第三章・C ある少女の記憶 3

それから、私は、うずくまって目を閉じて耳を塞いでいた。

眼が熱い。頬が冷たい。鼻水が、口の中にずっと入っている。


耳を手で塞いでいても、男がアニーを殴る音が聞こえた。


「……なぁ」


音が止んだ。薄暗い雪の中で、アニーのか細い呼吸音が聞こえた。


「せっかくお友達が頑張ってるんだからよ、しっかり見てやったらどうだ?」

「……い、いやだ」

「見なきゃ今すぐ殺すぞ?」

「っ!? わっ、わかった! わかったってばあ!」

「そうか! それは良かった。ほら、しっかり見てやれよ」


男が嬉しそうに言って、アニーを投げた。アニーは私の腕の中にすっぽりと納まった。


「めー……なちゃん?」


私の腕の中のアニーが、顔を上げた。ボロボロだった。目も鼻も口も耳も頬も額も髪も、全部の形が歪んでいた。頭から首まで真っ赤だった。それから、片腕が明らかにおかしい方向に曲がっていた。気絶するどころじゃない。死んでいたって何もおかしくない。


「なんで……なんでこんなっ! 酷い事が出来るの!?」


私は叫んだ。体は案外、あっさりと動いた。私は自分をまた嫌いになる。


「なに、お前のためさ」

「これが私の何になるってのよ!」

「馬鹿なお前に教えてやってるんだよ。節度って奴をよ」


何も言えなかった。アニーを助けるだけなら、不意打ちをして逃げればよかった。結果論だけど、そうした方がまだ勝算があった。私は、もっと楽に勝てるだろうと思っていた。だから、その選択をしなかった。


そうだ。これは私の油断と、軽率な行動が引き起こした結末だ。どうしてそこから、逃げようとしていたのだ。


「世の中にはな、上には上がある。下には下があるようにな。王国騎士団にいたときに学んだことだ。俺も昔はお前みたいによぉ、自分が一番上だと思ってたよ。それが、今となってはこのザマだ。ホント、クソみたいな人生だったよ――だからよ。お前の人生もクソみたいにしてやろうと思ったのさ。良かったな。お前は今日、大切なことを学ぶのさ。最も、そいつが俺に勝ったらの話だがな」


男は大きな声で笑った。そしてそれは、しばらく続いていた。


気づけば、私は怒っていた。とてもだ。怖いだとか痛いだとか、そんな気持ちはすでに消えていた。人生で、これほどまでに怒った日は無い。でもそれは、男に対してではない。自分自身に対してだ。我が身可愛さに、アニーを傷つけた。そんな浅ましくて、卑怯で、醜い心に対してだ。


――いや。もはや、怒りを通り越して呆れていた。


そう。だから。

これはやけだ。自暴自棄なのだ。


私は、アニーを抱きしめた。なるべくこれ以上傷つかないように。それが、私の出来る精一杯の謝罪だった。


「ごめん……ごめんね。アニー。弱い私でごめんね。今のままじゃあいつには勝てそうにない。だから――」


私はアニーの額に、自分の額をくっつけた。


「アニー。あなたの勇気を、心を下さい。どうか、弱い私に力を下さい」


アニーが何か、言った気がした。

でももう、私の耳には届いていない。



男が、笑うのを辞めた。私はアニーを寝かせてから、ゆっくりと立ち上がって、男へ向かって歩く。


「いいねぇ。若いって」


――私には、人並み以上の力がある。


「お前はその気になった。という事で良いのか?」


――しかし私自身が、その力に耐える事が出来ない。


「……何か言えよ。つまらねえからよ」


――だから。私は常に力をセーブしている。せざるを得ない。


「はあ。つまんね。もういいやお前。死ね」


――それを止めてしまったらどうなるか。


それは――私には分からない。パパにも分からない。誰にも、分からない。


私は、男に手のひらを向けて、魔力を込めた。そして、男に向かって、力場魔法を撃った。



――午後五時二十三分。レグム王国の都市部にて、約400m程の直線上にある建造物が全て破壊される事件が発生。正確な被害状況は未だ把握できず、少なくとも数十名の軽症者が確認されている。警察の調べによると、衝撃の発生地点は大通りから少し離れた位置にある廃屋と推定されている。容疑者は不明。警察は、テロの可能性も考慮し、軍との共同で捜査をしている。



「う……うそ?」


魔法を使った瞬間、男の姿が消えた。そして、世界に穴を開けた。男は床を、壁を、建物を――全てをなぎ倒して、見えなくなった。


――私の力は、ここまで強大なの?

恐怖と、罪悪感と、興奮と、焦り。いろんな感情がごちゃ混ぜだった。自分の力が、ここまで強いとは思っていなかった。体が震えていた。恐怖で震えた? 武者震い? それすら、分からない。


初めて使った、私の全力。それは私の存在を示すには十分だった。


そして――


「いあああああああああ! いたい! いたいいいいいい!」


激しい頭痛が私を襲った。脳味噌を丁寧にナイフで切り分けられているような痛みだった。


胃から何か、液体のようなものせりあがってきた。その液体は遠慮も無しに、私の塞いでいた口から流れ始めた。液体は、鼻からも、目からも流れはじめた。それが血であるとは、結局、最後の最後まで気が付かなかった。


頭痛がほんの少しだけ収まった頃、魔力込めた右手の指が、全部ひしゃげている事に気が付いた。ようやく頭が、折れている事を理解したらしい。また私に、激痛が襲った。


地面をのたうち回って、痛い事を全身を使って表現する事が、私に出来る精一杯だった。私の耳は、私の声以外を、すべて拒否していた。


筈、だった。



「痛てえな、畜生め」


その声は、嫌なほどはっきり聞こえた。男の姿は何処にあるか分からない。見ている余裕が無かった。


「痛ッ! なぁ!……んで!」


床に這いつくばりながら、私は必死に叫ぶ。


「いやぁ、今のはまーじで死ぬかと思ったぜ。何とか障壁魔法の展開が間に合った。それでも完全に防ぐことは出来なかったがな。腕一本持ってかれたよ。だがまあお前を殺すだけの力はギリギリ残ってる。そんな風になっちまうのも頷ける威力だ」


男が言った。私は残った力を何とか振り絞ろうとする。だけど、上手く力が入らない。左手を使って、何とか立ち上がろうとした。しかしそれより先に、男が足で私を押さえつけた。


「だが――その割に、俺にビビってたのが解せねぇ。なーんか引っかかるが……。その様子だと、答えるのは無理そうだな。復活する前に、始末をつけさせてもらうぜ」


私は男を睨んだ。ありったけの怒りと、憎しみと、憎悪を込めて。しかし何も現実は変わらず、丸い月が、男のはるか上空で佇んでいた。


気がつくと、頭痛は嘘のように消えていた。そしてそれは、使。左手も、両足も、全く動いてくれない。私の体はもう、殆どが機能を失っていた。


――ああ、これはもう、無理だ。

私は悟った。


死ぬのは怖い。だけどそれ以上に、アニーに対して申し訳無いと、謝罪の気持ちでいっぱいだった。最後に、何か一言でも彼女に言いたかった。だけど、心の中で謝る事が、私に出来る全てだった。


覚悟を決めたかのように、私は目を閉じた。もう、自分にはどうする事も出来ないと、分かりきっていたから。その瞬間。


――メーナちゃん。私に任せて。


アニーの声が、私の頭の中に響いた。



まるで誰かに起こされたかのように、私は目を見開いた。

目の前にいたのは、アニーでは無かった。


無茶な魔法の使い方をして、傷ついた私の体は、もう何処も機能していない筈だった。

しかし――私の体は、大粒の涙を流した。


「遅くなってしまい申し訳ありません。今助けます」


目の前に立っていたのは、パパだった。パパが、アニーを抱きかかえているのが見えた。アニーは緑色の光に包まれていた。恐らく、パパがアニーに治癒魔法を施しているからだろう。


「アニーの呼ぶ声が聞こえました。……彼女が、私をここに導いてくれたんです。彼女の持つ祝福でしょうか。あの方の精神干渉魔法に似たものを感じました。まるで、頭の中に直接流れ込んでくるようでした」


パパが言った。アニーにそんな能力があるなんて知らなかった。彼女の事を気にかけていたら、気が付いたのかもしれない。


私を足で押さえていた男の舌打ちが聞こえた。私の頭に掛かっていた重さが、どこかへ消えた。


「……逃げましたか。追うのは得策では無いですね」


パパが、私の元に駆け寄って、アニーと一緒に抱きかかえた。

凄く、凄く凄く、大きくて、暖かくて、頼もしくて、安心する。


私はすぐに、瞼が重くなっていくのを感じた。


「ありがとう。メーナ。君のおかげで、君のおかげで――」


パパが私に感謝していた。本当は違う。私が戦えたのは、男にダメージを与えたのは、全部アニーのおかげだ。でも、今はそんなこと言えなかった。もし仮に、五体満足で、喋る力が残ってたしても言わなかった。


ごめんね、アニー。

パパの言葉は、私だけのものにしたいの。


「ぜん――いかくど―――す」


パパが何か言っていた。沈んでいく意識の中で、それを聞き取ることは出来なかった。



*   *   *



目が覚めた。模様の無い灰色の壁が、私の目に飛び込んだ。すぐに、そこがパパの研究所だと分かった。定期検査や治療を受けた後と、同じ景色だからだ。ベッドの上で、私は寝ていた。顔を横に向けると、パパが立っていた。


「おはようございます。メーナ」


私が起きた事に気が付いたパパが、私の方を向いて言った。そしてその大きな手で、私の頭を撫でた。嬉しくなって、私は擦りつけるように頭を動かした。


「おはよう。パパ」


そう言って、私は笑う。

パパは常に黒い仮面を着けている。だから、どんな表情をしているかは分からない。でもきっと、私と同じように笑っている――と思う。


「ねえパパ。アニーは無事なの?」

「はい。彼女は殆どが外傷だったので、治癒魔法を少しずつ施して治しました」


その報告を受けて、私は胸をなでおろした。

私は辺りを見回した。だけど、アニーは居なかった。


「そのアニーは何処にいるの?」

「今は、彼女におつかいを頼んでいます。何分、私はここを離れる事が出来なかったので」


私は、目を丸くした。


「やばいよ、パパ。だって昨日のあの男、アニーを狙って攫ったんだよ!」

「大丈夫ですよ。先日、その男から正式にアニーを買い取りました。まあ、"正式"という言葉の使い方が、はたして正しいのかは疑問ですがね」

「そ、そうなんだ。でも、先日って……。昨日いつの間にそんな事をしてたの?」


私がそう言うと、パパの笑い声が聞こえた。


「何が可笑しいの」

「失礼しました。昨日ではありませんよ。あれから一週間は経っています」

「いっしゅうかん? え……じゃあ私はその間、寝てたって事?」

「はい。一週間たっぷりと。暫くは魔力暴走後と似た症状がありましたが、今はもう落ち着いている筈です。起き上がって構いません。ですが念のため、後三日は魔力使用を控えてください」

「うん。ありがとう、パパ」

「どういたしまして」


私は体を起こした。

パパが私に、手を差し出した。

私は、その手を取って、ベッドから立ち上がった。一週間眠り続けいたからか、足に上手く力が入らなかった。よろめく私を、パパが支えてくれた。


「暫くは、大人しくしておいた方がいいですね」

「あはは……そうだね!」


私は頭を掻いた。

その時だった。上から、ドタドタドタ! と、物凄い足音がした。


「パパ、あれってまさか……」

「帰って来たようですね」



アニーが帰って来た。


食品と医療品の購入をパパにお願いされたらしい。道中でも、特に何か事件に巻き込まれることも無かったらしい。ひとまず、私は安心した。


彼女は帰ってくるなり、私に泣きついて来た。相当、心配していたらしい。引き剥がそうとしたけど、彼女の力は凄まじく、骨が折れるんじゃないかと思った。


パパに助けを求めた。だけどパパは、その様子を見て楽しんでいた。



彼女の涙は、三十分くらいで止まった。しかしその後も、彼女は私に抱き着いたまま、離れようとしなかった。悪い気はしない。でも、流石に服をびしょびしょにされても困る。それに、お風呂にも入りたい。一週間寝続けていたからか、さっきから変な臭いがする。それに頭も痒い。


しかし――


「お風呂に入りたいんだから早く離れて!」

「わだじもいっじょにはいる!」

「やだ! お風呂くらい一人でゆっくり入る!」

「いやだあああああああああ!」


と、こんな調子で、一向にアニーは私から離れなかった。最終的に根負けした私は、パパに説得されるような形で、アニーと一緒にお風呂に入る事にした。


「はあ、なんでこんな事に」

「流すよ。メーナちゃん」

「どーぞ」


アニーが、桶を使って私の頭から水を流す。流石に、アニーは落ち着きを取り戻していた。

私は、頭を振って水滴を落とした。


「メーナちゃんって髪綺麗だよね」


アニーが私の髪を撫でながら、そんな事を言った。


「正直、あんまり手入れしてないんだけどね。パパが言うには、ママの遺伝子が強いんだって。だからまあ、ママのおかげ……なのかな」

「いいなぁ。顔も可愛いし」

「……アニーも可愛いよ。それに」


私は、目の前の鏡に映るアニーの姿を見た。そして、私の胸元へ視線を落とす。

そこには天と地――いや平面……丘と山くらいの差があった。


勝手にため息が出た。全身ガリガリの骨人間くせに、なぜそこだけ豊かなんだ。


「私にはないものを持ってる」

「ないものって?」

「胸」

「あー……」


アニーは、自分の胸を腕で寄せた。その二つの山で作られていた谷間は、より一層深くなる。私には、谷間どころか、寄せる事すらできない。


「こんなの、無くても大丈夫だよ」

「でも、本で読んだ。男は大きい方が好きだって」

「うーん……。そう言われると、確かにそうかも。スラムのみんなは、大きい方が好きだったかも」


アニーが目線を上げながら言った。


「やっぱり?」

「でも、小さいほうがいいって人も、少ないけどいたよ。だから、人によって違うんじゃないかなぁ」

「……パパはどっちなんだろ」

「後で聞いてみる?」

「そうしようかな」


パパがどちらの方が好みなのか、気になると言えば気になる。でも別に、私はパパと結婚したい訳ではないし、別に好きな男がいるわけでも無い。なのにどうして、男の好みを知りたいと思うのだろう。不思議と言えば、不思議だ。


……私もそのうち、パパ以外の男の人を好きになったりするのかな?



体を洗い終わった私とアニーは、湯船に浸かった。本でしか読んだことが無いから詳しいことは分からないけど、うちの風呂は広い方だと思う。湯船も、二人で入っても全然余る。が、アニーは私に後ろから抱きついてきた。


「ねえ。何で抱きつくの」

「えへへ~」

「えへへじゃなくて」

「初めて女の子抱いたけど、めっちゃいい……一生このままがいい」


アニーが気持ち悪い笑みを浮かべて言った。何故か知らないけど、身の毛がよだった。


冗談だと分かってるけど、一生は流石にお断りだ。

私はアニーの鼻を摘んで、引き剥がした。


「ふぎゅー」

「あんまりベタベタしないでよ」

「メーナちゃんは嫌なの?」


嫌ではない。というか、案外ハグは良い物だと思う。アニーに抱きしめられると、ちょっとだけ安心する自分がいるのが分かる。


私がただ、素直になれていないだけだ。


「……嫌じゃない。だけど、恥ずかしいもん」

「ふっふっふ」


アニーがしてやったりみたいな顔をした。

くそう。ムカつく。


「何よ」

「メーナちゃんが超可愛いって思った!」

「……後でパンチする」

「はぇ!?」


私の鉄拳制裁宣言に、アニーは心底怯えた顔をしていた。

いい気味だ。


「パンチされたくなかったら、抱き着くの禁止」

「嫌だ! メーナちゃんに抱き着けないなら、パンチされるのを選ぶ!」

「一発とは言ってないけど?」

「百発まで覚悟してます!」

「あらやだかっこいい。少しくらいなら許してあげようって気分に――なる訳無いじゃん」


拳を突き上げ、覚悟を見せていたメーナが、膝から崩れ落ちた。湯船に張られたお湯が、派手に飛び散った。


「ならないんだ……」

「まあ、気が向いたら私から……。やっぱアニーから誘って。私から誘うって考えただけで恥ずかしくて死にそう」

「じゃあ今ハグしたい!」

「えぇ~……」


気はあまり向かない。けど、アニー程じゃないけど、私もテンションが高い。後で落ち着いてから、面と向かって抱きしめたいだの、ハグしたいだの言われるよりは、今ここでした方が良いかもしれない。そう思った。


「仕方が無いから、いいよ」

「やった!」


アニーはガッツポーズをした。

そしてすぐに私に抱き着く……という事はしなかった。

アニーは腕を広げた。


「おいで、メーナ」


突然、呼び捨てにされた。まあ、私も呼び捨てにしているからそれは別にいい。

何故かアニーはその台詞を声を低くして言ってた。

何だろう、ムズ痒い感じがする。


「……突然どうしたの?」

「ムード作り」

「アニーは私をどうしたいのよ……」

「女にしたい」


アニーがよく分からない事を言った。そもそも私は女だ。

もしかして、馬鹿にでもされたのだろうか。


「私は女だけど?」

「違うよ。メーナは女の子であって女ではないの」

「アニーの言いたい事が全く分からない」

「いいからいいから、ほら、おいでメーナちゃん」


よく分からない。

大体、自分からするのとされるので何が違うというのだ。

そう思いながら、私はアニーの背中に手をまわした。


アニーの胸が、私の胸に押しつぶされた。

なにこれ。この世の物とは思えないくらい柔らかい。


思えば、正面からハグしたのは初めてだ。

……結構いいなこれ。思ったよりも、違和感がない。

なじむって言うか、自然って言うか。

なんか、変な感じがする。


「どう?」


アニーが聞いてきた。


「……思ったより、いいかも」

「でしょ? 自分からするって形を作るだけで、受け入れやすくなるんだよ。それに今、私達の体温ってほぼおんなじだから、肌が触れ合っても大丈夫なんだよ」


凄い。確かにその通りだ。

ぐうの音も出ない程納得してしまった自分が、少しだけ悔しい。


「……アニーって、変な事だけ賢いよね」

「変な事とは失礼な。みんながそのうちやる事だよ」

「まあ、確かに……ねえ、アニー?」

「なぁに?」

「あの時の事なんだけど……改めて、ごめんね。私が弱いばっかりに、アニーを危険な目に合わせちゃって」


私は改めて謝った。もうちょっと、いい感じというか、もっと真剣な場で謝るべきかとも思ったけど、今なら大体許してくれそうな気分だったからだ。

いや、別にアニーが許してくれないとは思ってないけど、何と言うか、私の中での話だ。


「いいよいいよ。気にしないでそんなの! 結果無事なんだから!」

「……ありがとう、アニー」

「どういた……。やっぱ待って」


アニーが言った。怒っている感じはしない。

ただ、少し不安になった私は、ハグするのをやめて、アニーの表情を確かめた。


すっごいゲスな顔をしていた。いやもう、誰が見てもわかるくらいのゲス顔だ。

辞書にゲス顔という単語があったら、その一例として載っているに違いなかった。


「アニー?」

「やっぱ許さない。いや、怒っては無いよ? でもやっぱり、頑張ったからご褒美が欲しい」


まあ、怒ってないのは分かる。

でも、アニーがそんなことを言うなんて珍しいと思った。


いや、思えば私も、さっきから普段言わない事を言ってる。


「う、うん。何がいいの?」

「メーナちゃんを好き勝手出来る権利」

「絶対やだ。それ以外」

「じゃあ何も要らない」


アニーにとって、私は何なんだろう。まあ、考えても仕方ないような気はするが。

しかし、こんなに好かれるとは思ってもみなかった。悪い気はしないけど。


……悪い気がしないだけだ。


息を吐きながら、私は湯船に浸かり直す。

ふと、ある事を思い返した。


「アニー。そう言えば、あなたって心が読めるの?」


それはパパが言っていた事だった。パパは、アニーに呼ばれて、私達のピンチに駆けつけてきたと言っていた。そしてそれは、精神干渉魔法と似ている。とも言っていた。


精神干渉魔法。少しだけ、聞いたことがある。人の思考を読んだり、書き替えたりすることができる魔法らしい。でもそれは禁呪に指定されていて、使う事は出来ない。


それに、私も覚えがある。あの時、アニーが私に大丈夫だと言った。だけど、アニーは喋れるような状況では無かった。なのに、なぜかアニーは私に話しかけた。


「……読めるよ。最近、上手く使えなくなったけど」

「それってやっぱり、祝福?」

「うん」


アニーが頷く。

祝福――この世界に生まれ落ちたときに、唯一神サテムにより賜ると言われる力の事だ。

しかし、私にはそれが無い。


私が特別――という事は無い。

祝福は、一つ欠点がある。それは、自分がどんな能力を持っているのか、調べる方法が無い。という点だ。自分には素晴らしい能力があると信じてみたはものの、蓋を開ければ『髪の毛が伸びるのが早いだけ』みたいな事がある。まあ、それを能力と言えるかどうかは別だが。


例えば、『火に強い』みたいな能力があったとしよう。この能力は一見凄い能力のように見える。だが、わたしは生まれてこの方、火に包まれたことが無い。私の祝福が仮にそれだったとして、私はそれに気付くためには、火の中に手を入れなければならない。パパの頼みでも無理だ。


祝福が無い。とは大袈裟に言ったものの、私がただ単純に知らないだけだ。


「メーナちゃんは?」


アニーが聞いてきた。


「私はまだ、発現してない」

「そうなんだ」


アニーは、私の前に移動した。とても細くて、肩甲骨がむき出しで、でも綺麗な背中だった。


「あの時、その能力でパパを呼んだの?」

「んー……。分かんない」

「分からない?」

「うん。あんまり覚えてないんだ。あの時は夢中で。もしかしたら、知らない内に能力を使ってたのかも」

「そう……」


私の祝福は、何だろう。あって損することはない……と思う。

小さい頃は賢者みたいな存在に憧れもしたけど、死の足音が迫りつつある今はどうでもいい――と言いたいところだけど、気になる物は気になる。


「ねえ、アニー。祝福が発現した時の事を教えて……」


アニーが振り返った。

涙を、流していた。お風呂の中なのに、分かる程には。


「ごめん。メーナちゃん。その話、あんまりしたくない」

「あ……ごめん」


アニーは首を横に振る。

やってしまった。と思った。体がこんなに火照っているのに、背筋が凍る思いだった。


「ううん。こっちこそ、ごめんね」


アニーが謝ってくれた。でも、それっきり、私達の間に会話は無かった。時折、アニーが鼻をすする音が聞こえた。私はただ俯いて、その沈黙に耐えていた。


「もうあがろっか、メーナちゃん」


突然、アニーが立ち上がって私に声をかけた。私は顔を上げる。目は真っ赤だったけど、アニーはもう、泣いてはいなかった。


「あ、うん……」


アニーの声に引っ張られるように、私は立ち上がった。


「いつまでそんなしょげた顔してるの?」


アニーが笑いながら言った。アニーはもう、気にはしていないと思う。けど、だからって、私が気にしないわけにはいかない。


「……だって、アニーを、その、悲しませたから」

「もう大丈夫だってば。今もう、元気いっぱい!」


と言って、アニーが変なポーズを取った。ちょっとだけ、面白かった。


「元気出た?」

「ちょっとね」

「じゃあもっと元気出してあげる」


と言って、アニーは私の頬に、両手を添えた。罪悪感もあって、私は特に抵抗しなかった。


そして――



アニーは私の唇に、自分の唇を合わせた。



――んぇ!?

あれ? なにこれ? え? は?


これってキ――舌!? べろ!? やわ!? 吸っ!?


――はへ?


「どう?元気出た?」


……床に押し倒されてた。いつの間にか。

お祈りのポーズで、私は首を縦に振った。


「良かった」


そう言って、アニーは私から離れた。

鏡に、ギリギリ私の顔が映っているのが見えた。顔が真っ赤だった。


きっと、長いことお風呂に入ったせいだろう。

うん。そうに違いない。

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