第4話 血の証明
科学を教えて欲しい。
彼が物理学を真剣に学び始めてからおおよそ5年。初めて言われた言葉だった。とは言っても、学校ではそれなりに成績優秀者として通ってきた彼は、誰かに頼まれて勉強を教える事も多かった。別にそれは、彼にとって決して嫌な事では無く、寧ろ楽しい事だった。物理学者になることが一番の目標でもあったが、それが駄目なら、何かを教える事が出来る立場の人間になりたいとさえ思っていた。しかし同時に、違和感もあった。彼らは皆、テストで良い点数を取りたいから、佐藤に教えを請うのだ。科学を学びたいからでは無く、いい成績を取るための道具として習いたいのだ。それに関して、佐藤は間違っていると言うつもりは無い。人間社会が発展したのは、そうして科学を道具として利用した人たちがいるからだ。当然、佐藤もそれを享受する一人だ。それを否定するつもりは無い。
だから、こう思う。美しくない、と。科学に対する冒涜では無く、言うなれば不誠実。科学は何も言わない。人がどれだけ醜く愚かで、科学をいいように使いまわしたとしても、文句ひとつ言わない。だからこそ、将来科学者になりたいと思う自分は、科学に対して真っ直ぐで、真理のみを求めるべきだと思っている。ただそれは、他の人間に押し付けていい物ではない。寂しさはあるが、それを果たすのは自分だけで良いのだ。
だから、彼女の噓偽りのないであろう、真っ直ぐなその願いは、佐藤には嬉しかった。
「それは勿論良いですけど……」
しかし、曖昧な返事を佐藤はした。嬉しいのは事実であるし、彼女の言葉に嘘が無いのも分かっている。だからこそ、その責任は重い物だと思っている。安易な回答をあまりしたくは無かった。
「あの……一つ聞いていいですか?」
「何だい?」
「マギサさんは数学……いや、算術で良いのかな。何処までできます?」
佐藤はマギサに、彼女が何処まで科学に対しての知識を持っているのかを、数学、化学、物理学、生物学と、多岐にわたって聞いた。マギサはそれに、真摯に答えた。話を終えて佐藤が出した結論は、『彼女は中学生程度の知識を有している』であった。
「……これで何が分かるんだい?」
机の上でメモをとっていた佐藤に、マギサは尋ねた。佐藤は暫く、腕を組んで思いつめたような表情をしていた。
「仮の話ですけど、例えば月に2回、俺がマギサさんに科学を教えたとして、俺と同じ目線になるまで5年……、いや、ひょっとしたら10年かかるかもしれません」
「別に私はそれでも構わないけど?」
「俺が構います。あまり、途中で投げ出したしたくは無いんです。……そうですね、もう少し会える回数を増やせると、早くなるとは思うんですけど」
佐藤は具体的な数は出さなかった。自分の知っている事を全て彼女に理解させるのに、何処まで時間がかかるのか、見当もつかなかったからだ。
「ま、君がそう言うのなら仕方ない。次までに何か案を考えておこう」
そう言いながら、マギサは佐藤の横を通って、ドアに手を掛けた。
「もう行くんですか?」
「うん。まだまだやらなきゃいけない事、残ってるからね。私が君について来たのは、アールがここに来れないからだし」
マギサの言葉で、佐藤は思いつめたような表情をする。地面の床の小さなひびを目でなぞって、言葉を探していた。
「別に、死んでないよ。ま、暫くは動けないだろうけど」
口を開いたのはマギサだった。日常の雑談のような軽い口調で、彼女は言った。佐藤は、希望に満ちた顔を上げた。
「本当……ですか?」
上擦った声で、佐藤が聞いた。
「ああ、本当だとも。私がつまらない嘘を付くわけが無いだろう?」
マギサは、振り返りはしなかった。佐藤は安堵のため息を漏らす。。
「ずっと気になってはいたんですけど、その、聞きにくくて。すみません」
別に構わないさ。と、マギサは返した。そして、ドアノブに手を掛けたまま、
「まだ、何かあるみたいだね?」
と、佐藤に背を向けたまま、言った。
* * *
「あの……少し、良いですか?」
佐藤が声を掛けたのは、フェルムだった。馬車で何かの支度をしているように、佐藤には見えた。フェルムは、一瞬だけ手を止めた。
「……何」
それだけ言って、フェルムはまた手を動かした。
「その、アール……さんの事、謝っておこうと思って」
すみませんでした。と、佐藤は頭を深々と下げた。申し訳ないと思う気持ちと同時に、自分を卑怯だと思う気持ちもあった。アールが無事であるとマギサから知らされなければ、今こうして彼女の目の前に立って謝る勇気はあったのだろうか。
「……何を謝るの」
フェルムが、抑揚のない声で言う。
「多分知ってると思いますけど、俺、アールさんに命を助けられたんです。彼がおとりになって、俺を逃がす形で。本人は大丈夫だと言っていたんですけど、実際に姿を見たわけでは無いし、ずっとその事が引っかかってて」
「大丈夫。だってアールは……」
そこでフェルムの動きは、突然止まった。その時、手綱を握っていた彼女の手が、少しだけ下がった。
「アールは、強いから。だから、サトウが心配をする必要なんてないし、それに前も言ったけど、アールはああいう人なの。見ず知らずの他人のために、簡単に自分を犠牲に出来るような、そんなお人好しなの」
手綱を強く握りしめて、フェルムは答える。
「……知ってます」
佐藤は、懐かしむように言った。思えば、彼が今ここに立っているのは、アールとフェルムとの出会いがあったからだろう。
「……馬鹿だよね」
フェルムは、手綱を取り落とした。彼女は、無言でそれを見つめた。
「え?アールさんが?」
「ああ……うん。そう」
頷きながら、フェルムは手綱を拾った。
「まあ、俺が言う事じゃないですけど、馬鹿は言いすぎじゃないですか?」
「確かに……少し、言い過ぎたかも」
と言って、フェルムは振り返った。佐藤は、息を呑んだ。彼女の顔は、蒼白と言う他無かったからだ。再びフェルムは、握力が消えたかのように、手綱を落とした。そして同時に、膝から地面に崩れ落ちた。
「なっ……!?」
狼狽えた声を、佐藤は上げた。しかし彼が驚いたのも一瞬だった。冷静さを取り戻した佐藤はすぐにフェルムに駆け寄って、彼女の上体を支えた。するとフェルムは、何かの警告のように、口から大量の血を吐き出した。赤い血が、佐藤と彼女の体を濡らした。
「……失礼します」
しかし佐藤は意に介さず、フェルムの額に手をやった。思わず手を引っ込めてしまいそうになる程、彼女の額は熱を帯びていた。佐藤は頭上で悠然と輝く太陽を見上げた。確かに今は砂漠の環境下にいる。今の気温も30度を優に超えるだろう。とは言っても、ここまでの熱は異常だと言わざるを得なかった。
佐藤は次に、彼女の吐いた血を指で掬った。粘り気の無い、真っ赤な血だった。
(胃からの出血じゃない。恐らく喀血……?だとするなら、呼吸器系に何か異常があるのか……?だけど、フェルムさんが咳をする様子は今まで一切無かった。いや、そもそも、彼女を蝕む病状って具体的に何なんだ?人と魔族の遺伝子が混ざり合う事で何か問題が起きてるなら、以前から何か症状があるはず……)
佐藤は今までのフェルムの言動を思い返す。しかし、そのヒントになりそうな事柄は無かった。佐藤はフェルムの後頭部に手をやって、膝の間に腕を入れた。彼女の体を持ち上げるためだ。
「とりあえず、涼しいところに来ましょう。少しでも、体温を下げないと」
「その必要はありませんよ」
と、その時、佐藤とフェルムの両名を、影が覆った。佐藤が振り返ると、途方もなく大きな男が立っていた。全身を覆い隠すような黒い厚手の服に、ほんの僅かに目の所に隙間が空いた、これまた黒い仮面を付けていた。
「……どちら様ですか」
声を低くして、佐藤は答える。すぐに逃げ出せるように、足を組み替えた。
「いきなりで申し訳ありません。私はエクスと申します。その子の父親です」
エクスと名乗った大きな男は、それだけ言った。唐突な言葉に、佐藤は目を丸くした。
「あ……なたが?フェルムさんの?」
「はい。父親です」
エクスは直立不動のまま、言った。
「えっと……。必要が無いとは?」
警戒すべきか安心すべきか、どっちともつかない口調で、佐藤は答えた。
「そのままの意味です。涼しい所に移動したところで、彼女の熱は下がりません。それは魔力によって引き起こされたものですから」
エスクは丁寧に言った。随分礼儀正しい言い方だったが、それには少し焦りも混じっているように佐藤は感じた。今までよりも、少しだけ話す速度が早くなったからだ。
「……なら、どうすれば?」
細かく理由を聞きたいところであったが、時間が無い事は分かり切っていた。簡潔に聞いた佐藤に対して、エスクもまた短く答える。
「その子を、私に預けてください」
佐藤は一瞬だけ考えた。この男が、自分の腕の中で眠る女の子の父親だと証明する方法が無いのだ。マギサから、彼の見た目を聞いておけば良かったと、今更ながら後悔した。時間を掛けて確かめる方法もあるだろうが、しかし佐藤には、これ以上目の前の少女を苦痛にさらす事は耐え難いものだった。
「……分かりました。ただ、一つ条件があります。俺も同行させてください。あなたの事を、確かめる時間もなさそうなので」
「賢明な判断です。あなたが賢い人間で良かった。では、ついて来てください」
エクスは、そう言ってゆっくりと振り向いた。佐藤は、彼が自分の娘を抱えないのかと疑問に思った。それが自分に対する信頼なのか、あるいは気遣いなのか分からなかったが、そんな事を考えても仕方が無い事だけは知っていた。フェルムを抱えようと、腕に力を込めた時だった。
「行きたく……ない」
自分の腕の中で悲痛な声がした。次に彼女が、佐藤の服を引っ張らなければ、幻聴だと思っただろう。それほどまで、今までの彼女から発せられたとは思えない程、感情の籠った声だった。佐藤は、立ち上がる動きを途中で止めた。
「……と、仰っていますけど?」
佐藤の問いに、目の前の男は僅かに仮面をこちら側へ向けた。
「聞こえませんでした。何と仰ったんですか?」
「この子が行きたくないと、仰ったんですよ」
語気を強めて、佐藤は言った。エクスは振り返って、長い腕で頭の後ろを撫でるように掻いた。
「ふむ。困りましたね。あまり強硬手段は取りたくなかったのですが」
「自分の子どもが嫌がっている事を強要するのが、親のやる事なんですか?」
「必要とあらば、強要もします。自分の子のために、あえて心を鬼にする必要もあるでしょう。それとも、君が私の娘を何とかしてくれるのですか?目の前の命について、あなたが責任を取れると?」
「それは……」
そこを言われると弱かった。責任など、とれるはずも無い。フェルムを抱える腕に、暑さ以外の汗が滲んでいた。
「時間が無いので、簡潔に問います。その子を私に渡してください。さもなければ、力ずくでも取り戻します」
エクスは、やはり丁寧な口調で言った。得体の知れない不気味さを、佐藤は感じていた。
「……お断りします」
フェルムを抱える腕に力を込めて、佐藤は言った。
答えは、初めから決まっていたような気もしていた。別に、この男を信じなかった訳じゃない。初めて見せた、フェルムの感情に、いつの間にか突き動かされていた。
「そうですか」
エクスは短く、悲しそうに言った。佐藤はフェルムを担ぎ上げるために、目線を下に落とした。
その瞬間、佐藤の左肩を何かが貫いた。
「痛ッ――!?」
それは巨大な蜘蛛の足だった。エクスの背中から伸びた毛深い円柱の先に、二本の黒く長い爪が生えていた。その爪が佐藤の左肩を貫いたのだ。
佐藤は慌てて、蜘蛛の足を引き抜こうと掴んだ。しかしその足は引き抜くどころか、彼の肩を抉るように、さらに深くへと沈んでいく。
「すみませんが、少々痛い思いをしていただきますよ」
「やった後に言うんじゃねえ!」
痛みを紛らわせるように叫びながら、佐藤は蜘蛛の足を掴んだ腕を固定して、逆に体を後ろ側に全力で引いた。一層激しい痛みと共に、体の中に刺さっていた爪を強引に抜いた。
その拍子に、佐藤の元からフェルムが離れた。彼女は動くことなく、か細い呼吸をするだけだった。
右手で肩を抑えながら、フェルムを逃がすために佐藤は立ち上がる。しかし佐藤の視界にはすでに、四本に増えた蜘蛛の足が、横たわるフェルムの体を取り囲んでいた。
佐藤はフェルムに駆け寄ろうと近づくが、それを牽制するように、エクスは更に二本、蜘蛛の足を増やして、佐藤の前に突き刺した。
「娘には、指一本たりとて触れさせませんよ」
「へえ、そうなんだ」
マギサの声が、佐藤の背後から響いた。その瞬間に、彼の目の前にあった蜘蛛の足が、全て消し飛んでいた。蜘蛛の足は全て、引きちぎられたかのような断面をしていた。そこから、青みがかった透明の液体が流れていた。
「じゃあ、触ってみようかな」
エクスに向けて手を向けたマギサが、挑発するように言った。仮面の男は、何も言うことなく、欠けた蜘蛛の足を、自分のマントの中へしまった。
「何とかしてフェルムを連れて、中で治療を受けるんだ。悪いが君たちの事まで構っている余裕はない」
マギサが、佐藤の横を通り過ぎながら、言った。彼女は歩みを止めず、フェルムの横を通り過ぎて、エクスの目の前まで歩いた。
「契約違反だよ。分かってるよね?エクス」
「ええ、覚悟はしています」
エクスは顔を、自分の遥か下にいるマギサにしっかりと向けて言った。その声には、決意めいたものがあった。
「そうかい。殊勝な事で」
マギサはため息を吐いて、エクスを見つめ返す。親と赤子のような身長差だった。一方は首を深く下げ、また一方は首を大きく上に向けていた。
「『探求の賢者』エクス。規程に則り、君を――私が殺す」
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