第7話 囚われの***

私は、街の中を必死に走っていた。それは逃げるためだった。具体的に、何から逃げていたのかは分からない。けれど、逃げなきゃいけない、と思った。だからただひたすらに走っていた。


走る事に夢中な私には、今自分がこの街の何処を走っているかなんてわからなかった。ただ、極端に狭くなった視界の端に、口を抑えて驚いたような顔をしている人達が、ほんの僅かだけ見えた。恐らく、寝間着のまま家から飛び出したから、私が魔族である事がバレているのであろう。だけど今は、それが凄く些細な事のように感じた。


その日は雪が降っていた。走っている間は、体も熱かったから寒くはなかった。しかし、ろくに外にも出た事も運動をしたことも無い私が、走れる時間なんてたかが知れていた。私には、人並み以上の魔法の才能がある。忌々しいほどに知っている。だけど、その才能をフルに使えるかは別の話だ。走った時間など覚えていない。走った時間は一時間だと言われようとも、十分だと言われようとも、私は盲信するだろう。


走って走って走って、私はついに路地の隅に積もった雪の上に倒れた。積もった雪が、ふかふかのベッドのようだった。ただ実際は、とても硬くて冷たかった。雪が私の体温で溶けて、冷たい液体が肌に触れる感覚があった。


濡れるという行為は、寒い環境下にいるよりも、体温を奪うのだと本で読んだことがある。私はそれを、ぼんやりと思いだしていた。その間にも雪は、私の命を着々と吸い取っていた。


何をしたいかも、何をしたらいいかも分からない。前も後ろも、道は無かった。私は目を閉じた。


私が目を閉じたのは、そうする事で、もうこれ以上何も考える必要が無くなると思ったからだ。目を閉じてすぐに、私の体が宙に浮く感覚があった。私は期待混じりに目を開けた。


しかしそこは、私の期待した世界――死後の世界などでは無かった。灰色の雲に覆われた、元の路地だった。私の体が、誰かに抱えられていると気がつくまで、かなり時間がかかった。


全身に鎧を纏った、とても大きな人間が、私を抱えていた。パパ程ではないが、しかしあれは、パパが異常なのだと私は知っている。それを考えれば、この人間は十分大きいと言えるだろう。


「大丈夫か?」


その声で、この人間が男だと分かった。男は、兜を着けた頭を私に向けた。彼のてっぺんに積もっていた雪が、私に向かって少し落ちた。


――その時、何故なのかは分からないが、酷く動揺したのを覚えている。知っている声ではないのに、何故だか聞き覚えがあるのだ。


「……何で、助けたの」


恨み節に、私は言った。どうしてそんな風に言ったのだろう。


「人通りの無い路地で女の子が雪の中うつ伏せで倒れてたら、そりゃ助けるだろ」

「私、助けてなんて一言も言ってない」


と、私が言うと、『しまった』とでも言いたげに、男は頭を動かした。


「……確かに、言ってなかったな」


男は、納得したかのように何度か頷いた。拍子抜けもいい所だった。


「いつもの癖で助けようって思っちまった。ごめんな、お嬢ちゃん」


彼は謝った。嘘や皮肉を言っているようには思えなかった。心の底から、彼はそう謝罪したのだ。少なくとも、私はそう感じた。


意味が分からないと言えば分からない。だけど、それが私にとって都合が良い事は確かだ。私は少し安心していた。


「……なら、下ろして」

「おう。すまねえな」


男はすんなりと私を地面に下ろした。私は、壁に凭れるように、体育座りをした。しかし、冷静になってから雪の上に座ると、冷た過ぎてとても座っては居られなかった。私は無言で立ち上がって、隣で直立を続ける男に向かって、


「……まだ、他に何かあるの」


と、ばつの悪さを誤魔化すように、きつい口調で男を睨みながら言った。


鎧の男は頭を掻きながら、


「腹は減ってないのか?」


そう、私に尋ねた。腹は減っている。昨日の夜から何も食べてない。けれど同時に、食べてはいけないとも思う。小さな波のせめぎ合いが、私の中であった。


「……貰う」


少し悩んで、私はそう結論を出した。『生きよう』と、思ったわけではない。ただ何と言うか、タイミングが悪いと思った。今じゃなくてもいいのなら、もっと良い頃合いがあるのではないかと、そう思った。


「そうか。じゃあ待っててくれ」


男は嬉しそうにそう言って、私の前から姿を消した。


「意味わかんない……」


一人残った私は、そう呟いた。口から洩れた白い息は、濁った空に溶けて消えた。



*   *   *



その再会は、実に呆気なかったと、佐藤は思った。


「あれ? 何でここにサトウがいるんだ?」


そんな声がして、佐藤が顔を上げると、アールはすぐそこに立っていた。鎧に開いていた穴はそのままだったが、その先は暗くなっていて、佐藤からはその中身が良く見えなかった。


「……それは、こっちの台詞ですよ」


安心したように、佐藤は笑った。


アールは、何かを考えるかのように頭を何度か掻きながら、佐藤に尋ねる。


「んー……。まあいいか。もしかして、また捕まったのか?」

「また捕まっちゃいました」


そんな佐藤の言葉に、アールは豪快に笑った。


「『二度あることは三度ある』ってか? まあ何にせよ出すか、ちょっと離れてろ」


と言って、アールは鉄格子の隣り合った二本を両手で力強く掴んで横に引いて、佐藤が通れるくらいのスペースを強引に開けた。


手の跡がくっきりと鉄の棒に残っていて、佐藤はそれは訝しげに眺めていた。


「どんな力してるんですか」

「鍛えてるからな……って言いたいところだが、ただの生まれつきだ。大したもんじゃない」


生まれつきで鉄を捻じ曲げる力があるのなら、大したものだろうと、佐藤は思ったが、言わないことにした。それよりももっと、言うべきことが他にあったからだ。


佐藤は檻から外に出て、アールの正面に立った。


「胸の傷は、もう大丈夫なんですか?」


恐る恐るといった様子で、佐藤は聞いた。


「万全って訳じゃないが、まあ、問題は無いだろう。命がどうこうって心配はない」


佐藤は安堵のため息を吐いた。そうしてから、改めてアールに対して真剣な表情の顔を向けた。アールもそれに答えるかのように、頭を少し下げて、顔を佐藤に向ける。


「……それなら、改めて言わせてください。あの時助けていただいて、ありがとうございました」


と言って、佐藤は深く頭を下げた。


「どういたしまして。まあ気にすんな。それが俺の役目だ。それよりもだ」


アールは短く切り上げた。佐藤の感謝を蔑ろにしたというよりは、焦っているように佐藤は感じた。


「サトウ。お前今、バッジのようなものを持ってないか?俺がお前を助けに行く前に、フェルムに渡しておいたやつなんだが」

「……ああ、彼女から受け取りました」


と言って、佐藤はアールにフェルムから受け取ったバッジを見せた。彼は驚きの声を上げた。


「なら、あいつは今何処にいるんだ?」

「それは……」


佐藤は少しだけ迷った。しかし意を決して、アールにフェルムの事を話した。彼には聞く権利があると思ったからだ。脚色はあったかもしれない。口を濁していたかもしれない。そんな思いが、佐藤の中であった。それでも、アールは話終わった直後、こう言った。


「助けに行くぞ」


即断即決という言葉が似合いすぎる程の即答だった。もう既に動き出していたその体を、佐藤は慌てて止めた。アールはすんなりと止まって、佐藤に振り返った。


「ん? どうかしたか」

「本当にその選択で良いんでしょうか?」


息を整えてから、佐藤は言った。アールは分かりやすく首を傾げた。


「どういう意味だ?」

「フェルムさんが、本当に父親と一緒に過ごしたい可能性だってあるじゃないですか」

「その可能性もあるのか? ……うーむ、難しいな」


アールは何度か唸った。納得いっていないというよりは、本当に理解できていないようだった。


「……それをちゃんと把握するために、ここを調べたいんです。なので、アールさんにも協力して欲しいんです」

「まあ、そういう事ならいいだろう。だが、調べると言ってもどうする? この建物、相当の大きさがあるぞ。ここに来るまでは何の気配も無かったが、時間がかかり過ぎれば、父親が戻ってくる可能性もある。必要ならするが、しかし相手は賢者。戦闘は避けるべきだ」

「そう、ですね」


顎に手をやって、佐藤は考える。


「それなら、二手に分かれましょう。その方がより効率的ですし……それに恐らく、俺は見つかっても大丈夫なんじゃないかと」

「なぜそう思うんだ?」

「エクスさんは、俺を使ってフェルムさんを自分の元へ縛ろうと考えていました。だから、わざわざ俺を殺すことは無いんじゃないかと。ただ逆に言えば、アールさんが危険な事に変わりは無いですが……」


遠慮がちに佐藤は言った。半分はそう判断したが、もう半分は二手に分かれるための口実だった。彼を一人立たせて逃げる事は――あれきりにしたかった。


「分かった。それでいこう。どのみち、フェルムの位置も分からなくなってしまった以上、ここを調べるしかないしな。さっき話に出たバッジは、お前が持っていてくれ。何かあった時は、すぐに助けに行く。それから――」


そんな佐藤の思いとは裏腹に、力強く、アールが言った。その言葉が、強がりでもなんでもない、ただの事実である事を、佐藤は知っている。


佐藤は軽く笑った。敵わないなと、少し思った。


「はい。分かってます。もしもの時は、頼みます」

「おうよ」



それから、佐藤とアールはそれぞれ分かれて、探索を始めた。エクスの研究所はかなりの広さで、今回の件と関係の無い資料や施設も多く、部屋には物が散乱していた。それらはどれも長時間放置されたような跡や状態であった。


時間をかけながらではあったが、佐藤は一つのある資料にたどり着いた。それは山のように積まれた紙の束の中にあった、一枚の見取り図だった。この研究所の物だろうか、四角で区切られた部屋のそれぞれに、名前が振られてあった。その中で一つ、目についた部屋があった。


なぜその部屋が目についたのかと言えば、その部屋には名前が無いのだ。正確には、部屋の名前の所が、油性ペンで塗り潰したかのように、黒く塗り潰されていた。


何かの胸騒ぎのような物を感じながら、佐藤はこの名前が塗り潰された部屋に向かった。その部屋の扉は、鍵の掛かっていない鉄製の大きな扉だった。


佐藤はその大きな扉を、全身を使って引っ張った。錆びついたせいか、かなりの重労働だった。アールと二手に分かれた事を、彼は少し後悔した。


扉を開けるとすぐに、"それ"は佐藤の目に映った。"それ"は先のキメラ生物と同じように、黄色い液体に満たされた、巨大な管の中に入っていた。しかし、先のキメラ生物と違い点があるとするのならば――佐藤は"それ"について知っていた。


吐き気がした。衝動的に込み上げてきたものを、佐藤は口を抑えて強引に押さえつけた。


「なん……だよ、これ……。一体何の――」


そう、独り言を呟いた瞬間の出来事だった。佐藤の脳内は、ある一つの結論をはじき出していた。酷く動揺していた筈なのに、気が付けば、冷静に物事を判断している自分がいた。


――ああ、そうか。そういう事なのか。


点と点が、線で繋がった――とは言えない。むしろ、点と点を強引に繋げた結論である。しかし、考えれば考えるほど、それ以外の可能性が頭の中から消えていた。


「だとしたら――俺のやる事は、一つだけだよな」


導き出された結論は、あまりにも、救いようがないと思った。しかしだからこそ、今救わなければならない者が、いや、者達がいると思った。


恐怖や吐き気は、とうに忘れていた。今の佐藤にあったのは、強い意志だけだった。後悔で象られた、呪いのような、強い意志である。それは、彼の迷いを吹き飛ばすのに十分だった。


佐藤はすぐに、巨大な装置には目もくれず、その部屋の中を捜索し始めた。部屋の中は他の部屋散らかっていたが、目的の物は、すぐに見つかった。それは大きな機械のすぐ傍に置いてあって、埃だらけの部屋の中で、唯一、埃を被っていなかったからだ。


「やっぱりあるよな。研究記録」


佐藤が見つけたのは何重にも重なった紙の束だった。ホチキスのような留め具の跡はなかったが、その紙の束は何かの強力な力で接着されていた。


佐藤は、静かにそれを読み始めた。ゆっくりとした心臓の鼓動が、彼の全身を強く打っていた。

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