第三章・D ある少女の記憶 4

「えー、時間がかかってしまいましたが、授業、再開したいと思います」


私は教壇に立って言う。

あの事件(勿論、アニーが攫われた事件の事だ)から二週間経った。元々、あの時出かけたのはアニーの授業をどうするかという事だったが、結局、事件のせいで何の参考にもならなかった。それから、丸々一週間、私はどうするべきか考え続けた。途中、パパが手助けをしようとして、何度か部屋で考え込む私を除きに来ていたっぽいけど、私は無言でそれを制止し続けた。


これは、私だけでどうにかしたい。そんなつまらないプライドがあった。でもきっと、大事な事だ。


「いえーい!」


アニーが、私の声に答えて拍手をする。


「私は考えました。どうやったらこの不肖の生徒に勉強を教える事が出来るのかと!」

「ふしょう?」

「頭が良くないって事」

「なるほど……それでそれで?」


アニーはちょっとの皮肉や悪口では動じない。まあ、多分馬鹿だから気が付いてない。


「最初は、何か覚えやすい形でって思ったの。色々本を読んで調べたんだけど、例えば好きな物に対する集中力を利用するとかね。私の話だけど、面白い小説とか、パパの助けにと思って読んだ本は、内容を一発で覚えられた」

「なるほど! 確かに好きな人とか物とか、めっちゃ覚えてるかも!」

「でもこれは却下」

「なんで!?」


驚くアニー。私は手を組んで、アニーを鋭く睨む。


「アニー、質問」

「何でもどうぞ!」


「好きな人は?」

「メーナちゃん!」


「好きな物は?」

「メーナちゃんの唇!」


「好きな本は?」

「メーナちゃんが読んだ本!」


「勉強が上手くいったご褒美に、何が欲しい?」

「メーナちゃんを好き放題する権利!」

「ハイ却下」

「なんで!?」


この子、私を好きすぎる。

……何も好かれるようなことをした覚えはない。本気で言ってるかも怪しい。


まあ、それはこの際どうでもいい。


「さて、この案は却下するとして、私が考えた方法を発表します」

「なんですか!」

「正攻法」

「性交法?」


違うわバカ。二度と言うな。

私は咳払いをする。


「真面目にやるって事。思えば、私は一発で覚えられたから、アニーも覚えられるだろうと思って、アレコレやらせようとしていたのが間違いだった」

「なるほど」


そう。私はあの時、国語に加えて現象学とか魔法学等々、色々並行してやろうとしてた。実際、パパがそうやって教えていた。だからアニーにも同じようにしたのだが、これが良くなかった。


「なので、一回一回を少なくして、たくさんやらせようと思います」

「ほう」

「まずは文字の書きから。とりあえずレグム語全27文字。書けるようになるまでやってもらいます。一つずつね。最初にアニーに書かせるから、それで覚えていた文字は後回しにする。じゃあまず"あ"から。書ける?」

「忘れました!」

「よろしい」


予想通りだ。

私は黒板に大きく"あ"を書いた。そして、


「アニー、この見本を真似て、紙に同じように書いて。一時間ね」


アニーに言った。我ながら、凄い事を言ってる。私なら絶対嫌だって言ってる。


「わかった!」


しかしアニーは、嫌な顔一つせずに紙に"あ"を書き始めた。

それから一時間。アニーは紙に文字を書く音を、響かせ続けた。凄い集中力だった。こういう所は、尊敬すべきだと思う。



あれから三日が経った。


私は、パパの書斎を訪れた。経過報告のためだ。

私が書斎に入ると、パパは机の上の書類を片付け始めた。私は、部屋の隅にあった椅子を、パパの向かいに置いた。パパの机は身長のせいでかなり高い位置にあるので、この椅子は特別製だ。


私が席に座ると、パパはゆっくり立ち上がって、部屋の中の冷蔵庫からお菓子を、その上に置いてあったポットを傾けて紅茶を入れた。そしてその二つを、私の前に置く。私はお礼をいってから、それをつまむ。


「それで、経過はどうなのですか?」

「バッチリ。一日六時間。覚えていた文字もあったから、三日で終わった」

「それはそれは。素晴らしい。アニーもですが、よく頑張りましたね。メーナ」


頑張ったと言われたけど、正直全く頑張ってない。アニーに書けと言って、ずっと書かせてただけだ。ばつが悪いから、何もせずにずっと待ってはいたけど。


「頑張ったのはアニーだよ、パパ。私はただ待っていただけ」

「だとしてもです。一度は挫折しながらも、反省し、君はこうして成果を出した。これが頑張りでは無いというのなら、何でしょうか。本来ならば、私がやるべき事でした。押し付ける形になって、申し訳ありません」


私は首を横に振る。


「ううん。パパは私のためを思って、アニーの教師をお願いしたんでしょ? 私、パパが言っていた事が少しだけ分かった」

「そうですか。良かったです。それからメーナ、一つお聞きしてもいいですか?」

「ん? 何パパ?」


私はお菓子を摘まみながら言った。


「アニーの事は、好きになってくれましたか?」

「……嫌いじゃない」


パパは、心底嬉しそうに笑った。豪快って言うより、笑いが止まらないって感じだった。


「嫌いじゃないだけだから!」

「分かってます。分かってますよ」


パパは笑い交じりに言った。ちょっとだけ、ムカつく。


「もうヤダ。パパと暫く話さない」

「すみませんでした。私が悪かったので、許して下さい。もう笑いませんから」

「……許す」

「ありがとうございます」


この流れは、私たち二人にとってのお決まりみたいなものだ。パパは時々、こうやって私に意地悪をする。私も、時々意地悪をする。そうなったら、こうして一度リセットするのだ。


「ねえパパ」

「どうかしました?」

「パパの膝の上に座っていい?」

「……ええ、構いませんよ」


残ったお菓子を口に放り込んでから、私はパパの膝の上に座って、パパに凭れる。パパの体は、いつも温かい。パパは何も言わず、私の頭をゆっくり撫でた。


そう言えばこれ、久しくやっていなかったな。事件だったり、アニーの準備で忙しくて、パパに甘える時間が無かった。


「パパ、私ね、やっぱりパパが好き」

「……アニーと何かありましたか?」


ドキりとした。心臓が跳ねた音が、パパに伝わらないか不安だった。


「っ!? 何もなかった!」

「そうですか。パパも、メーナが好きですよ。でも」

「でも?」


パパは私の頭を撫でる動きを止めた。


「いつか、私より好きな人を見つけてくださいね」


パパが、私の頭から手を離そうとした。私は、それを両手で掴む。


「……いやだ。何でそんなこと言うの」

「親だからですよ」

「分かんない」


パパは小さく笑った。


「ですよね。でも、いずれ分かるようになります。病気が治ったら、君も親になれますから」


親……。親かあ。

なりたくないとは思わないけど、でも、私は見た目が魔族に近い。パパみたいに、産まれた子ども上手く守れる自信が無い。


いや、それよりも――って、どうやるんだろう。ママがいない私には、それが分からない。


「私には、まだ実感が無いや」

「まあ、結局、病気を治さないとどうにもなりませんからね。そう言えばその事なんですが、今、かなり有用性の高いと思われる治療法の準備をしています。これには長い時間が必要なので、暫くは定期健診以外で、研究所に行くことは少なくなると思います」

「分かった。ありがとう、パパ。私に出来る事があったら、何でも言ってね」

「はい。頼りにしてますよ」


きっと、私に出来る事なんて何一つないんだろう。でもパパは、嘘の匂い一つさせずに、私をこうやって頼りにする。私にとっては、凄くそれが嬉しい。


「……パパ。もうちょっと撫でて」

「はいはい」


パパは暫く私を撫で続けた。私達に特に会話は無かったけど、私は満足だ。

だんだんと、瞼が重たくなってきた。そのうち、私は眠ってしまった。



*   *   *



あれから、一ヶ月が経った。授業の進みは遅いけど、順調だった。アニーは一週間で文字と、それから数字を完璧に書けるようになった。


二週目は単語の書き取り。これはそこまで苦戦しなかった。語彙力が少ないという問題はあるけど、知ってる単語に関してはそのまま書けばいいだけなので、一部の例外的な単語を教えるだけで良かった。


語彙力に関してはまあ、おいおいでいいだろう。


三週目から、算数を教えることにした。正直に言うと、かなり苦戦すると思ってた。しかし、意外にも、アニーはすぐに四則演算をマスターした。進みが良かったので、難しい問題も出してみた。けど、アニーは、その問題を簡単に解いてみせた。


実のところ、私は算数が少し苦手だ。パパの授業を受けていた時、一番理解に時間がかかった。それ故に、前の授業の時は後回しにしていた。こんなに出来るなら、もっと早めにやっておけば良かったと、今更ながら思った。


確かに、算数はそこまで暗記の必要性はない。けど、それだけでは算数が得意な理由にはならない。アニーに、何故算数が出来るのか聞いてみた。すると彼女は、


「……難しいの? これ?」


と答えた。彼女にはどうやら、算数の才能があるらしい。羨ましい限りだ。


一応、スラム街に住んでいた時に、金勘定が出来ないと簡単に騙されるらしく、それで基本的な計算は覚えたのだとか。理由はなんであれ、出来る事に越したことは無い。


四週目は、文法である。基本的なものについて、アニーに教えた。算術が得意だと分かったので、試しになるべく理屈で文法を彼女に説明してみたのだが、これがかなり効果的だった。どうやら本当に、彼女は暗記が苦手なだけのようだった。何と言うか、前の授業の時の私を、厳しく叱ってやりたい気分になった。


とは言ったものの、文法に関しては、本当に先が長い。一週間で終わるわけが無いし、ぶっちゃけ、私も完璧ではない。とりあえず単語と合わせて、根気強くゆっくりとやろうと思っている。私の勉強にもなるだろう。


アニーへの授業は、すこぶる順調だった。一ヶ月前が、嘘のようだ。


しかし、一つ順調じゃない事がある。アニーの事じゃない。私の事だ。一か月経っても、パパは定期検査以外で、私を研究所に呼ばなかった。一月前、パパが『有効性の高い治療法の準備をしている』と言っていた。長い期間が必要とも言っていたけど、あれから一月、全く音沙汰が無い。


パパがそれで大丈夫。と考えているなら、それでも問題ないんだろうけど、でも、何も言ってくれないから、パパの事が不安にもなりはする。


そんな事を、もやもやと寝る時に考えている時の事だった。


「メーナちゃん? どうかしたの?」


アニーが背後から、話しかけてきた。私に抱き着いたまま。


そういえば、この一ヶ月の間でもう一つ変化したことがある。それは私とアニーが、一緒に寝るようになった事だ。アニーがある日突然、私のベッドに潜り込んできた。一月前なら、私は拒否していたかもしれない。


でももう今は、何と言うかそういう彼女のセクハラまがいの行動になれてしまった。その時の私は、「好きにしたら」とぶっきらぼうに答えた。その結果、あれから毎日一緒に寝るようになった。まあ、アニーは別にいびきをかいたり、寝相が悪く私を蹴とばしたりはしないから、寝るのに問題は無い。


「アニーってさ、私の病気の事、聞いた?」

「うん。ちょっとだけ。詳しい事は何も」

「……あのね――」


アニーと出会って、おおよそ二ヶ月。私は生まれて初めて、パパ以外の人間に自分の病気の事を話した。二ヶ月前の私に、今の状況を言っても信じないだろう。


「じゃ、じゃあ、アニーちゃんは死んじゃうの?」


アニーのぐずる声が聞こえた。

……パジャマを濡らして無いと良いけど。


「……パパが言うにはね、恐らく後二年程で私は症状が本格化するんだって。私の中の魔力が、魔力抵抗によって脳組織や臓器……まあ、体の大事な所を破壊するようになって、恐らく私は満足に生活が出来なくなる」

「そんな……。そんなのって、あんまりだよ」

「大丈夫。パパが何とかしてくれるから。今、効果の期待できる治療法の準備をしているんだって」


あくびをしながら、私は言った。


「メーナちゃん、怖くないの?」

「パパならきっと、何とかしてくれるよ。だって賢者なんだから。それにアニーも言ってたじゃない。幸せに目を向けろって」


アニーは何も言わなかった。ただ、小さく私の服を引っ張った。


「アニー。私ね、アニーが言ったあの言葉、結構グッと来たよ。昔の話なんだけどね、私、パパがいる時は大丈夫だったんだけど、たまにね、一人でいる時に突然怖くなったりしたんだ。パパにも出来ない事はきっとあって、それは実は私の病気を治す事なんじゃないかって。でもね、アニーにああ言ってもらって、その、上手く言えないんだけど、怖くなくなった。少なくとも、病気で死ぬことは」

「……私は、メーナちゃんの力になれたの?」

「うん。だから、泣かないで良いんだよ。私が死んじゃったら、その時はその時だよ」

「メーナぢゃん゛!」


泣かないで良いと言ったのに、アニーはわんわん泣いた。まあ、泣くと思っていたけど。今日くらいは許してやろう。何の記念日でも無いけど。


「冷たっ!?」


背中に、濡れたパジャマが皮膚に張り付く感覚があった。私は勢いよく寝がえりをうった。アニーの涙と鼻水で、シーツがぐっしょり濡れていた。


「アニーの馬鹿! パジャマ濡らすな!」

「だっで……だっで……」


アニーはますます泣き出した。こうなると、あと三十分は止まらない。

時間は分からないけど、多分結構いい時間だろう。早く寝ないと、明日に障る。


「あーもう! ハグしてあげるから、さっさと寝ろ! 明日も朝から授業やるんだから!」


やけくそ気味に言って、私はアニーを胸元に寄せる。


「……うん」


そう言って、アニーは赤ん坊のように大人しくなった。泣くのも喚くのもやめて、私の胸に、ぴったりと顔をくっつけた。


……ぐちょぐちょの顔面で。


はあ、気に入ってたパジャマだったのに。



*   *   *



それから、一月、二月と、時は流れていく。

相変わらず、授業は順調だが、私の治療は進まない。パパに何となくその事を聞いたら、「問題ない」と言っていた。パパがそう言うならと、私はそれ以降、その事を聞くのを止めてしまった。


冬が終わって、春が来た。


春からは、アニーは魔法学を学ぶことになった。しかしこれは、私ではなく、パパが教える事になった。私の病気の事を考えて、念のためだそうだ。アニーとパパが魔法の練習をしているのを、私は隣で眺めていた。


アニーは案外、魔法を使うのに苦戦していた。というのも、パパが言うには魔力総量がかなり低く、底上げをしないと消費量に届かないとのことだった。


たしかに、低いだろうなとは思っていたけど、普通以下だとは思っていなかった。私の魔力感知能力は、ある程度大きい魔力でないと感じ取る事が出来ない。というかまあ、魔族含め、大抵の人は皆そうらしいが。


アニーは苦労しながらも、一ヶ月かけて力場魔法を成功させてみせた。力場魔法は、初等学校で最初に習う魔法で、魔法の基礎中の基礎の魔法だが、それでもアニーはよく頑張っていたと思う。私の授業の時もそうだけど、彼女の熱量はすさまじい。アニーのトレーニングを横で見ていたけど、よくまあ、あんな地味なトレーニングを何時間も出来るなと思う。


夏になるころには、アニーは初等魔法のあらかたを習得した。……と言えば聞こえはいいが、どれもこれも、一回使ったら魔力が切れるし、効果はしょぼい。ちょっと重めの石を数十秒持ち上げたら、それで魔力が切れる。


まあそれでも、習得は習得だろう。ここは素直に、彼女を褒めておこう。



夏の終わりからは、現象学の入門を学ぶ。教師は再び、パパから私にバトンタッチだ。現象学は、その名の通り自然現象を学ぶ学問の事だ。この学問は高等学校に入ってから学ぶ、現象魔法の基礎になるものだ。


算数があれだけ得意だったアニーだから、現象学も得意……だと思っていだが、滑り出しはあまり順調では無かった。アニーが理解しやすいようにと、なるべく理屈っぽく説明してみたが、彼女は申し訳なさそうに首を傾げるだけだった。


これに関しては、多分私が悪い。というのも私は魔力が高く、魔力の流れを何となく感じる事が出来る。だから、目の前で起きる現象に対して疑問をあまり持たない。魔力がこう流れているのだから、こういう現象が起きる。そのようにしか認識する事が出来ない。


そんな訳で、最終的に強硬手段を取る事にした。「理屈を抜きに覚えろ!」作戦だ。パパを頼ってもよかった気はするけど、まあ覚えられれば何でもいいだろう。多分。


……そういえば、アニーは初等学校の卒業認定試験。受けないのかな。今のアニーなら、ちゃんと対策さえしたら普通に合格できると思うんだけど。


と、そんな話をパパにしてみた。するとパパは


「戸籍が無いので、受ける事が出来ないんですよ。この国で戸籍を得るためには、未成年者は保護者がいなければいけません。一番は私が引き取る事なのですが、私は戸籍上独身なので、養親になる事が出来ないんです」


と言った。

戸籍上独身なら、私はどうなるんだろうと思ったが、そこについては問題ないらしい。なんでも、賢者の権力で何とかして、私をパパの娘という事にした……と、パパは言っていた。


賢者パワー、恐るべし。


つまりアニーは、引き取り手が見つかれば卒業認定試験を受蹴る事が出来る。でも逆に言えば、私達の元にいる限り、アニーに真の意味での自由は訪れない。という事だ。


……この話は、今はあまり考えたくない。

今日のその夜。私は寝ている間、ずっとアニーを抱き枕にして離さなかった。



秋が終わる頃には、アニーはほぼ初等学校を卒業出来るほどの学力を身に着けた。毎日10時間。それを10ヶ月ほぼ毎日やった。後半からは、私もさすがに疲れ始めて、パパと交代しながら授業をした。アニーはそれを全て真面目に取り組んでいたのだから、彼女の体力と精神力は脱帽モノだ。


魔法の方は未だにからっきしだけど、卒業認定試験に魔法の実践分野は含まれないので、多分問題ないだろう。高等学校に進学するなら別だけど、まあアニーなら頑張って何とかできる筈だ。



そして、冬がやって来た。

アニーと出会ってから、一年が経った。


その節目に、私はパパにパーティーをしようと言った。パパも賛成してくれた。ケーキと、アニーへのプレゼントとして、ちょっと高めのネックレスを用意した。サプライズも少し考えたけど、パパも私も、そういう計画を立てるのが苦手だ。背伸びせずに、ちゃんとお祝いしよう。という事になった。


そしてパーティー当日。ケーキ以外にも、私とパパは可能な限りのご馳走を用意した。パパと私とアニー。パーティーにしては人数が少ないかもしれないけど、私には有り余るくらいだ。


ひとしきり、ご飯とケーキを食べて騒いだ後に、私は改めて、アニーにネックレスを渡した。アニーはすごく喜んでくれた。そして


「ねえメーナ。もし良かったら、私の首にかけてくれないかな?」


アニーはそう言った。

この一年で、アニーは色々変わった。話し方が、前よりずっと大人になったし、食べ方もかなり綺麗になって、私を呼び捨てにするようにもなった。


そして何より。


「……私じゃ、アンタの首に届きません」


そう。アニーはこの一年で、急激に背が伸びた。一年前は、私と同じ150cm前後だったのに、今や彼女の身長は170cmを超えている。私は全く伸びていない。横に並ぶと、まるで母親と娘だ。


それなのに、彼女が成長しているのは背だけではない。胸も尻も月ごとに大きくなっている。今の彼女の谷間は、私の腕が埋められるほどだ。一緒にお風呂に入るたびに、やり場のない怒りが私に降り注ぐ。寝る時に抱き枕にしようとした時に、背中に腕が届かなかったときは流石に焦った。


ちなみに、私は相変わらずの絶壁である。胸のむの字も無い。もしかすると、私の成長する分は、アニーに吸われているのかもしれない。


そう考える事にしよう。そしたら、幸せだ。


「しょうがないなあ」


アニーは軽口を叩いてから、私にも届くようにしゃがんだ。私はネックレスを彼女に首にかけた。綺麗な宝石をあしらった、シンプルなチェーンネックレスだ。素材が良いから、シンプルな物が良いと思っていたけど、立たせてみると予想通りだった。装飾品が大量にあるゴテゴテとしたものより、アニーを引き立てているような気がする。


「ありがとう、メーナ! 大好き!」


何の恥ずかし気も無く、アニーは私を抱きしめてそんな事を言う。


彼女と出会って一年。

最初は、あまり好きじゃなかった。


気に入らない事もあった。

出来ない彼女に、ムカつきもした。


でもそれは、自分の愚かな勘違いだと気が付いた。

その事に気が付いてから、私は彼女の事が嫌いではなくなった。


この一年の間、私はアニーを褒めたり、感謝することはあっても、アニーに対して、自分がどう思ってるかを言わなかった。


考えれば、酷い事をしたと思う。

もし私が、パパに好きだと言って、パパが何も言ってくれなかったら。


そんなの、怖くて仕方がない。嫌いだと言われるのは怖い。でも分からないのは、もっと怖い。それなのに、アニーはずっと、答えてくれない私を好きだと言い続けた。皮肉屋で、簡単に人の事を見下して、素直になれない。そんな私をだ。


アニーには心を読む能力がある。ただし今は何らかの原因でそれを使う事が出来ない。多分、心理的なトラウマが原因だと思う。


という事はだ。


アニーはきっと、昔はその能力を使って他者とのコミュニケーションを取ってきた。でも今はそれが出来ない。だから今の彼女は、人並み以上に他人が今何を考えているのか分からないのだ。だから、私の皮肉や、馬鹿にした言動に彼女は気が付かなかったのだ。


どれだけの不安があっただろう。突然、暗闇の部屋の中に放り込まれて、それでも出口を目指さないといけない。そんな気分なのではないか。


彼女の立場で考えれば、いつ私やパパに捨てられてもおかしくない。

それでも彼女は、私を信じ続けた。パパを信じ続けた。悪人だらけの街に住んでいたのに、能力を失っていたのに、私達を善人だと信じて疑わず、平凡以上の生活を求めなかった。


濁流にのまれた彼女の心は、とても強く美しかった。



……だから、だから言わなくてはいけないのだ。

ちゃんと言葉にして伝えなくては駄目なのだ。

この想いを。


「私も、大好きだよ」


私も抱きしめ返して、アニーの耳元で囁く。

やっと私は、心の奥底に仕舞っていた気持ちを言葉にして吐き出した。


いつから、彼女の事を好きになったのだろう。

分からない。あの事件の時かもしれないし、ファーストキスを奪われた時かもしれないし、お出かけした時かもしれないし――あるいは、初めて会った時かもしれない。


……いや、それは流石にないか。


「え、嘘? ホント!? 良かったぁ……。私ずっと、実は嫌われてるんじゃないかって、嫌々付き合ってるんじゃないかって、思ってたんだ……」


涙声で、アニーは言った。

気が付くと、彼女の手が震えていた。


ああ……。ホントに、ホントに私の気持ちが分からなかったんだ。

この気持ちはずっとずっと前から、持っていた物だ。私が素直になれないせいで、必要のない苦しみを与えてしまった。……悪いことしたな。


「ごめんね。私、恥ずかしがり屋だから、今までなかなか言えなかった」

「……」


アニーは何も言わなかった。

あ、あれ? もしかして怒った?


「あ、アニー?」

「……怒った」


アニーが言った。

怒ったとは言ったけど、この言い方はあれだ。何かして欲しい事があるときのやつだ。


「ごめんなさい。その、私に出来る事なら、何でもするよ?」

「ねえ、エクスさん」


アニーが、私ではなくパパに声を掛けた。よくよく考えたら、今の一連の流れを、パパも聞いていたのか。冷静に考えると、すごく恥ずかしい。


「は、はい。何でしょう?」

「不躾なお願いなのですが、席を外して頂けないでしょうか」


アニーの敬語だ。凄く新鮮で、彼女の成長を感じる。

暫くパパは、動きを止めていた。何か、考えているようだった。


「……私、急用を思い出しました。今日は恐らく帰ってこないと思います。二人で留守番しておいてください」


暫くして、パパは席を立った。

パパの急用は結構珍しい。家を空ける時は、必ず事前に私に伝えるのに。


……そういえば、最近、パパは博士の所に行ってない。まあ、私には関係ないか。


パパは、ドアノブに手をかけた。そしてアニーに振り返る。


「アニー。なるべく、無茶はしないで下さいね?」

「ご許可感謝します!」

「許可はしてません。急用で家を空けるだけです」

「失礼しました! いってらっしゃいませ!」


二人の会話は、いまいち要領を得なかった。

どういうことなのだろう。いつの間に、二人はそこまで仲良しになったのか。


少しだけ、嫉妬した。


「では、行ってきます」

「いってらっしゃい」


私の言葉を待ってから、パパはドアノブを捻った。そしてそのまま、冬の夜道に混ざるように消えた。



パパの姿が消えて、部屋には、私とアニーだけが残った。アニーはなかなか、抱きしめたままの私を離そうとしなかった。まあでも、この一年間、何度彼女とハグをしただろうか。正直慣れっこだ。


「アニー、片付けしたいから、ちょっと離れて」


とはいえ、目の前の食器や食べ残しを放置する訳にもいかない。私がそう言うと、アニーはすんなり手を離して、


「私も手伝うよ」


と言って、私と一緒にパーティーの後始末を始めた。

食べれるものは冷蔵庫に仕舞って、食べ残しやクズはごみ箱に捨てて、食器は洗剤を使って水で洗う。


「さっきの話なんだけどね」


食器を洗っていると、アニーが私に話しかけてきた。

さっきの話って事は、私に何かして欲しい事があるのだろう。


「うん」

「して欲しい事があるって言ったんだけど、その前に、言わなきゃいけない事があって」


アニーは私に渡された食器を拭きながら、そんな事を言った。


言わなきゃいけない事……?

何だろうか。特に思い浮かばない。と言うかそもそも、アニーは何でもかんでも思ったことを私に言う。

聞いたことが無い話と言えば、アニーの昔話くらいだ。


まあ、それに関しては永遠に聞くことは無いだろう。

人には一つ二つ、そんな話があるものだ。パパにも、聞けない話はある。


「何よ、改まって」

「えっと、私ね……」


と、アニーはそこで言葉を詰まらせた。その先を、言い淀んでいた。

明らかに様子がおかしい。私は手を拭いて、アニーの背中に手を回す。


「言いたくない事だったら、無理に言わなくていいんだよ?」


私がそう言うと、アニーは涙を流し始めた。彼女の表情は動かず、ただひたすらに一点を見つめて、無表情のまま、涙を流していた。まるで涙を流していた事に、気が付いてないようだった。


なんて声をかけようか、ずっと考えていた。彼女は良く泣く。でも、こんな風に泣いたことは一度も無かった。だから、どう声をかければいいか分からなかった。


それでも、何か言わなければ。そう思って、私が口を開いた時だった。


「ごめんね。泣いちゃって。泣かないって、決めてたのに」


私に顔を向けて、声を震わせながら、アニーが言った。彼女は先と変わらぬ量の涙を流していた。


「あ、ううん。大丈夫……。何があったの? ゆっくりでいいから」


私には、そう言うしか無かった。ここ最近、彼女とはずっと一緒にいた。特に、アニーが泣くような出来事は無かったと思う。でもそれは、私の中の話でしかない。


私が人とは違う悩みを抱えているように、アニーにも、人とは違う悩みがある。パパにも、人とは違う悩みがある。みんなきっと、そんな物なのだろう。


それを分かってあげる事は出来ないかもしれないけど、慰めたり、ハグしたりすることは出来る。それで何が変わるとも思えないけど、アニーが言う『幸せなことに目を向ける』手助けが出来るかもしれない。


だから、アニーが何を言っても、私は大丈夫なつもりだった。一緒に寝て、ハグしてあげれば、アニーはきっと元気になる。そう思っていた。


なるべく話しやすい空気を作ろうと、私は中断していた皿洗いの続きを始めた。だけど、アニーは泣くのを止めない。それでも必死に、上を向いたり目を拭ったりして、涙を何とかしようとしていた。


そして、何かを決意したように、両手を強く握って、私に向いた。

私も、それに合わせてアニーを向く。


何が起こっても大丈夫。私とアニーと、パパがいれば。


「……私の引き取り先が見つかったんだって。だから、今月いっぱいでここを出ることになっちゃったの」



何かが割れる音がした。

それは私の持っていた皿が割れた音だった。

でも、私がそれに気が付いたのは、ずっと後の事だった。

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