第15話 忘却の扉

「リ、リュウさん……?」


次第に体が動き始めたニアが、恐る恐る口を開いた。彼女が声を掛けた相手からの返事は無かった。ニアはゆっくりと、一種の淡い期待のような物を込めながら、佐藤の体の前の方に、目を移した。


「ひっ……」


佐藤を見て、上げるつもりも無かった悲鳴を彼女は上げた。それは獣の腕によって引き起こされた凄惨な場面を見たからでは無かった。ただ――光を失った目の彼は、笑っていた。それが堪らなく不気味だった。


震える手を何とか押さえつけて、ニアは佐藤に向かって何とか手を伸ばそうとした。治癒魔法を使うためである。しかし、その途中で、その伸びた手を誰かが掴んだ。ニアはまた、小さく悲鳴を上げた。


「彼――ひどい無茶をするだろう?これで魔力がほとんど無いってんだから、相当な馬鹿――いや」


彼女は笑う。嬉しそうに、納得したように。


「大したものだよ。きっとね」


そこに立っていたのはマギサだった。紫色の三角帽子に紫色のぶかぶかのローブ。お世辞にも似合っているとは言えないその姿を、まるで見せびらかすように、彼女は堂々と立っていた。


「あ、あなたは?」

「ん――私の名前はマギサ。彼らを助けに来た。どうぞよろしく」


そう言って、彼女は手を差し出した。妙に気が抜けた声だった。ニアは張りつめていたものが徐々に解けるような感覚がした。


「よ、よろしくお願いします」


そう言って、ニアは差し出された手を握り返した。


「――さて、サトウ君は生きてるのかな?」


マギサはそう呟いて、躊躇なく光が消えた佐藤の瞳を覗き込んだ。考えるような唸り声を上げながら、瞼を指で広げた。そうしてから、サトウが掴んでいる獣の腕を、少しだけ動かした。


(ははーん……なるほどねぇ)


マギサは腕の位置を元に戻すと、ニアに向かって振り返った。


「えっと……ニアちゃんだよね?ちょっと手伝ってもらっていい?もしかしたら、彼を助けられるかもしれないからさ」

「あ……喜んで。その……助けられるんですか?」

「んー。多分ね」


マギサは生返事をしながら、佐藤の胸に刺さっている黒い獣の腕を無理やり引き抜いた。ニアは反射的に手で目を覆った。


「な、何してるんですか……」

「まあ、このままじゃその瞬間に死んじゃうだけだし、ひとまず体を元に戻さないとね。これの治療、お願いできるかな?」


マギサはそう言って、引き抜いた後の佐藤の傷口を指差した。ニアは生返事をして、小さな手を佐藤の傷口に慎重に当てた。そうしてから、治療魔法を使った。ニアの手を取り囲むように発生した光のドームが、彼の傷口に触れると、数分も経たないうちに、その傷口は引き裂かれた服だけを残して、綺麗に消え去った。


「中々いい腕してるね。流石は魔族って所かな?」


その様子を眺めていたマギサが、腕を組んで満足げに言った。


「あ、ありがとうございます……」


困惑した表情で、ニアは一応の感謝の述べた。自分の目の前に立つ人間の女が、この状況下でどうしてそこまで冷静に――あるいは、何事も無かったかのように振る舞えるのだろうかと、そう思わずにはいられなかった。


マギサはニアから困惑と羨望を混ぜた眼を向けられながら、佐藤の方では無く、未だ動く気配の無い黒い獣の頭の上へ手を乗せた。


「今彼はね、にいるんだ。人間って、肉体と魂と精神で出来ているんだけど――彼の精神は、今ここにいる。そっちに居るのは、糸を失った操り人形とでも言えばいいのかな。だから、それを正しい所へ戻してやる必要があるんだ。君がさっき彼を治療してくれている間に分析してたんだけどさ。いやはや、毎度毎度とんでもない事してくれるよ。彼は」


そう言って、マギサは紫色の三角帽子の下から、不気味な笑顔を覗かせた。その独り言のような文言は、まるで世にも恐ろしい呪詛でも呟いているように、ニアは感じた。少しだけ体が震えた。


「そ、それで、この次はどうしたら?」

「ああもういいよ。後は彼を戻すだけで多分行けるんじゃないかな。ちょっと集中するから、一応ここで待っててもらえるかな?あんまりうろちょろされると気が散るからさ」

「え……でもお母さ――」


そこでニアの意識はぷつりと切れた。力を失い倒れるその体を、マギサは魔法を使って受け止めた。


「……強引な手段で悪いね。だけど、母親の死に様を見るなんて経験、一人で十分だろう?」


マギサは呟いて、ゆっくりとニアを地面に寝かせた。そうしてから、顔の向きと意識を獣の方へと向けた。


「さてさて……まとめて戻してやりますか。まさに二心同体とは、仲がよろしいようで」



*   *   *



気が付くと、佐藤は白一色の世界にいた。輪郭が曖昧で、何処までそれが続いているのか分からない、上下左右の区別も付かない、白色の世界。佐藤はそこに、ぽつりと一人で立っていた。そしてその世界は、佐藤が異世界に来る前に、あの憎たらしい自称神様と話をした時の場所と酷似していた。


「俺……死んだよな。心臓ブチ抜かれたし。これがあれか?死後の世界って奴なのか。やけに見覚えがある世界だけども」


佐藤は一人呟く。血も痛みも穴も、彼の体に合った筈の傷はすべて綺麗に消えていた。自分の体の無事を確認してから(とは言っても、真にそれが自分の体かどうかは疑っていたが)彼はあても無く歩き始めた。


真っ白な空間を歩き始めてから、彼が考えていたのはシルワの事だった。自分が消えた後の彼女のその後が、気になって仕方が無かった。最も、そういう選択をしたのは紛れも無い自分自身であるのだが、黒い獣の下の彼女の顔がどうなっているのか、考えざるを得なかった。


あの黒い獣の顔の下がどうなっているのか――役に立てて喜んでいるのか、傷つけた事を怒っているのか、傷つけてしまった事を哀しんでいるのか、傷つける事を喜んでいるのか――その顔がどんな顔をしているのか、こうあって欲しいという願いはあっても、結局、彼の足が止まるまで、彼女が今どんな顔をしているのか、想像出来なかった。


想像ですら――追い付けそうも無かった。



彼が足を止めたのは、目の前に扉が現れたからだった。最初からあったのか、はたまた突然現れたのか、どちらがより正しい表現なのかは、佐藤には分からなかったが――兎に角にも、佐藤は扉の前で足を止めていた。まるでそれがそうなる定めであったかのように。


「何だこれ……」


佐藤は呟く。


それは紫色と白色が混ざった扉だった。紫色が基本で、時折白色がアクセントのように、あるいは主張するかのような色合いで混じっていた。――そしてその扉は、奥に続く部屋や空間らしきものはなかった。扉だけが、空間に埋め込まれたように、そこにあった。


「どこでもドアみてーなデザインだな……。それになんか、鎖?で縛られてるし」


扉に鍵らしきものはなかった。ドアノブのようなものも無く、ノッカーだけが付いていた。しかし――その代わりに、扉は輪になった鎖が何重か巻き付いていて、人が入れる程には開きそうに無かった。


「やあサトウ君。久方ぶりって表現、あってるっけ?」


背後から声がした。佐藤には、その正体がすぐに分かった。知っている声だった。


「……マギサさん。奇遇ですね」


佐藤は振り返って言った。そこにはまるで当然とでも言わんばかりに、マギサが立っていた。


「あんまり驚かないんだね」

「なんとなく、ここが死後の世界では無いのは分かってましたし」

「そっかそっか」


そう言って、マギサは満足げな表情を浮かべて頷いた。


「どうかしました?」

「いや別に。ただやっぱり君は面白いなあって、そう思っただけ」

「そうですか……所で、これ、何なんですか?」


佐藤は目の前の扉を指さした。今度は佐藤の代わりに、シルワがそれに近づいて、扉に手を触れた。


「そうだね。単刀直入に言うなら――これは記憶だよ。彼女の記憶の、その入り口」


やはり彼女は――何でもないような調子で、そう言うのであった。



「『魔法に不可能は存在しない』昔のある有名な――いや、悪名高き魔法使いが残した言葉なんだけども、実はね、魔法にも出来ない事が一つだけあった。何だと思う?」

「……記憶に関する事」

「察しが良くて助かるよ。実は記憶ってね、魔法で扱うには少し厄介なんだよ。イメージとか、感情とか、そういう魔力領域的な物じゃなくて――実際に脳に情報を刻む、物理的な物だからさ。例えるなら――本にインクで書く日記……とでも言えばいいかな。見るだけなら、何の問題も無いけど、例えば、それに強引に情報を書き換えたり消そうとしたりすれば、文脈がおかしくなっり、そのページが破けて本自体がダメになっちまうだろう?それを人間の脳みそでやっちゃったら、良くて精神崩壊、悪けりゃ脳組織が破壊されて即死。勿論、完璧にやり通せば問題ないと思うけど、流石に人間一人で出来る仕事量じゃないんだよね。だから私達魔法研究者の間では、不可能って事で決着がついたんだ」

「でも、マギサさんの口ぶりからすると、これって……」

「そう、。少し前にシルワの中に入った時なんだけど、一部の記憶が、彼女からは読み取れなかった。無いんじゃなくて――まるで鍵がかかってるみたいに、あるはずなんだけど、侵入を拒まれた。その時は原因が分からなかったんだけど、この国に来て原因が分かったんだ」

「その原因は、何だったんですか?」

「いやあそれがね。恥ずかしい話忘れてただけってオチだったんだけど、実はね、一つあるんだよ。魔族にしか使えない魔法が」


マギサは、呆れたような表情で腕を横に伸ばして言った。


「そんな魔法、あるんですか?」

「呪術って呼ばれている魔法でね。人間だけが使えない唯一の魔法でね。どういう魔法かっていうと、対象に制約を設ける魔法なんだ。例えば、もう肉を食べれなくなるとか、溺れなくなるとか――何かを思い出す事が出来なくなる……とかね」


マギサはそう言うと、扉の前に徐に近づいて、掛かっている鎖に触れた。


「……この鎖が、恐らくそうなんだろう。何者がこれをやったのかは知らないけど――しかし、困ったな。どうすればこれが解けるのか、私には見当も――」


彼女の言葉を遮るように、佐藤は右手を伸ばして、鎖を掴んだ。


「少し、離れていて下さい」

「いいけど?」


そう言ってマギサが自分から離れた事を確認してから、佐藤はさして力も込めず、鎖を引っ張って、いとも簡単にその鎖を引き千切った。


壊れた鎖が地面に落ちて、甲高い音が鳴った。マギサは驚いた表情で、少し丸くなった佐藤の後姿を、ただ見つめていた。


「は……えっと、どうやったの?今」

「いえ……ただ何となく、出来そうな気がしたので」

「それで出来るものじゃないと私は強く主張したいんだけど」

「……」


佐藤は自分の右腕を見つめた。何の変哲もない、人間の腕以外の何物でもない腕だった。


「以前の俺なら、出来なかったと思います。結局、シルワさんから貰った力で、彼女を助けてるだけです。還元してるだけとでも言えばいいんですかね」

「そこまで卑屈にならなくていいと思うけど……。ま、いいや。それよりその扉、空けるつもり?」

「一応……開けないと多分、どうしようもないと思いますし」

「それ開けたら、どうなるか予想は付いてるんじゃないの?確かに私は彼女から記憶を読み取る事が出来なかったけど、それでも、彼女の身に何が起きたかの想像くらいはつくよ」


真剣な表情に変わって、マギサは言った。


「……これが、死者の墓を掘り返すにも等しい行為なのは分かっています。けど、それでも、俺がシルワさんの力になれるなら――そのくらいの罪は、背負います」


佐藤は少し間を取って言った。それは迷いがあったからでは無かった。


「そうか。なら私は、もう何も言わないさ」


マギサは、何処か遠い所を、無表情で見つめながら言った。


佐藤は踏ん切りをつけるように一つ息を吐いて、扉のノッカーを引っ張った。ドアはあっさりと開いた。


――そこから溢れ出たのは、黒だった。不定形の黒だった。液体のような、霧のような、スライムのような。しかしどれとも違った。その黒は形を自在に変えながら、白い世界をすさまじいスピードで浸食していった。地面に混ざり、空に混ざり、背景に混ざり――


そしてその黒は、やがて佐藤達を飲み込んだ。

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