う中、蛍と千影は固く握手を交わした。
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