第三章・A ある少女の記憶 1

※前書き

所謂過去回想というやつをやるんですが、好き勝手書いてたらとんでもない長さになりました。(5万文字)


5万文字を1万文字ずつ分けて5話分として投稿します。予めご容赦下さい。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


私は、絶望と共に目を覚ました。


私が寝ていたのは、パパの研究所(見てくれは普通の小さな一軒家だが、地下に広い施設が用意されている)の一室にある白いベッドの上だった。私の腕からは、無機質な赤く染まった管が伸びていた。私は寝たまま、天井の壁をじっと見つめる。もう飼いならしたはずの頭痛が、首輪を引き千切らんばかりの勢いで、私の頭の中を駆け回っていた。自然と、ため息が零れた。零してはいけないと思っていても、どうしても零れてしまう。


「調子はどうですか?まだ、頭は痛みますか?」


私は、声のした方に頭を動かす。そこには、私のパパが何かの装置の前に立っていた。パパは黒い仮面に、まるで鎧のようなゴツゴツした黒い服に手袋。そして大きな黒いマントを羽織っている。


パパの目の前にある装置が何なのか、私には全く想像はつかなかった。だけどそれが私の為を思って、夜な夜な作ってくれたものだという事を、私は知っていた。頭痛は酷かったけど、この事が分かっていただけで、実際にそんな事が無いことは分かっているけど、痛みが少し和らいだ気がした。


「うん。少し痛い……かな」


私はそう言った。パパにとって、私にとっても残酷なその真実を。


「……そうですか。今、針を外しますね」


パパは肩を落としてそう言った。指が私の腕くらいはありそうな大きな手が、私の腕に向かって伸びた。


私の腕に刺さっている注射針を慎重にパパは引き抜く。私の体から何かが抜ける陶酔にも似た感覚と、少しの痛みがあった。


「今回も失敗ですか。なかなか上手くいきませんね。今度はかなり期待していただけに、残念です」


そう言って、パパは私の腕の処置をしてから、慣れた手つきで器具を片付け始めた。その時だけは、いつもはあんなに頼もしいパパの背中が、ひどく小さく、丸まって見える。もう何度も見た光景だった。


不安、無力感、焦燥感……色々な感情が私の中を渦巻く。何もできない自分が情けなかった。痛くないと言えばもう終わる話なのに、それを言えない自分が情けなかった。自分の体の事なのに、何一つパパの力になれず、ただベッドに寝て待つだけしか出来ない自分が情けなかった。パパの苦労を分かってあげられない自分が情けなかった。


自分に自信が持てない私は――とても情けなかった。


私は自分に掛けられている、蛹の繭のような布切れを強く握った。



*   *   *



私は所謂、不治の病というやつだった。生まれつき、手足が無かったり、指が無かったり、目や耳が聞こえなかったり――そういう風に、体に何らかの不自由や欠損を抱えて産まれる人は少なくない。私もその一人だった。


魔族と人間のハーフである私は、生まれつき脳や体の機能が十分では無かったらしい。私には並みの魔族以上の魔法の才能があったが、それを支える脳や体の方が弱く、処置をしなければ、いずれ自分の魔力で潰れて死んでしまう。私の酷い頭痛はそれが原因だ。パパは何とかして、私が生きられるように、あれこれ手を尽くしてくれているけど、まだ解決策は見つかっていない。


ちなみにママは私を産んでからすぐに死んでしまったらしく、私はママの事を全くと言っていいほど知らない。写真も無かったから、顔も、どんな声かも、母乳の味さえ、私は知らない。だから、正直悲しい気分にもならないし、私の中では、家族はパパだけだった。だけどパパは、その時の事を酷く悔やんでいて、それ以上は詳しく話してくれなかった。


「メーナ。申し訳ないのですが、私は今晩、所要で博士の所へ出かけなくてはなりません。お留守番、出来ますね?」


麻酔から目覚めた直後の、朧気で曖昧な感覚は、次第に消えていた。私はゆっくりとベッドから起き上がる。脳みそ揺らされ続けるような感覚は相変わらずだった。


「うん、平気。博士って、パパがいつも言っている心を作る凄い博士さんだよね? お留守番はもう何回もやったし、それにもう十歳だよ? 数が一つから二つに増えたんだよ?」


私がそういうと、パパはよく分からない黒い仮面の下から、笑い声を響かせた。パパがこの仮面をつけてから、もう数年は経っている。パパの顔すら、もうまともには見ていない気がする。パパがこの仮面を着けている理由は詳しく聞いたことは無いけど、きっと私を助けるためなんだろうと思う。そんな気がして止まないのだ。


ちなみに、仮面を着けていなかった頃のパパは、結構カッコいいと思う。今は分からないけど。


「流石は、私の自慢の娘です。では、頼みましたよ」


パパはそう言って、私の頭を優しく撫でた。ゴツゴツとした大きな手袋に覆われているその手は、とても暖かかった。その時だけは、頭痛なんて感じなかった。



一人留守番をする私は、家のキッチンで料理をしていた。パパは料理上手だったけど、結構私に料理を作らせていた。パパはいつも花嫁修行だと言っていた。私は冷蔵庫から食材を適当に取り出して、適当に炒め物とスープを作った。パパの分を残して、皿によそって、傍に本を置いて、それを読みながら料理を口に運んだ。料理はいつも通り、変わらない慣れた味で美味しかった。


食事が終わるころには、窓の外に雪が降っているのが見えた。無言で積り続ける雪を、私もまた無言で眺めていた。私は窓から振り返って、自分の家の中を何となく眺めた。私の家は、何処かぽっかりと穴が開いたようだった。寂しいとか、不安とか、そういう訳じゃなく、そこには何かが足りなくて、何かが欠けている。何か忘れている時のような、何とも言えないあのもやもや感。私はそれから逃げる様に、一人本の世界に没頭するのだった。


それから、暫く時間がたった。私が本を読み終わって、壁に掛かっている時計を見ると、あれから二時間は経っていた。パパが博士の所に行くときは、帰ってくる時間はまちまちだった。短い時もあれば、長い時もある。明日になってようやく帰ってくることも珍しくなかった。そして時計の時間は、後三十分もすれば、日付が変わるくらいの時間だった。私は、洗面所に行って歯ブラシを取って、歯を磨き始めた。


博士というのは、パパが仕事で知り合った、パパと同じ研究者の事だ。パパ言うには稀代の天才で、博士以上に賢い人間とパパは会った事が無いらしい。何でも人の心について研究しているらしく、既に人為的な心を完成させたらしい。彼の生み出す物はまさに神の領域だと、パパは熱心に語っていたけど、私にはよく分からなかった。パパは時々、その博士から私を助けるための意見を貰っているらしく、パパが出かける大半の理由は、博士に会うためだった。


(今日は帰ってこないかな……)


そんな事を思いながら、寝間着に着替えて、もう寝ようかと思っていた時だった。玄関のドアが開く音がした。私は駆け足で玄関に向かった。そこには黒い服に雪の白い衣を纏ったパパが、玄関で立っていた。隣には見知らぬ女の子がいた。手入れが行き届いていないのか、変に長いボサボサの黒い髪で、着ている服もボロボロで、果たして服と呼べるかも分からなかったし、寒さで体も小刻みに震えていた。


「ただいま、メーナ。遅くなってすみません」


パパが仮面の下から白い息を吐きだしながら言った。雪は相変わらず無言で降り続けていた。暗い夜に白い雪が降る様子は、まるで星が落ちているようだった。


「それは大丈夫だけど、その子は……?」

「この子は名前はアニーです。先程、行き倒れている所をたまたま発見しましてね。治療と保護のために、ここに連れてきました」

「それは分かったけど……パパ。なんかその子、変な臭いがする」


私は思ったことを正直に言った。


「メーナ。駄目ですよ。そんな事を言っては」

「だって……本当にそうなんだもん」


私は鼻を摘んで言った。その子は、衰弱しきっているのか、声を出すことは無く、私のパパに支えられながら、ニッコリ笑って私に手を差し出した。なぜそんなに笑えるのかと疑問に思うほどの、とても幸せそうな笑顔だった。私は私は微妙な顔をしたまま、彼女が差し出した薄汚れた手を握り返した。


「……よろしく」


短く、それだけ言った。女の子の方は何かぼそぼそと小さく喋っていたけど、私には聞こえなかった。

今の私なら、酷く失礼だったと確信を持って言える――それが私と彼女の出会いだった。



*   *   *



「メーナ。君に頼みたいことがあるのですが」


パパの研究所で、治療後の検査を終えた後、パパが片付けをしながら私に言った。私はベッドに腰かけてそれを聞いていた。


「なに?パパ」

「昨日、私がここに連れてきた子がいますよね?」

「アニーだよね?それがどうかしたの?パパ」

「彼女、実はスラム街の生まれなんです。以前、この国でも問題になっている話はしましたよね?あの子もそれに巻き込まれた一人でしてね。普段はこんな事はめったにないのですが、昨日たまたま帰り道に出くわしてしまって……。それでつい、ここに連れてきてしまいました。すみません」


と言って、パパは私の方をわざわざ向いて、深々と頭を下げた。パパはこういう風に、娘の私にも礼儀正しく接する。親しき中にも礼儀ありとは言うが、それにしたってやり過ぎだとは思うけど、パパが言うには家族であろうと、一人の人間である事に変わりないからだそうだ。誰であろうと何であろうと、一人の人間としてちゃんと礼儀正しく接しなさいと、パパはいつも言う。


「……それで?」

「こうなってしまった以上、彼女を引き取ってくれる者が見つかるまで、私が責任をもって面倒を見るべきだと思います。なので、彼女には暫くここに住んでもらおうかと思うのですが、それについては問題ありませんか?」

「まあ……大丈夫だよ」


と、私は言った。正直、それについてはどっちでもいいと言うか、私が口を挟むべき事でもないと思うけど、とりあえず私は合意した。


「ありがとうございます。実は、もう一つ君に頼みたい事があるんです。メーナ、君には、彼女の教育係をして欲しいのです」


私は目を丸くした。あまりにも唐突過ぎてパパが何を言いたいのかよく分からなかった。


「教育係って……何すればいいの?パパ」

「私がメーナに学校の先生の代わりに勉強を教えましたよね?それをあの子にもやって欲しいのです」

「わ、私が?出来るかな……」

「ええ、あなたなら、きっと出来ます。なんたって私の自慢の娘なのですから。魔法の才能もそうですが、あなたはとても頭がいい。初等学校と高等学校で習う勉強を、たった三年で終わらせてしまったのですから」

「それは……そうかもだけど……でも、おんなじ年齢の子と話すのも初めてだし……」

「何事も経験ですよ。生まれの都合上、仕方ないとは言え、この時期に誰とも触れ合わないのはもったいないですからね。あなたの為にも、ここは勇気を出して頑張ってみませんか?お願いします」


と言って、パパはまた深々と頭を下げた。まるで私が偉い人で、パパが必死に頼み込んでいるみたいで、ちょっとだけ罪悪感のような物があった。


「わ、分かった……やってみる……」


その勢いに押されて、私はあまり乗り気では無かったけど、口からその言葉が出てしまった。私の返答を聞いたパパは、すぐに顔を上げた。勿論、パパがそこまで狙ってやっているとは思ってないけど、何だか一本取られたというか、してやられたような気がした。


「そうですか、ありがとうございます。早速、明日からお願いしますね。彼女、文字の読み書きがまだ出来ないので、まずはそこからお願いします」


パパは声を弾ませてそう言った。嬉しそうなパパを見ると、いつもならこっちも嬉しくなるけど、この時ばかりはあまりそういう気分にはならなかった。


「……そういえば、私の耳の事はどうするの?」


私はパパに聞く。私の耳は、人間のよりも横に長く尖っている。私が魔族であることの証拠だ。これをパパ以外の人間に見られたら大変なことになる。


「大丈夫です。事情は話してありますので、彼女の前ではそのままでいてください」

「分かった」


と、その時だった。


「あれ……?」


私は、部屋の扉に顔だけ出して覗き込む少女に気が付いた。アニーだ。出来るだけ見える顔の面積を減らそうと努力はしていたけど、肩まで伸びる長い髪がゆらゆらと揺れていた。


「……そこで何してるの」


アニーと目を合わせながら言う。すると、アニーはひょっこりと出てきて、ぽりぽり頭を掻いた。


「あははー……。バレちゃった」

「髪の毛が見えてたからね。……ねえパパ、その子、研究所に入れて良かったの?」


私はパパに尋ねた。パパはきちんと私の方に向いてから言う。


「ええ、構いませんよ。とは言っても、君と同じように私の部屋に入るのは危険だから禁止しますが」


パパは基本的に私に何かを禁じることはしなかったけど、唯一、研究所の一室である自分の研究部屋に入る事だけは、私に禁じていた。理由は危ない機器もあるからとの事だった。その部屋に興味はあったし、実は何度か忍び込もうとも思ったけど、結局いつも鍵がかかっていて忍び込むことは出来なかった。正直なところ、その事についてはがっかりしたけど、でもまあ、それで事故が起きても嫌だし、何だかんだそれでよかったのだと思う。


「……」


私は、アニーをじっと見つめた。一年のほとんどをベッドの上で過ごす私よりも、彼女の腕や足は私の腕に刺さる管のように細かった。


「な、何?」


戸惑いながら、アニーが私に尋ねた。


「別に」


私はそっけなく返した。人付き合いが殆どない所為もあると思うけど、私は正直、この子を良く思っていなかった。いきなりずけずけと人の領域に踏み込んで、大事な物を奪いそうな感じがした。勿論、そんなのはただの気のせいだという事は分かっているけど、やっぱり、素直に喜ぶことは出来なかった。


「ふふふ、楽しみですね」


と言って、パパは仮面の口の方に手を当てて笑った。仮面の上からでも、とても可笑しそうに笑っているのが私にはわかった。きっと彼女には分からないけど、私には分かるのだ。


「何で笑うの、パパ」


私は睨むように、パパに尋ねた。別にパパに対して嫌な気持ちになったわけでは無いけど、私は意地っぽくなっていた。


「いやいや別に、純粋に楽しみなだけです。きっとアニーは、メーナにとって重要な存在になりますよ」

「ホントに!?やった!」


と言って、アニーが大袈裟に手足をばたつかせて喜んでいた。何故こんなに喜べるのか、私には分からなかった。


……分からない事だらけだった。


「そんな訳無いじゃん……」


私はため息交じりに、誰にも聞こえないよう、そっぽを向いて小さく呟いた。やっぱり私は、何処か意地っ張りで、中々素直になれない性格だった。



「えー、では、今日から授業を始めます。講師のメーナです。よろしくどうぞ」


私は、とても厚い紙の束が置かれた机に向かうアニーに向かって、私がパパにしてくれた授業の挨拶の真似をして言った。パパと違って酷い棒読みだったけど、彼女がそんな事を気にする筈も無く、とても姿勢よく鉛筆を持っていた。


「よろしくお願いします!」


元気な声で、それこそ、私の耳が壊れるんじゃないかと思うほどの大声量で彼女が挨拶を返した。私は思わず、しかめっ面をする。けど彼女は、私のしかめっ面など何のその、とても幸せそうな笑顔で、私の次の言葉を待っていた。


「声が大きいよ……もう。とりあえず、あなたの学力がどの程度か知るために、簡単なテストをするから、とりあえずその紙の束を仕舞って」

「分かった!」


と言って、彼女はまた、そんなに勢いよくやる必要があるのかと聞きたくなるほど、勢いよく紙を机の中にしまった。絶対中でぐちゃぐちゃになっているだろと、私は心の中でツッコミを入れた。


私はアニーが向かう机の上に、事前に作成したテストを置いて、黒板の前に立った。この部屋は私のための授業をする為に、パパがわざわざ家の一室を使って作った部屋で、(と言っても、机が一つに、教壇と黒板とチョークが置いてあるだけの簡素な部屋だけど)私が学ぶべき常識は、全てこの中で教わった。今はその私が、こうして別の人に授業をしているわけだから、何だか不思議な気持ちになる。


(正直、上手くできる気がしないや。元々、私はパパに習わなくても読み書きは完壁だったし)


パパは研究者ということもあって、授業は上手かった……と、思う。(比較対象が無いので何とも言えないが)だから、基本的にはパパが教えてくれたように教えるつもりだけど、文字の読み書きに関しては、実はパパから習う前から勝手に出来るようになっていたために、パパから特に教わっていない私にとっては、最初にして最大の難関だった。


私はそんな事を考えながら、彼女がテストを解き終わるのを待っていた。正直に言って、テストと言っても、レグム語の文字を全部書けるかどうかと、それを使った簡単な文章問題を数問加えた、本当にそれだけの、簡単なテストだった。


全問正解はないにしても、多少の文字は読めるんだろうなと、私はそんな事を勝手に思っていた。が、帰ってきた彼女のテストの回答を見て、私は愕然とした。


「えっと、どうかな?私的には、結構自信あるんだけど」


アニーが期待に目を輝かせながら聞いた。どうしてこの結果で自信があるんだろうか。


「……残念ながら、全問不正解」


私はちっとも残念そうな顔をせずに言った。むしろ呆れているくらいの顔だった。私がバツ印を大量につけた答案用紙を彼女に返すと、彼女は誰か死んだのかと言いたくなるほど、目に涙を浮かべた悲しそうな顔で、それを受け取る。さっきまであんなに嬉しそうな顔をしていたのに、彼女の喜怒哀楽の変化はとんでもない速度だった。


「うう、そんな……」

「むしろ私としては、この程度の問題で躓く理由が分からないけど……。まあ、取り合えず、基本の読み書きから始めるからね」

「分かった!よろしくお願いします!」


耳をつんざく程の大声で、彼女はまた言うのだった。




パパが私に課した任務は、はっきり言って順調じゃなかった。彼女への授業を始めてもう一週間は経ったが、アニーは未だにレグム語の文字を半分も覚えていなかった。彼女は単純に、覚えが悪かった。私なら五分もかからず覚えられる事が、彼女には一時間は必要だ。


「えっと……ちょっと待って、えーと……」


机の上で、私が作ったプリントと悪戦苦闘するアニーを見て、思わずため息が零れる。


「はぁ……もう、早くしてよ。昨日も同じ問題出したし」

「ごめんね……えっとね、ここまで出かかってるんだけど……」


と言って、アニーは喉の所まで、手刀のように伸ばした手を持って来た。正直、彼女の覚えの悪さには、イラつきもしていた。私にはどうして彼女がこの程度の事すら理解できないのか分からなった。


「分かった!」


と、突然彼女が叫んだ。私は反射的に仰け反った。


「うるさい……で、答えは?」

「これでしょ?」


と言って、アニーはプリントを私に見せびらかす。その答えを見て、私は大きなため息を漏らす。


「はぁ……。間違ってる。それの答えはこう」


私は正しい答えを、黒板に殴り書きした。


「う……。そ、そうだったね!ごめんごめん」

「ちなみに、昨日も同じところで間違えてる」


私がそういうと、アニーは小さく縮こまった。まるで狼に怯える兎のようだった。最初のうちは、悪い気も少しはしていたけど、今はやりにくさしか感じていなかった。酷い言動だということは知っていたけど、その罪悪感は彼女に対する苛つきにかき消されていた。


「ごめんね……。せっかく教えてもらっているのに、出来の悪い生徒で」

「ホントね」

「うぐ……」

「……とりあえず、今日の分は終わらせるよ」

「はい先生……」


部屋には嫌な静寂が訪れていた。チョークで黒板を叩く音が、その静寂を引き立てていた。正直、限界だった。元々なかったやる気が、地の底まで落ちていく感じがする。


アニーの方も、普通に考えて、こんなやる気のない先生に指導を受けるのは嫌だと思うし、どんなに頑張っても成果が出ないのは、普通に考えて投げ出したくなりそうなものだけど、彼女は姿勢も崩さず、やる気を失わず、真剣な表情で私の授業を受けていた。




次の日、私はパパに先生の任を解くように直談判する事にした。アニーが私の授業を真剣に受けていることは、彼女の態度を見ればすぐにわかる。だからこそ、私では務まらない気がしていた。というのは正直、ただ美化しているだけだ。ただやりたくなかっただけだった。アニーははっきり言って、頭が悪い。それがスラム生まれの所為なのかは知らないけど、どれだけやっても無駄に終わるのは、せっかく砂浜に作った城を、海水に押し流されて、また元の砂浜に戻されたような、そんな気分がする。それが私には、耐えられなかった。これ以上続けたくは無かった。


「だからね……あの子の先生はもう辞めたいな……って」


私は、書斎で机に向かって何かの作業をしているパパに、自分の正直な思いを伝えた。パパは作業の手を止めて、静かに私の話を聞いていた。私の話が終わると、パパは椅子に深くかけ直した。


「……そうですか。残念です」


パパが、悲しそうな声を仮面の下から発する。


「だって、正直に言って……アニーは、頭が悪いし……。何度言っても出来るようにならないし……やってられないっていうか……」


私は取り繕うように言う。


「何度やっても出来るようにならない彼女は愚かだと、君はそう言いたいのですか?」

「……うん」

「では君に、聞きたいことが一つあります」


パパがそう言った。私は、なんだか心臓の奥が詰まったような気がした。パパは、私を叱るときに、私に対して決して怒鳴ったりしないし、むしろ優しい言い方とさえ言えるけど、逆にそれが自分の存在を上位に見せるような虚勢の怒鳴り声よりも、怖い時がある。


「な、なに?パパ」

「私は、愚かな人間でしょうか?」

「え……?」


突然、突拍子も無いことをパパが言う。私はすぐにその質問の答えを用意できなかった。


――そんな訳無い、だってパパは、私の病気を治すために頑張っているんだから。

心の中でそんな事を考えるので精一杯だった。すると、


「私は、君の病気を治そうとあれこれ手を尽くしていますが、すべて徒労に終わっています。何度挑んでも、君を治すためのヒントすら掴んでいません。何度やっても上手くいかない私は、果たして愚かでしょうか?」


パパは椅子から立ち上がって、そう言った。

その言葉は、私の脳天を貫いた。どう返せば、パパの言葉を否定出来るか考えた。だけど結局、私は下を向いて黙る事しかできなかった。


「確かにメーナ、君は賢い。しかし自分が優れていることは、相手が劣っていることの証明にはなりません。出来ない事は、愚かである事の証明ではありません。挑戦しない事こそ愚かだと、私は考えています。彼女は彼女なりに、君の授業を理解しようと、頑張っているのですよね? ならば、彼女は愚かではありません」

「それは……そうかもだけど」


やはり、私はそれ以上何も言えなかった。

確かに、アニーは私の授業を真剣に聞いている。私がどんなにふてくされていても、馬鹿にした態度を取っていても、まるでそれに気が付いていないかのように真剣に取り組む。


「勿論、頼んだのは私ですし、最終的な責任は私が持ちます。君がどうしても辞めたいのなら、やめさせる選択肢も考えていました。ですが、君がその全ての責任を誰かに押し付けるつもりなら、私はそれを許しません。最後までやり遂げろとは言いませんが、誰かだけのせいにしたまま、終わることは許しません。自分では力量不足だと、君が本気でそう感じたなら、その時はまた私に相談してください。元々、私が拾った子です。私が教鞭を取りましょう」


パパは静かに、それでも威厳もある声で言った。結局パパは、全部分かっていた。私が教壇に立ちたくない理由も、アニーへの私の思いも当然のように見抜いていた。それを直接突き付けるような事はしなかったけど、それでも、パパの言葉は私の心に深く刺さった。


正直、そのまま抜けないんじゃないかとも思った。私は、いつの間にか泣き出していた。喚いたり、へたり込む事はせず、ただただ直立で、悔し涙のような涙を流していた。


「す、すみません。言い過ぎてしまいましたか?」


オロオロと、先程とはまるで別人のような狼狽えた声を上げて、パパが私を宥める。


だったら言うなよと、少しだけ思った。けど多分、大人とはそういうものなのかもしれない。私は横に首を振る。


「ううん。でも、どうすればいいか分からなくて……」

「大丈夫、彼女は決して、君を困らせたい訳じゃないんです。彼女は、必死に君の言葉を理解しようと、歩み寄る努力をしていたと思います。だから、今度は君が歩み寄る番です。暫く、授業は中止にして、彼女とじっくり話してみてはいかがでしょうか? きっと何か、ヒントがあるかもしれません」


パパは私の目線と同じ高さまでしゃがんで、そう言った。その声は優しくて、目頭の熱も、少しづつ解けていた。パパはズボンのポケットからハンカチを取り出して、私の頬の涙の痕を拭った。


パパは私の涙を拭い終わると、私の肩を掴んで、自分の方へ引き寄せ、私を優しく抱きしめた。


「意地悪に聞こえるかもしれませんが、今のあなたにとって絶対に必要なことなんです。君はとても賢いですが、失敗も、他人も知らずに育ってきました。このままでは、君はいずれ人生の路頭に迷うことになる可能性が高い。そうなってからでは遅いし、何より、そうなったのは私達親の責任です。だから、多少強引かもしれませんが、どうしても君にそのことを学んでほしいんです」

「うん……分かった。頑張って……みる」


私は涙に濡れた声で、何とか言葉を紡いだ。正直、パパの話の半分も理解できないと思うけど、パパが言うことはきっと正しい。

……なんて言えば、パパは多分『私は正しくなんかありません。ただ、君よりも長く生きている分、ほんの少し、失敗を知っているだけです』とでも言ってきそうなものだけど(というか言われたことがあるのだが)兎にも角にも、私はパパの言葉を信じることにした。


パパが、今までにどれだけ頑張ってきたのかを、私は知っている。だから今ここで諦めるのは、期待してくれているパパを裏切る事になる気がした。

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