第16話 憤怒
静かな森の中で木霊したのは、二つの声だった。どちらとも女の声で、一つは幼く、もう一つは少し低く、柔らかみのある声だった。佐藤はその声のした方を半ば反射的に向きながら、ただ静かに耳を澄ませていた。
そこはもう、先ほどの白一色の世界では無かった。木々が生い茂る、森の中だった。
佐藤は自分の頬を軽くつねった。想像通りの痛みが、頬で起こった。鼻を利かせれば、苦みのある匂いがした。腕を横に伸ばせば、木々の隙間から吹く風も感じられた。
(……痛いし匂うし、感覚もちゃんとあるのか)
直感か本能か、佐藤は何となく、ここがどういう世界かは分かっていた。それをうまく言語化する事は出来ないし、結局彼の中の常識の外にある事に変わりは無いのだが、ここは恐らく彼女の昔の記憶の世界で、自分はその世界の中に観測者として存在しているのだろうと、そう直感していた。
佐藤は声のした方へ、草木をかき分けながら森の中を進んだ。そこへたどり着くのは、そう難しいことでは無かった。そこにあったのは、大人の女性が泣いている少女を宥めている、どこにでもある光景だった。
(あれが……シルワさんの母親なんだろうか)
佐藤の位置から、母親らしき人物の顔は良く見えなかった。少し小さな背中と、腰の辺りまで伸びた黒髪だけが見えていた。
『だから言ったのに……走ったら危ないって』
母親らしき人物が言った。その目線の先にいる少女は、時折お母さんと叫びながら、相変わらず泣き続けていた。
佐藤が次に思ったのは、その血の繋がりについてだった。金色の髪の娘と、黒色の髪の母親。今もまだ、シルワが金髪のままである事を考えると、彼女がお母さんと呼ぶその存在は、真に正しいのかは曖昧だった。けれど、それをわざわざ結論付けることは佐藤には出来なかった。ただ心の中に、静かに仕舞う事にした。
『痛いの痛いの、飛んで行け』
母親が彼女に向かって手を伸ばして、そう優しく、あやすように言うと、彼女の手が緑色に光った。光に包まれたシルワは、いつの間にか泣き止んでいて、驚いたような顔をしていた。
『痛いの、飛んで行った?』
『うん!……お母さん今の、どうやったの!?』
『知りたい?』
シルワは首を縦に何度も振った。それを見た母親は小さく笑う。
『なら、後で教えてあげる。だから、もう勝手に走ったりしたらダメ。いい?』
『……うん』
『じゃあいつもの。小指出して』
そう言って、母親はシルワの方に向けて、小指を立てた。シルワも同じように小指を立てて、あ互いの指を絡め合わせる。そのまま、母親に釣られるようにして、一体となった腕を上下に振る。
『指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます』
母親の声が、森の中で響く。そのフレーズが終われば、森は、風で気が揺れる微かな雑音だけを残して静かになった。
シルワが、腕を引いて絡めた指を引き離す。母親の指が、まだ足りないとでも言いたげに、少しだけシルワの方へ伸びた。
『お母さん?』
『ううん。ごめん、何でもない』
そんなやりとりがあってから、母親はシルワを抱えて、森の奥へと進んだ。佐藤は自分の姿が彼女たちから見えない事を分かっていたが、自分の姿を晒す事がないよう、木の影に隠れながら、その後を追った。
彼女達を追ってたどり着いたのは、巨大な樹と混じるように出来ているツリーハウスだった。佐藤がシルワにお世話になった時のそれと、少し新しく感じるところ以外は、大した違いも無かった。
二人が吊るされた縄梯子を登り切ったのを見てから、佐藤も同じようにそれに手を掛ける。彼がずっと――それこそ、最初に彼女と出会ったときからの、今まで解消されることの無かった違和感を、彼は胸の中に抱えたまま、無言で手足を動かして、縄梯子を登った。
佐藤は縄梯子を登り切って、落とし戸押し込んで開けた。彼女たちが、その物音を不審に思う事や、耳を傾ける事は無かった。彼は遠慮がちに、ツリーハウスの中を見て回った。やはり、その間取りや置いてある物に、特に差異は無かった。
佐藤はツリーハウスの中を一通り見て回ると、少し離れた位置で壁に凭れて、そこからありふれた、たわいもない二人の様子を静かに見届ける事にした。まるでピアノソロのコンサートにでも来ているかのように、彼には二人のやり取りが、他の一切の介入を許さない、とても神聖な物に感じていた。
しかし同時に――何かが背後を這ってくるような、得体のしれない恐怖心も感じていた。それは彼の中にある違和感から来るものであったが――佐藤は、無意識のうちにそれを言葉として、あるいは思考として、結論を出す事を拒んでいた。
そのまま――佐藤が心に蓋をしたまま、数時間が経った。ツリーハウスの中に出来ている影はいつの間にかすっかり伸びていて、緑の間を縫って微かに赤い光が射していた。シルワは椅子に座って何かの本を読んでいて、母親は夕食の準備をしていた。
『ねえ、お母さん』
ふと、本を広げたまま、シルワが顔を上げた。
『なあに?』
『魔族って、悪い人なの?』
母親は、ぴくりと鍋をかき回す腕の動きを止めた。しかしそれも一瞬で、まるで何事も無かったかのように、再び腕の動きを元に戻した。
『急にどうしたの?』
『本に書いてあったから。魔族は"かとう"種族だって。"かとう"って、悪いって事でしょ?』
『そうね』
『だから、悪い人なのかなぁって』
母親はそれには答えずに鍋を火から外すと、シルワにゆっくりと詰め寄ってから、少し屈んだ。シルワは無垢な目のまま、母親の動きを眺めていた。
『シルワ、魔族はね――』
その先は、無かった。その瞬間、母親の胸の中心から、夕日を浴びて赤黒く光る何かが飛び出た。
胸から激しく噴き出した血が、目を見開いたままの彼女を赤く濡らした。辺りには鉄の匂いが広がった。果たして今の彼女に――その匂いを感じ取る事は、出来たであろうか。
『人間に虐げられた、可哀想な種族だよなあ?』
虚しく口を震わせる母親に取って代わって、いつの間にか彼女の背後に立っていた男がそう続けた。頭に二つの角が生えた男の手には剣が握られていて、その先端は母親を貫いていた。
『全くよぉ、道理でなかなか見つからないと思ってたら、こんなところにいたのかよ。しかもおまけに子どもまでいやがるとはな』
男は呟くと、母親の体から剣を引き抜いて、腰に携えた鞘の中にそれを仕舞った。鍔と鞘の間から収まりきれずに溢れ出した血が男の片手を濡らしたが、男はさして気にする様子もなく、崩れ落ちる母親をただひたすらに見つめるシルワを一瞥した。
『さて、これはどうしたものか……』
男は少し考えてから、再び鞘から剣を抜いて、それを少女に向けた。
『俺達で利用する手もあるにはあるが……ま、"かとう"だなんて言ってくれた礼だ。どうせ大して役に立たないだろうし、悪いがここで死んでもらうぜ』
男は嫌味っぽく言って、椅子に座って俯いたまま動かない少女の首に刃を当てた。刃を真っ直ぐ引けば、それだけで少女の柔らかい首は飛ぶだろう。しかし男は敢えて、剣を大きく振りかぶった。痛みをあまり感じないように、一瞬で首を落とす。せめてもの情け、というやつだった。一瞬の間を置いて、男は剣を振り下ろす――
* * *
『やあ、お嬢ちゃん。はじめまして』
その声は、何処からともなく少女の耳に響いた。
そこは黒だった。闇夜か、水底か、はたまた空の彼方か。しかしそのどれとも違う、完全な黒で覆われた世界だった。その中心に少女が、一人ぽつりと立っていた。
『だれ?』
その声に答えるように、手の形に似た霧が現れ、少女の頬を撫でるように包んだ。本来見えない筈のその霧は、はっきりと、しかし曖昧な形で、少女にも見えるように出現していた。
『俺か?神様だよ』
少女は首を傾げる。
『"かみさま"って何?』
黒い霧の手は、少女の頬からすっと離れた。
『なんだ知らねーの?そうだな……』
黒い霧の手の指が、一本一本滑らかに動く。少し経ってからその動きは止まり、霧は人差し指を一本、真っ直ぐ立てた。
『何でも願いを叶えてくれるお嬢ちゃんの味方!……とでも思っていてくれ』
『なんでも?』
少女は眉一つ動かさず、言葉を返す。今の少女はまるで、ただ言葉を発するためだけに作られた機械のようだった。
『なんでもな。と言っても……そうだな、自分が何になりたいか、それを俺に教えてくれれば、まあ、お嬢ちゃんの純度はかなり高いから、よっぽどじゃない限りは、なんでも行けると思うぜ?』
適当な調子で、神と名乗った何者かが返した。
『なら私を――』
その時。
沸々と、風も温度も無い世界で、彼女の髪の一本一本がまるで意思を持っているかのように、独りでに湧き上がった。周りの黒は、次第に足元から少女を飲み込み始めた。
『獣にして』
『獣?そりゃ何でまた』
『お母さんが言ってたから。人を殺していいのは獣だけだって』
『ふーむ。まあ、問題ないだろう。他には?』
『他?』
『ああ、他だ。別に無いならそれでも構わないが、何も一つだけとは言っていないからな』
ふわりと、少女の湧き上がっていた髪は何らかの力を失ったのか、元の位置に戻った。少女は少し考えてから、
『じゃあ、植物にもなりたい』
『ふむ、どうして?』
『薬になって、お母さんを助ける』
『なるほどなるほど、そっちのも構わねえぜ』
黒い霧は、次第に大きくなって少女を包み込む。それに合わせて少女の柔らかな金髪は再び湧き上がり、完全な黒に染まる。足元から少女を侵食していた黒も、次第に獣の皮膚を形成していく。
『契約完了だぜ、お嬢ちゃん』
神と名乗った何者かのその声も、もう既に少女の耳には届いていなかった。
『そうだな、お前のそれは"憤怒"だ――』
空っぽの世界で、その声は響く。
『怒りに、我を忘れろ』
* * *
――金属音一つ。
それは、男の手に握られていた剣が、折れた音だった。か弱き少女の首を跳ね飛ばさんと振るわれたその刃は、少女の首に触れた瞬間、その役を失った。しかし、男がそれを認識することは無かった。
金属音の後に続いたのは、縄を強引に引き千切るような音だった。
――それは、黒い獣の腕が、男の角を掴んで首を引き千切った音だった。
勢いよく飛びあがって男の首を千切った獣は、男の生首を持ったまま、ツリーハウスの窓から外へと飛び出した。そのまま十メートル程の高さから落下すると、残った三本の足で音もなく着地した。
外には、男の仲間だろうか、同じように頭に二本の角の生えた男が三人、ツリーハウスのすぐ傍で待機していた。そのうち二人は談笑していて、残った一人は、苛立っているのか、腕を組んでしきりにツリーハウスを見上げていた。
『ったく……ここまで来るのに相当時間かかっているんだから、早く終わらせろよ……。一応人間領だぞ、ここ』
男が呟くと、談笑していた二人はそれをやめ、そのうちの一人がその男に近づいた。
『まあいいじゃないですか。どうせこんな辺鄙な所、誰も来ませんって』
『だとしても、女一人始末をつけるだけで時間かかり過ぎだろう。戦闘の様子がある訳でも無いしな』
『それはそうですけど、あの人の事ですし、標的をいたぶって遊んでるんじゃないんですか?』
『……かもな。悪い、少し苛ついていた。冷静になるべきだな』
『いえいえ、別に謝らなくても。あ、そうだ。煙草吸います?』
そう言って男は、懐から煙草を一本、取り出して、それを差し出した。しかし、差し出された男は腕を組んだまま、その場から動かなかった。
『どうかしましたか?』
腕を組んだ男は、動かない。
『あのー……』
腕を組んだ男は、やはり動かない。
怪訝に思った男は、煙草を懐に戻して、腕を組んだままの男の肩を揺らした。すると――
腕を組んだ男の首が、氷河の崩落のようにズレて落ちた。
『え……』
男は笑顔で固まったまま、ただ首から勢いよく噴き出す血を浴びていた。
『……おっ、おい!敵が――』
そう言いながら、男がもう一人に向かって振り返ったのは、随分後の事だった。恐怖に完全に支配されていた男は――もう一人の仲間が少しの声も出していない事に、全く気が付いていなかった。
振り返った先では――小さな黒い獣がいた。傍らには、切られた生首が二つあった。どれも男が知っている顔だった。
『な……ん……』
男は何かに押しのけられるように、数歩後ずさった。その音を聞きつけたか否か、背中を向けていた獣は、振り返って男の方を睨んだ。鋭い牙を鳴らせて、威嚇するように――あるいは、最後の獲物に対して時間を掛けて遊ぶように、ゆっくりと男に向かって歩き始めた。
『や……やめろ。ひぃっ!』
男は悲鳴を上げて、一目散に逃げだした。男が振り返ろうと目を逸らした瞬間、獣は跳躍して男に飛び掛かった。そしてそれと同時に、男は転んだ。その足には黒い触手が絡みついていたが、男がそれに気づく筈も無かった。
『うわああああ!』
情けない悲鳴を上げて、男は反射的に目を閉じた。飛び掛かった獣は、大きく腕を振りかぶって、男に突き刺す――その、直前。一つの影が、二人の間に割って入った。
黒い獣の、シルワの、振り下ろした爪は――
自分の母親に、深々と突き刺さった。
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