第一話 千影、忍者と出会う④

「さ、急ごう」


やっと校舎裏の地面に降り立つと、蛍は鉤縄をすばやく懐へしまい、千影をひょいと背負うと、裏山の乾宮山けんきゅうざんめがけて一気に駆け出した。

 蛍はまるで疾風のようであった。

青臭い若草を蹴り散らしながら、校舎裏から乾宮山へまっすぐ伸びるあぜ道を走り、山の麓にある村正むらまさ神社の鳥居をくぐり、ツツジの花が満開な本殿へと続く境内の道を走り抜け、本殿裏にそり立つ笹薮の急斜面をよじ上り、咲き始めの藤の甘い香りが漂う林を抜けると、とつぜん、目の前に巨大な杉の木が屹立した。


「着いたぞ」


蛍はそう言うと、天を貫くほどの杉の大木のてっぺんを指差した。

蛍の背中から降りた千影はボサボサに乱れた髪もそのままで、目を細めて空を見上げた。


「スゲェ……あれってさ、ツリーハウスだよね?」


空飛ぶ鳥が遠くに見えるくらいの上の方に、大小の枝葉が絡み合ったすき間から小屋の床部分がみえる。だが、そこまで登るためのはしごや階段のようなものはどこにも見当たらない。


「あそこまでどうやって登るんだ?」


ふと頭の中に浮かんだ疑問を何のためらいもなく口にした千影だったが、言い終わったとたんに後悔した。蛍は両手を千影の目の前でひらひら揺らしてみせた。


「自力で登るんだよ」


「えぇ―!無理だよ!だって俺……」


「あぁ、そんなこと、百も承知だ。だから、まず、俺が上まで登る。そして、上からはしごを垂らすから、お前はそれを使って登ってこい。いいな?ここで待ってろ」


そういうと、蛍はムササビのように杉の大木に飛びつくと、まるで手足に吸盤でも付いているかのようにどんどん上の方へ登っていった。

その様子を、千影はただ呆然と見上げているだけであった。


(アイツ、忍者になりきるために、きっと今まですげぇトレーニングしてきたんだろうなぁ。あれだけなりきっているところをみると、中二病を相当こじらせてるな。

かなり痛いヤツなんじゃないのか?

おそらく、アイツは俺が今日から通い始めた高校の先輩だ。だとしたら、これ以上深くは関わりたくないな。ただでさえ、根暗デブな俺は、登校初日にさっそくクラスの不良に絡まれたっていうのに、その上、あんな痛い先輩とつるんでいることがクラスメイトたちにバレたりしたら、それこそ、俺はもう学校へ行けなくなってしまうだろう。ああいうタイプの人間とは、早めに縁を切っておくのが賢明だ。

きっと、あのツリーハウスに入ったら、すぐに入会手続きを強制的に取らされるだろう。それだけはごめんだ。かといって、ここで逃げたら、きっとアイツは様々な陰湿な嫌がらせを今後の俺の高校生活のあちこちに仕掛けてくるだろう。

だから、ここは何としても穏便に解決したいところだ。

それには、入会することができない、何か重大で深刻な理由が必要だ。

どういった理由が適切だろうか?ばあちゃんの病気が重篤で、授業が終わったらすぐに家へ帰らないといけないとか?あるいは、家がものすごい貧乏で、授業が終わったら、すぐにバイト先へ直行しないといけないとか?

とにもかくにも、俺は忍者が大嫌いなんだ。だから、忍者同好会に入会するなんて絶対にごめんだ!)


千影が腕を組みながら、悶々と考えていると、目の前に麻縄と竹だけで作られた簡素なはしごがたらりと降りてきた。

上を見てみると、小屋のところで小さな人影が手招きしている。

入会を断る理由はさておき、千影は目の前のはしごに手と足をかけて、下を見ないように慎重に登っていった。はしごを一段登る度、踏桟の竹がビキビキと軋み、縄もギチギチと嫌な音を立てる。


「おい、千影、もう少し早く登れないのか?」


千影が恐怖と不安と断る理由の悩みと格闘しながらやっと登ってきたところに、蛍が冷めた目で言った。だが、そんな蛍の背後に立つ小屋を目にした途端、千影の顔の筋肉が緩んだ。


「うわぁ!すごい!立派な隠れ家だ!」


千影は上がった息を整えつつ、子どものようにはしゃいで小屋の外観を見た。

小屋は木造で窓は一つもなく、屋根は葉や枝で作られている。そして、まるで茶室のにじり口のような小さな戸の上には、ダンボールの切れ端に“忍者部”とマジックペンで雑に書かれた表札がかけられてあった。


(うわ……同好会じゃなくて、“部”だったんだ……)


千影が心の中で呆然としている間、蛍は小さな黒い鉄製の鍵で戸を開けた。


「とりあえず、中に入れ」


蛍が扉を指差して言った。


(きっと、忍者部というくらいだから、さっき蛍が持っていたようなマニアックな忍者の道具や武器のレプリカが壁一面に飾られてあったり、マニアックな忍者の専門書とか山積みされていたり、とにかく中二病忍者ワールドが繰り広げられた部室なんだろうな……)


千影は少し緊張したように顔を強ばらせながら四つん這いになると、戸口に頭だけ突っ込んだ。


「お、おじゃまします……」


中には誰もいなかった。そして、千影の目の前に広がった薄暗い四畳半の空間は、想像していた中二病ワールド全開の部屋ではなく、古びた畳の床に、丸いちゃぶ台一つと、その上にはお菓子とマンガ本などが無造作に置かれただけの、ごくごく普通の和室であった。

千影は太いお腹をねじ込ませるように戸をくぐったが、大きな尻が戸口にすっぽりとはまってしまった。


「あぁ!ケツが!ど、どうしよう!」


慌てた千影は、いったん外へ出ようとするが、尻がすっかりはまってしまって出ることができない。


「うわぁぁぁ、助けてぇぇぇ!」


千影が手足をばたつかせていると、蛍が両手で尻をぐいぐい押してきた。


「ったく!お前は!なんでこんなに太っちまったんだよ!」


「す、すみません……」


蛍が手で押すことを諦め、足で蹴飛ばすように千影の大きな尻を押し込むと、千影はやっと中へ入ることができた。


「ここが、俺たち伊賀組のアジトだ」


千影の後に続いて入ってきた蛍は、戸の外へ頭だけを出して、キョロキョロと用心深く回りの様子を確認してから戸を閉めた。

戸を閉めたとたん、部屋の中は真っ暗闇になったが、すぐにマッチの擦る音が聞こえ、そのとたん、蛍の手元にロウソクの灯りがボウっと付いた。


「まぁ、ここに座れ。いま、茶を入れてやるから」


ちゃぶ台の手前を指差すと、蛍はちゃぶ台の上のロウソク台にロウソクを立て、部屋の片隅に置いてあったポットを持ってきた。

千影はちゃぶ台の前におそるおそる座ると、目の前に乱雑に積み上げられたマンガ本や雑誌の影が、ロウソクの灯りでユラユラ揺れるのをぼんやりとみつめた。

それは、どれも忍者とはまったく関係のないマンガや雑誌であった。

千影はマンガが大好きだったが、今は入部手続きの話がいつ切り出されるのか、そればかり気になって読む気にはなれなかった。

蛍は千影の目の前にかわいらしい黒ネコの絵が描かれたマグカップを置くと、そこに麦茶を注いだ。


「ところで……」


カップにお茶をたっぷり注ぎ終わった頃、蛍がそう話を切り出したとたん、千影の身体がビクンと跳ねた。

蛍はポットを膝元に置くと、少し改まって姿勢を正して千影の顔をまっすぐ見た。


「千影、忍者になれ」


あまりにも単刀直入な蛍の言葉に、千影はショックで一瞬めまいがした。

そして、十一年前、父親が家を出る前に言ったあの一言、“実はなぁ、父ちゃんは忍者なんだ”という言葉が強烈にフラッシュバックした。

いつまで経っても何も答えない千影の様子を見た蛍は、小さなため息をついて、ちゃぶ台にほおづえをついた。


「まぁ、いまどき、とつぜん“忍者になれ!”なんて言われても、返答に困るのは当然だと思うが……でもな、お前に忍者になれというのには、それなりの理由があるんだよ」


「へ?理由?いったい何の理由があるんですか?」


千影は脱力した声で言った。蛍はちゃぶ台にだらしなくひじをついたまま、何かを言い出しづらそうに、片手をロウソクの火にかざしていた。


「それは極秘事項だから、まだ伊賀組へ入組する手続きを済ませていないお前には、詳しく話してやれないんだ」


「でも、俺、理由もよく分からないのに、忍者になんてなれないよ。ましてや、俺、忍者は九才の頃に卒業してるし……」


「は?何の話だ?」


「あ、あぁ、何でもありません!こっちの話です……」


「うーん、つまりな、その、要するに、この世が消滅するかどうか、すべてはお前にかかっているんだよ」

「へ?」


千影の頭の中には無数のハテナが沸き出した。


「何の話ですか?」


「うーん、まぁ、そうなるよな」


困ったように腕を組む蛍の姿を見て、千影はハッと思い出した。


(いっけねぇ!そういえば、この人、重度の中二病だったんだっけ!あまりにもショッキングなことばかり言うから、うっかり俺も中二病ワールドに引きずり込まれるところだった。

あぁ、つまり、この中二病ワールドでは、今、まさに世界が消滅するか否かっていう設定なんだな!そこで、実は特殊な能力を隠し持っていた俺が仲間に入って、スーパー忍者戦隊を形成して、悪の親玉を成敗して、この世を救う……というていなんだな!

冗談じゃねぇや!こんなバカげた忍者ごっこ、いつまでもつき合ってられるかっての!)


千影は腹の底から血液がふつふつと湧いてくるような気がした。

口を閉ざしたまま顔を真っ赤にして、しかめ面でうつむく千影を見て、蛍は口を開いた。


「まぁ、とりあえず、忍者になるかどうかは、伊賀組の頭である湊さんに直接言ってくれ。俺はお前をここへ拘束する権利はないからな」


そう言うと、とつぜん、蛍は上半身を前に乗り出して千影に顔を近づけた。

それに驚いた千影は身体を後へ退こうとしたが、金縛りにあったように身体がまったく動かない。

蛍の鋭く光る眼光に目を捕われた千影は、まばたき一つせず、蛍の大きな瞳を見た。


「だがな、千影、これだけは忘れてくれるな。天上天下、お前を必要としていることを。忍者になるかどうか、お前の意志が固まりしだい、この笛を吹け。俺が、お前がいるところまで迎えにいって、ふたたびこのアジトへ連れてきてやるから。俺は、お前のことを信じている」


そう言うと、蛍は覆面越しににっこりと微笑み、銀色の筒状の小さな笛を千影の鼻の先に差し出した。千影はこれを寄り目がちに見たまま、おそるおそる受け取った。

すると、蛍はまた気が抜けたようにほおづえをつくと、おもむろに目の前のマンガと雑誌の山の中から一冊の本を取り出した。

そして、その本の表紙が目に入った瞬間、千影の表情は一変した。


「お、おい!そ、それ!それは!!!」


千影は興奮して思わずその場に立ち上がって蛍が持っている本を指差した。


「ん?これか?これは、今や日本のトップアイドルグループに君臨する、五人組アイドルユニット戦国少女隊の人気アイドル、つばきたんの直筆サイン入り特大ポスターまで付いた、一日限定販売の超プレミア写真集だが……これがどうした?」


それは、千影が今年の二月、高校受験があったせいで買いそびれた、千影の命がけで追っかけているアイドルの、のどから手が出るほど欲しい写真集であった。

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