第18話 明くる日の馬車の中で
夢を見た。何度か見た事がある夢だ。
その夢の中で、俺は笑っていた。
ワハハハ!みたいな感じじゃなくて、もっとこう、嬉しそうな笑いだ。あるいは、ニヤリとでもいうべきなのだろうか。自然に零れてしまった笑みとでも言えばいいのだろうか。如何せん、目覚める頃にはあまり内容を覚えていないので、こんな時どういう風な表現を使うのが適切なのか、俺には分からない。まあ、覚えていないって事は、ぶっちゃけ分からなくていいのだとは思うのだが。
どうせ夢なのだし。どうせ目覚めれば現実では無いのだから。どんなにエロくて二度寝したくなるような夢でも、どれほど恐ろしい悪夢だったとしても、目覚めてしまえばそれで終わりなのだ。だから、その中で俺が何をしたかなんて、どうでもいい事なのだ。
例え、目の前で黒い何かが吊るされていたとしても。
* * *
馬車が小石を踏んで、その車体が少しだけ跳ねた。その時の衝撃で、佐藤は目を覚ました。
彼の手に、何かが触れていた。それが他人の手だと判断するのに、そう時間はかからなかった。
「シル……」
言いかけて、佐藤は自分の行動を後悔した。その手が、明らかにシルワのそれより小さい事に気がついていなかったからだ。
彼の手を握っていたのは、ニアだった。彼女は佐藤の手を取ったまま、俯いていた。普段は隠しているのであろう蝉のような羽が、小刻みに震えていた。
ニアは佐藤が起きた事に気がつくと、パッと顔を上げて、笑顔を綻ばせた。
「リュウさん!無事で良かったです!」
彼女は佐藤の手を握ったまま、そう答えた。
「あ、ああ……。ニアちゃんの方こそ、無事で何より……」
佐藤は生返事をしながら、馬車の中を見回した。そこに一番いて欲しい人物はいなかった。変わりに、彼の正面にマギサが座っていた。御者席には、小さな影が一つしかなかった。
「おはよ。よく眠れたかい?」
「……ええ、おかげ様で」
「それは良かった。と言っても、私は何もしてないけどね。君が勝手にやった事だし」
「それは……分かってます」
「分かってるなら手間が省けるね。ま、そんなへこたれた顔しなさんな。今はとりあえず、全員の無事を祈ろうじゃないか」
「無事……なんですかね」
佐藤はチラリと、御者席を見た。小さな影の隣には、まるで今の佐藤の心を表すかのような、虚しい空席が一つあるだけだった。
マール、ラディー、アール。
この戦いの中で、失った者達の名前を佐藤は心の中で呟いた。
果たして、この戦いに意味はあったのだろうか、最初は一方的な敵からの恨みから始まった。佐藤達は、それに巻き込まれる形になったと言ってもいい。だとすれば、彼らは悪だ。しかし最期には、形なりにも和解した。今回だけでも、お互いが刃を収めることを誓った。
――なら最初から戦う意味なんてなかったのではないか。
そう、思ってしまう。それはある意味、彼らの否定だ。彼らには戦う理由も覚悟もあったはずだ。彼らは決して佐藤の心の中で侮辱されるために戦ったのではない。己が己の矜持に基づいて戦ったはずだ。それが間違っているかどうかなんて、だれにも分からないし、答えられない事だ。きっとそれは、神様にだってわかりやしない。
それでも――思ってしまう。死んでしまったらそこまでなのだと。消えてしまえばそれまでなのだと。
死は冷たくて、儚くて、絶対で――平等だ。そこに例外は無い。
分かっている筈だ。分からされたはずだ。どんなに恰好良くても、どんなに苦しくても、死んでは意味が無いのだ。
苦しみから解放される事なんて、ありはしないのだから。
「サトウ君、これ返すよ」
俯いていた佐藤が顔を上げたのは、そんな声がしたからだ。見れば、そこにはマギサが立っていて、手を差し伸べていた。
彼女が掴んでいたのは、佐藤が転生前に使っていた腕時計だった。レグム王国で投獄される事になった時に、兵士に没収されたものだった。
「あ……すっかり忘れてました。すみません。わざわざ」
「どういたしまして」
驚いた声を上げつつ、佐藤はそれを受け取った。右手で時計を何度か回転させて、異常が無いか確かめてみた。ある一点を覗いて、時計は傷一つなかった。
「止まってる……」
液晶画面に表示されている数字は、午前0時00分で止まっていた。佐藤はマギサに目を向けると、彼女は露骨に目をそらした。
「……ちょっと気になって色々弄っちゃった」
「良いですよ別に。すぐ元に戻せますし、どのみち時間は合ってなかったでしょうから」
「ごめんね。やっぱりそれ、時計なんだね。この世界にも似たようなのがあるけど、それ高い?」
「うーん……そうですね。子どもからすると高級品ってくらいでしょうか」
「やっぱりそんなもんなんだね。こっちの世界だとそんな小型時計、高くて金持ちの嗜みにしかならないけど、そっちの世界の技術ってのは凄いね」
「……」
時計でこの反応なら、スマートフォンを見せたらどんなリアクションをするのだろうと、佐藤はそんな事を考えながらマギサを見た。彼女は、無言で見つめてくる佐藤に首を傾げながら、元の位置に戻って座った。
「あ、あの……それ、見せてもらって、いいですか?」
ニアがおずおずと佐藤に聞いてきた。いつの間にか、握っていた手は離していたようだった。
「んー……。ちょっと待ってね。マギサさん。今って何月の何日の何時くらいですかね」
「8月17日。時間は……まあ14時くらいじゃない?」
佐藤は言ってから、昔の呼び方のように、丑三つ時なんて言い出したらどうしようかと思ったのだが、どうやら杞憂だった。その後詳しく話を聞いてみると、この世界の時間の数え方は現代と全く同じだった。
つまり1年は365日あり、12ヶ月に分かれ、1ヶ月はおおよそ30日あり、そして1日は24時間に分割され、1時間は60分が積み重なり、1分は60秒から出来ている。奇妙なくらいに、元の世界と一致していた。
しかしながら、これはあくまでこの世界の言葉を、無理矢理日本語に変換する佐藤の能力というフィルターを通してである。実際に彼女が話した内容と、佐藤が聞いた内容が一致しているとは限らないのである。それこそ、丑三つ時を午前二時と訳す事だってあり得るのだ。
彼はあらゆる情報が手に入る一方。あらゆる情報が損失してしまう可能性がある。その事は、彼も理解していた。
(協力者がいると嬉しいんだけどな。なるべく、俺と違う能力の)
彼はそう思いながら、時計を彼女に言われた通りにセットした。8月17日。記憶が正しければ、
何も思う事が無い訳では無かったが、今はとりあえず、何も考えないようにした。親友と呼べる男の顔が一瞬出てきそうになった所で、佐藤は慌ててニアに時計を差し出した。
「はい。好きなだけ見ていいけど、横のボタンには触らないでね」
「あ、ありがとうございます……」
ニアは訝しげな表情で、液晶画面を眺めていた。大人しい性格だからか、乱暴に振ったり、叩いたりすることは無かった。ただ刻々と変化する黒と灰色の画面を、黙って見つめていた。
5分程見つめていた所で、飽きてしまったのかニアは時計を佐藤に返した。佐藤はそれを、左腕に付ける。
「ありがとうございました……。やっぱり、何で文字があんなに速く変わるのか、私には分かりませんでした……」
「んー……。魔法じゃないって事は言えるんだけどね……」
そのまま暫く、無言が続いた。佐藤は特に何かを言うつもりは無かった。饒舌なタイプでは無いし、何より――ニアと込み入った話をしたくなかった。
母親が真っ二つになって死んだことを、どう告げればいいのか分からなかった。
「……やっぱり」
唐突に、ニアが口を開いた。
「……言った方が良いですよね。私知ってるんです」
「な、何を?」
佐藤は反射的に聞き返した。思えば、そこで『そうか』とでも言っておけば、まだマシだったかもしれない。けれど、夜道で背後に気配を感じれば、思わず振り返ってしまうように――聞いてしまった。
「お母さんが、死んじゃった事」
その瞬間。
全身から、血の気が引いていくのを佐藤は感じた。その声は、恐ろしいほど冷たかった。母親を殺された娘の声だとは、全く思えなかった。あるいは、それは彼女の怒りなのだろうか。
佐藤は、先程と同じように、彼女の顔を見た。思わず、見てしまった。
思えば、彼女の顔をちゃんと見たのは、目覚めてから初めてだったかもしれない。
まだ、あどけなさの残る、全体的に丸っこくて、可愛らしい、愛らしい顔は――
少しだけ、残念そうに笑っていて――そして、彼女の目の端には、涙の痕があった。鼻の少し下は、赤くなっていた。
沢山泣いたのだろう、涙は出尽くしたのだろう。目は元の色に戻っているのに、声は普通なのに、まるで消えない傷のように、その筋は残っていた。
「もう……いっぱい泣きましたから」
そう言って、ニアは佐藤に向けて笑顔を見せる。唇がわずかに震えていて、それが無理矢理作った物だとはすぐに分かった。
佐藤の胸は、今にも張り裂けそうだった。喉の奥で、何かがつっかえていた。どう慰めればいいのかなんて、佐藤には分からない。だけど、たった一つだけ、佐藤にも分かる事がある。
だから――
「……強いんだな」
褒めた。褒めるつもりは毛頭なかったのだが、自然に出た言葉がそれだった。
「褒めったって、何も出ませんよ」
「だよな」
「あと、聞きたいこともあって……」
「ん?何?」
そう言って、佐藤は無理に顔に笑顔を張り付けて、ニアを真っ直ぐ見つめた。
「あの……黒いのって、何なんですか」
佐藤の笑顔が、凍り付く。
「多分……あれが、その、お、お母さんを……」
答えは良く知っている。しかし、凍り付いた口は動かない。
「それに……リュウさんだって、私を庇って刺されて……」
「ちが……」
違わない。紛れもない、事実だ。そこにあるものは、何も揺るぎはしない。
佐藤は押し黙って、葛藤する。考える事、およそ15分。その間、ニアはただ静かに待っていた。
「……ごめん。分からない」
佐藤は、そう言った。
「えっと……。リュウさんも知らないん……ですよね」
佐藤は頷く。自分が今、どれだけ最低な事をしているのか、現実は冷たく佐藤に告げる。
「……」
ニアは暫く考えるような仕草をした。何を思っているのだろうか、何に気付いてしまったのだろうか。一挙手一投足が、佐藤に冷たい刃となって降り注ぐ。
何処かで、ため息が聞こえたような気がした。佐藤は忙しなく、馬車の中のあちこちに視線を移す。誰も何も言ってないし、誰も佐藤の事を見ていないのに、まるで全世界の人間に一斉に指でも刺された気分だった。
「リュウさんも知らないとなると……。どうしよう……」
「……恨んでる?あいつの事」
佐藤が聞くと、ニア困ったような顔をした。
「まあ……恨みが無いかと言えば、もちろん嘘ですけど……でも」
ニアその困ったような顔を佐藤に向けて、笑った。
「魔族なので、仕方ないですよ」
「仕方……ない?」
――ふざけるなと、叫びたかった。
そんな事二度と言うなと、叱りたかった。
二度とそんな事言わせない世界にしてやると、宣言したかった。
良い訳無い。そんな事、許されていい筈が無い。子どもが親を殺されて、仕方ないだって?そんな世界、まかり通ってたまるか――
だが、それを佐藤に言う資格は無い。今こうして、彼女を裏切っている自分に、そんな事を言える資格は無い。
「仕方ないって……そんなの……」
歯切れ悪く佐藤が言うと、ニアはまた笑う。
「良いんです。やっぱり、リュウさんは優しいんですね。転生者って、想像してたのと全然違うって、リュウさんを見てそう思います」
止めろ。
「そんな事よりも、あの時、私を助けてくれてあり――」
「止めろ!」
思いは、既に口から溢れていた。佐藤は、ニアを抱きしめていた。自分の体に引き寄せて、その口を強引に塞いだ。苦しそうに、彼女が佐藤の腕の中でもがく。佐藤は、慌てて自分の体から、ニアを引き剥がす。
「――ぷはっ。リュ、リュウさん?いきなり何を……」
「無いんだ」
声が震えた。
「え……?」
「君に『ありがとう』だなんて言ってもらう資格。俺には無いんだ……」
「た、確かに、お母さんは死んじゃったけど、で、でも、リュウさんは私を助けてくれたじゃないですか」
困惑した表情で、ニアは言葉を繋げる。
「違う……違うんだ……」
「え、えっと、じゃあ、どうして?」
「それは……その、ごめん」
その先が、佐藤には言えない。どうしても、体がそれを拒絶する。心がそれを拒絶する。
「ごめん……。本当にごめん」
呆然と言葉を繰り返す佐藤を、今度はニアが抱きしめた。膝立ちになって、少しだけ、佐藤よりも高い位置から。
沈黙を貫いたまま、小さな体で、優しく佐藤を包みこんだ。
「ごめん……」
掠れた声で、佐藤は言った。頬に一筋だけ、何かが伝う感覚があった。
「ごめん……ごめん……」
佐藤は謝り続けた。奇しくもそれは、佐藤がシルワにしたことと同じだった。
しかし――ニアは時折、佐藤の顔を見ながら、優しく頭を撫でていた。
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