第二話 千影のトラウマ①
「いったい、俺はどうしたらいいんだ!!!」
返事を濁したまま、自宅へ戻って来た千影は、自分の部屋にとじこもって頭を抱え悶絶していた。
千影の部屋はとても他人に見せられるものではない。年中カーテンの閉まったの部屋は、薄暗くジメジメしている。床と勉強机には、千影の三大好物のうちのひとつである、カップラーメン“徹平ちゃん塩味”の食べ終わった容器と割り箸が山積みにされており、足の踏み場がない。ベッドの上には、ポテチの空袋や食いかけの袋、それから、脱ぎ捨てたTシャツやセーター、ズボンやパンツが散乱しており、とても寝られる状態ではない。そして、極めつけは、壁と天井にすき間なく貼られた“つばきたん”のグラビアポスターである。
そのようなごちゃごちゃしたゴミだらけの部屋の真ん中で、千影は肉がたっぷりついた腹を抱えながら、ひとり、深刻そうな顔をして悩んでいた。
(忍者になるのは絶対に嫌だ!でも!まさか、あんなふざけた中二病の部室に、俺が唯一買いそびれた“つばきたん超プレミアお宝写真集”があるとは!
あの写真集はどうしても手に入れたい!
オークションや通販サイトなど、ネット中を血眼で探し回ったが見つからなかった。それは、もはや家宝にするほど価値があるものなのだろう。
くそ!俺はつばきたんが三年前にデビューしてからずっと命がけで応援して、一心にサイリウムを振ってきたというのに!なんであんなところに俺が唯一手に入れることができなかった宝物があったんだ!)
千影は悔しさとせつなさで気持ちが乱れてきたので、とりあえず落ち着くため、一度、このことについて考えるのをやめて、次回の戦国少女隊のコンサートに向けて、ヲタ芸の練習をすることにした。
千影は、“宝物庫”と呼んでいるシミだらけの押し入れの戸を静かに引いた。押し入れの上の段には、観賞用と保存用でそれぞれ二冊二枚ずつの同じ写真集とCD、DVDが発売日順にきっちり並べられている。そして、下の段には、応援に行くときに携帯する愛器のサイリウムとうちわ、ハチマキや推しメンTシャツなどのファングッズがきれいに納められていた。
「よーし!とりあえず、新曲に合わせていっちょ打ってみるか!」
千影は白い手袋を両手にはめると、まるで高価な美術品を扱うように、押入れから戦国少女隊の新曲CDとサイリウムを八本取り出した。そして、床のいたるところに山積みにされてあるカップラーメンの空き容器を足でどかして踊るスペースを確保すると、ベッドの下から古びたラジカセを引きずり出した。そして、そのラジカセに手袋をはめた手でCDを慎重にセットすると、手袋を脱ぎ捨て、八本全てつばきたんのメンバーカラーであるピンク色のサイリウムを片手に四本ずつ指の間に挟めるように持って構えのポーズをとった。
「つばきたんは、この世でたったひとりの俺の天使!いざ!参る!」
曲が始まったとたん、千影は激しく頭と腕を振り回しながら、サイリウムを振りはじめた。
(あぁ、やっぱりつばきたんの歌声に合わせてサイリウムを打っていると心が落ち着く……頭の中が整理されていく……)
千影は曲に合わせて、サイリウムを振り回し、青龍、白虎、朱雀、玄武のポーズ……と、戦国少女隊のライブでお決まりのヲタ芸の技を次々ときめていく中で、千影が唯一手に入れる事ができることができなかった、つばきたんの直筆サイン入り特大ポスター付きの超プレミア写真集と、忍者部に入るか否かという問題を思い出した。
(どうにかして、あの写真集を手に入れたい!だけど、そのためには、まず、あの中二病が集う忍者部へ入部しなければならないだろう。まさか、入部もしないのに、
しかし!俺は忍者が大嫌いだ!俺のこの負けっぱなしの人生は、すべて忍者というものがこの世に存在していたからなんだ!現に俺は、今日、忍者のせいで自殺に追い込まれ、挙げ句の果てに、忍者に殺されそうになったんだからな)
それは、さきほど述べた通り、千影が自殺をしようと思った元凶は、父親の“実はなぁ、父ちゃんは忍者なんだ”という一言であったが、それから、小学校で大暴れをして“問題児の藤林千影”となってから、千影はちょくちょく学校を休むようになり、とうとう、小学四年生の夏休み明けの頃にはまったく行けなくなって、けっきょく、そのまま卒業式も欠席したまま小学校を卒業した。
完全にひきこもりになってしまった千影を母親はひどく心配した。そして、心配しすぎて倒れてしまった。
都会には頼れる知人が一人もいなかった。加えて、母親の両親はこの時すでに他界していた。
床に臥しながら、引きこもりの千影と二人きりの生活を続けることが難しくなった母親は、最後の頼みの綱である、千影の父親の実家がある田舎、湯舟郷へ千影を連れて戻った。母親が湯舟郷に戻ったのは結婚した時以来だと、祖母は怒り呆れていた。
祖母は千影を甘やかさなかった。田舎の学校は都会と違って少人数だし、いじめもないだろうと言って、引きこもりがすっかり板についた千影を無理やり部屋から引きずり出して中学の入学式へとやった。
病臥する母の姿を見て意を決し入学式へ出席したが、周囲の見ず知らずの人間たちのささやきが、すべて自分の悪口に聞こえた千影は、式の途中で過呼吸になり倒れてしまった。
中学生デビューは見事に失敗した。
千影はこれがトラウマとなり、ますますひどい引きこもりになってしまった。
それからというもの、千影はずっと部屋にこもり、腹が減っては都会暮らしの時でもやっていたように、床を足でドスンと踏み鳴らして母親に食事を部屋の前まで持ってくるよう催促した。母親は病で重たい体を引きずりながら食事を運んできた。
とある日、千影は腹が減ったのでいつものように床ドンをした。いつものなら床ドンの二十分後くらいには母親のヨタヨタと力なく階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
だが、この日は違った。
いくら待っても足音が聞こえてこない。千影は何度も床を踏み鳴らしたが、母親は来なかった。永遠に来ることはなかった。
母親は死んだ。
母親のそばに最後まで付き添った祖母の話によると、母親は最後まで千影の名前を無我夢中に呼び続けて息を引き取ったらしい。
「あぁ、嫌だなぁ」
薄暗い部屋にはノートパソコンの明かりがぽつんとひとつ。母親が死んだ後も、千影は部屋の真ん中から微動だにせず、何かに取り憑かれたようにモニターをじっとり見つめていた。
千影はもう自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなった。その曖昧な世界が千影の崩壊寸前の精神をかろうじて持ちこたえさせた。
だが、しばらくすると、腹が鳴る。その音とともに急激に現実世界へと引き戻される。腹が減ったと自覚したとたん、嫌でも“生”を感じる。
千影は腹が減ったと地団駄を踏んだ。だが、祖母がご飯を運んで来ることはなかった。
祖母は厳しい人だ。千影はご飯がなくなった。
ご飯はもらえなかったが、毎月の小遣いだけはもらった。毎月一日の朝七時ごろ、祖母は一万円札を一枚、千影の部屋のドアの隙間に挟める。千影はこれを食費に充てることにした。
祖母も寝静まった夜中の二時頃、千影はこっそりと家を抜け出して、片道小走りで十五分のところにあるコンビニへ足を運んだ。田舎の夜中は明かりが田んぼの水面に浮かぶ月一つだけ、ひっそりと静まり返る。だが、ここ湯舟郷は違った。夜中には耳をつんざくほどの爆音とともに、目がくらむほどのライトと安っぽいクラクションの音がパラリラパラリラと鳴り響く。日中ののどかな田舎道は、夜になると時代遅れな暴走族の大行列が派手なパレードでごった返す。
千影は暴走族の音と光に怯えながら、影へ影へと逃げてコンビニまで急いだ。
二十四時間煌々と光り続けるコンビニは、千影にとって太陽の光そのものであった。千影はコンビニの明かりが嫌いだった。暴走族のそれとは違う。その明かりで自分の嫌なところが全てさらけ出されるような気がした。
だから、千影はコンビニへ入店してからは早かった。一切の迷いを見せることなく、カップラーメンの徹平ちゃん塩味と、二リットル入りのコーラ、ポテチのLサイズをカゴいっぱい買い込む。そして、最大の山場である会計を済ませると、逃げるように店を出て、また影を求めながら家まで戻り、誰もいない綺麗に整った古い台所でお湯を沸かし、それを徹平ちゃんに勢いよく注ぐと、すばやく自室へ戻る。それからモニターの明かりを照明代わりにして千影の食事はやっと始まる。
昼も夜もないネットの大海原にひとり、あてもなくゆらゆらと漂う。腹が減ればカップラーメンとポテチを喰らい、コーラで喉を潤す。そしてまた、波のゆらぎに身を任せる。
生と死の狭間の世界はきっとこうだ。
自分が今、存在しているということを自覚してはまた忘れる。寄せては返す波のように。だが、その波はいつも一定で穏やかではない。突如、巨大な津波が千影に襲いかかる。その時、千影は決まってどうしようもなく死にたい衝動にかられる。
そのたびにカッターで手首を切ったり、縄で首を吊ったり、高層ビルから飛び降りたりした。だが、どれもダメだった。いくら脳みその中で死んでも、生身で実行する勇気が千影にはなかった。生きる勇気も、死ぬ勇気もない。
「あぁ、嫌だなぁ」
千影はまたネットの大海原をさまよっていると、ある女の子に出会った。
それはモニターの端っこに掲載されていた生命保険の広告。広告の中で笑う女の子の笑顔は、燦々の太陽の下で元気いっぱい背伸びして天を向くひまわりというよりは、暖かい春風に揺れる草原に咲く小さなたんぽぽのようであった。
千影は心を射抜かれた。一目惚れの初恋であった。千影はその女の子の手がかりをネットの世界中探し回った。そして、やっと突き止めた。
女の子はその当時、まだ地下アイドルグループであった戦国少女隊のメンバーのうちのひとりで“つばき”という名前のアイドルだった。
千影は生まれて初めて他人ひとに会いたいと思った。
千影は勇気を振り絞ってライブに出向いた。モニターを介してではなく、実際に自分の目でつばきの姿を見た時、感動と興奮のあまり、千影は震えて涙を流した。そして、ライブ後の握手会でつばきと直に対面した時、つばきは、千影の脂ぎった両手を優しく包み込むように握り、千影が田舎からはるばる都会へやってきたことを話すと労ってくれた。そして、自分のサインをブロマイドに書き入れると、木漏れ日のような暖かい笑顔でそれを千影に手渡した。千影はノックアウトを食らった。
(つばきたんは、この薄汚く身も心も腐った醜い俺に笑顔をくれた。こんな生きる価値もない最低な俺の存在をつばきたんは認めてくれた!)
つばきが見せる笑顔と言葉は、アイドルという建前上のものだということくらい、千影も理解していた。それでも、今まで誰からも笑顔を向けられることがなかった千影にとっては、地獄から天国へと昇るほど嬉しいものであった。
それから、つばきの追っかけにすっかり夢中になった千影は、人ごみや外出を克服したにもかかわらず、学校に行かず勉強もしないで、ライブがある日以外は部屋に引きこもり、アイドルオタク生活ライフを満喫していた。
ろくに運動もせず、高カロリーのジャンクフードを食べる日々。気がつけば、千影の身体は肉だんごのようになってしまっていた。
毎日の食料の他にも、千影は通販やライブ会場でつばきのグッズを買いあさり、毎月もらうお小遣いはもとより、長年のひきこもりでたんまりと貯まった貯金もついには底をついた。
千影は祖母に、もう少し小遣いを増やしてくれないかとせがんだ。だが、当然、祖母は激怒した。この自堕落な生活を続ける千影を祖母は許すはずがなかった。
「千影さん、いいかげんにしてくださいよ!来年の春には中学も卒業です。あなた、まさか、このまま学校へ行かないまま中学を卒業して、これからもずっと何もしないままそうやって部屋に閉じこもるつもりですか?私は許しませんよ!とにかく、どこでもいいから高校には必ず入ってくださいな。ただし、通信や定時制ではなくて全日制の高校です。一般入試を受けて合格して入学してください。もしも、そうしなければ、来年から千影さんのお小遣いは一切ありませんからね!」
お小遣いをもらえなくなるのは、千影にとっては死活問題であった。
祖母の言うことを渋々聞き入れた千影は、まだろくに会ったことのないクラスメイトがいる教室ではなく、保健室の片隅で特別に授業を受けることとなった。
そして、受験したのが、全国的に偏差値が低いことで有名な、湯舟郷西町高校の普通科であった。
千影はなんとか合格した。
この合格通知に祖母と担任の先生は狂喜乱舞した。だが、千影は悲しみに明け暮れていた。なぜなら、受験当日のちょうどその日、つばきたんの直筆サイン入り特大ポスターが付いた超プレミア写真集が、一日限定で発売される日であったのだ。それは、当然のごとく、即完売。
千影はすっかり意地消沈したまま、入学式を迎えることとなった。
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