第14話 人と獣の境界線

突然――佐藤の体が動いた。佐藤は前につんのめって、転びかけた。慌てて足を自分の前に出して、醜態を晒す事は避けた。


「おい……嘘だろ。それってよ……」


佐藤は呟く。


マールからの言葉は無い。彼女の能力で命令されたわけではない。それなのに、今の佐藤は動けるし、喋れる。それが意味することは、彼の体にかけられていた命令が無くなったという事である。


別に、誰から聞いたわけでも無い。しかし、仮に『祝福』の効果が無くなるとすればどんな時だろうか――それ以上の力が働いた時だろうか――あるいは、別の『祝福』によって、その効果が打ち消された時だろうか。


あるいは、その『祝福』を持つ者が死んだ時だろうか。


佐藤は声にならない叫びを上げた。自分の背中に這いよった何かを振り払うように、直ぐにマールが飛ばされた方へ走り出した。そして佐藤の嫌な予感は――最悪の形で的中した。。


いくつかの人形が置かれていた部屋だった。子供部屋だろうか、明るい色を中心にしてデザインされたその部屋は、明かりが灯っておらず薄暗かった。


そしてそこには――何処かを目指して歩く黒い獣と、その傍らで二つに分かれたマールの死体があった。


「は――はは、なあ、何の冗談だよ、これ……」


佐藤は呟いて、死体のそばに座り込んだ。恐怖だとか、気持ち悪さだとか――そういったものは、自分の中にある強い感情で塗り潰されていた。


獣は佐藤に振り返った。しかしそれも、後ろで気配がしたから振り返っただけで、一瞬の事だった。すぐに向き直して、次の獲物の元へ向かおうとしていた。


「待ってくださいよ」


佐藤が言った。いつもより声は低かった。獣は答えなかった。


「シルワさん。あなたの言った事全部、嘘だったんですか?俺が大切な人間だとか何だとか言って、俺の心惑わしておきながら――そのくせ、こうして誰彼構わず殺すんですか?」


獣は答えない。佐藤は立ち上がって獣に近づく。


「シルワさん。もし、次にあの子の事を殺そうと思っているのなら――俺、許しませんから、絶対に」


佐藤は獣を追い越して、立ち塞がって、両手を広げて――まるで、磔にされたかのような格好をした。そして、


「ここから――ここから先が境界線です。シルワさん。ここを超えたら、俺はあなたの――」


敵です。と、佐藤は続けようとした。しかし、その前に既に獣は佐藤の横を通り抜けていた。まるで初めからいなかったかのように。


「最後まで言わせてくださいよ」


佐藤は苦笑のような笑みを浮かべた。


「残念です」


そう言ったのを皮切りに――佐藤は右腕を全力で握りしめた。そしてそのまま全力で――獣の後ろから、後頭部を殴った。金属音のような、甲高い音が鳴った。少なくとも、人体同士の衝突では発生するとは思えない音だった。


二本足で立っている獣の首が、ゆっくりと佐藤の方へ捻られた。


「やっと、こっちを見てくれましたか。生まれて初めて人を殴ったと思うんですが――なかなかどうして、痛い――」


言い切る前に、佐藤は吹っ飛ばされて、壁に叩きつけられていた。遅れて、体の中から何かが込み上げてくる感覚と共に、腹の方に痛みを感じた。佐藤は口を押えて、込み上げてくるものを強引に抑え込んだ。


――情けねえなぁ。俺


知っていた事ではあるが――やはり、獣にとって、佐藤は脅威でもなんでもなかった。言うなればハエのような、多少煩わしいだけの存在。手を振って追い払えば、それだけで済む程度の障害だった。


――敵だとか何だとか言おうとしておきながら、その敵にすらなれていないじゃないかよ。


弱い自分に腹を立てながらも――ぐっとそれを佐藤は飲み込んだ。そんな感情に現を抜かしている暇があるのなら、獣を止める事を考える方べきだと、佐藤の理性はそう結論を出していた。


――だが、本能はどうであっただろうか。幾度となく、誰かが傷つくのを見てきた。そういう時に限って、自分は何も出来ていなかった。何かをしたくても、現実がそうさせてくれなかった。それに立ち向かえるだけの力を、自分は持っていなかったから。


だから、心の中でどこか、自分にそういう力があればと、常に思っていた。そういう力があれば――誰かを、それこそ、自分さえも救えるかもしれないから。そして――佐藤はこの時、心の中の何処かで、それを願っていた。獣を――彼女を、シルワを救う力を。自分にはない力を――佐藤は願った。


その時だった。


バチン――と、佐藤の頭の中で、擬音にするならそういう音が響いた。頭痛とも違う感覚だった。


「な……んだ?」


佐藤は頭に手をやった。痛みは無かった。体が動く事を確かめて、獣を止めるために、佐藤は再び立ち上がった。そんな事に時間を取られるわけには行かないからだ――しかし


「困ってるなら、力貸すぜ?」


突然、そんな声が佐藤の頭の中で響いた。獣へ向かって踏み出そうとした足を止め、目を見開く――この感覚を、佐藤は知っていた。声は違えど、この世界に来る直前の、あの神様とした会話の時に感じていたものと、ひどく酷似していた。


「あなたは……誰なんですか。いきなり力を貸すって……」


反射的に、佐藤は自分の中に響く声に向かって聞いた。


「それ、今重要か?もっと他にやるべきことがあるんじゃないの?」

「……力を貸すって、具体的にはどうすればいいんです」

「俺にお願いすればいい。力が欲しいです――ってな。別に力じゃなくてもいい。願い事を言えば、可能なものは叶えてやるよ」

「……まるで、神様みたいですね」


冗談めいた言い方で、佐藤が聞いた。


「そりゃ、神様だからな。って、結局名乗る羽目になってんじゃねえか。まあいいか」


頭の中の声は、あっさりと認めた。あの時と同じだった。聞きたいことや問いただしたいこと、非難したいことが大量にあった。しかし、佐藤はゆっくりと目を閉じて、ため息を吐いた。個人的な感情で時間を取られている暇はないと、自分言い聞かせる。


「あなたに俺の願い事を言えば、それを叶えてくれるんですか」

「ああ。と言ってもお前の場合、純度不足で色々制限は付くだろうがな」

「……聞きたいことは色々ある――だけど今は、彼女を止める事が先決だ。あなたにお願いする――彼女を止める方法を、俺にくれ」

「了解了解。お前の願い、確かに聞いた。――そうだな、その願いだと、一つ条件がある」

「何ですか」

「何でもいい、あいつの体の何処かを、右手で掴め。少し触れる程度じゃ時間が足りない。一秒以上は欲しいな。そうしてくれれば、その可能性が生まれる」


佐藤は自分の目の前で悠然と歩く獣の後姿を眺める。


「……分かったよ。掴めばいいんだな!」


佐藤は声の主にそう叫んで、壁に開いた穴から外に向かおうとしていた獣に向かって走って、手を伸ばした。その手が肩に触れる直前――獣の姿が消えた。


「……あれ?」


獣に逃げられたのかと思い、情けない声を出す佐藤の肩を、誰かが叩いた。当然、佐藤は振り返る――そして、強い衝撃を頬に受けた。脳が揺れて、佐藤は姿勢を崩した。


覚束ない足取りで、姿勢を立て直そうとする佐藤に対して、獣は追撃をしなかった。ただじっと、佐藤の動きを眺めていた。佐藤の事を気遣って、立ち上がるのを待っているかのようだった。


「クソ……全くもって、情けねえなぁ、俺」


口の端から流れる血を手の甲で拭ってから、佐藤は再び獣へ右手を伸ばす。獣はそれを、上体を捻って簡単に回避する。


――こいつまさか、掴まれたらアウトって気付いてやがるのかよ!?


佐藤の疑問に正解を指し示すかのように――続けて繰り出した佐藤の右腕を、獣は先と同じように最小限の動きだけで躱していく。獣は佐藤の右腕を四回躱してから、その隙だらけの顔面に拳を当てた。それだけで、佐藤の体は簡単に宙を舞って、床を転がった。


今度は鼻から流れ始めた血を拭って、佐藤はすぐに立ち上がる。ほんのわずかに残った思考能力で、どうにか彼女を掴む方法を探っていた。しかし、


――無理じゃねえか、これ?


五秒ほど考えて、たどり着いた結論がそれだった。だが、それでも戦う以外の選択肢は彼には無かった。


小細工程度に、ブラインド目的で物を投げるといった工夫を凝らしてから、掴みにかかったが、結局のところ、肝心の掴みにかかる速度が獣にとって遅いのではどうしようもなかった。その攻撃も、無意味に終わって、気が付けば佐藤は先と同じように床と背中合わせになっていた。


鼻から流れた血が、口の中に入ってきた。苦い鉄の味がした。鼻先から発生していた痛みは、顔の奥にまで達していた。まず間違いなく折れているなと――佐藤は経験則で、そう思った。


「でもさ――痛いって事はよ、俺の事を殺すつもりは無いんだよな。きっと」


獣の攻撃を三度受けた。体を真っ二つにする程の威力の攻撃を放つことができる存在から、三度である。


ゆっくりと、まるで老人のように、近くのまだ残っている壁に手をやって、弱々しく佐藤は立ち上がった。彼女に向いていた筈の感情は、次第に薄れていた。


「なぁ――頼むよ。シルワさん。頼むからさ、俺なんかのために、罪を重ねるようなことはしないでくれよ。俺の事が、ちゃんと俺だと分かっているなら――俺の言葉を……聞いてくれよ!」


彼の悲愴の叫びを聞いてか、獣は顔を上げた。そして、黒い何かで覆われた獣の目が、佐藤の目と合った――ような気がしただけだった。


「リュウさん!大丈夫ですか!?」


背後から、少女の声が聞こえた。佐藤がその声に振り返ることは無かった。ただゆっくりとした瞬きを一つした。目を開くと――姿勢を低く、四足歩行に変えて、歪に口角を歪ませ、そこから牙を覗かせた獣の姿があった。


――ああ、信じた俺が馬鹿だったよ。


そしてそれは、佐藤の中でのシルワの偶像が崩れ去る、決定的なものとなった。佐藤を強く縛り付けていた何かが、諦観によってすべて取り払われた。


佐藤は少しの迷いも無く、全力で地面を蹴ったのと、踏み込んだ獣の足がばねのように弾けたのは同時だった。いつもより圧倒的なスピードが出ていた事に、佐藤は全く気付いて無かった。そして佐藤は、ニアの前に立って、両手を広げた。


「ごめん……シルワさん。約束――守れそうにねえや」


獣がニアに向かって突き出した爪が――彼女の代わりに、佐藤の心臓の位置にある皮膚を、深々と突き刺した。そのまま、爪から手へ、手から腕へ、佐藤の体に、黒い何かで出来た獣の肉体が侵入していく。佐藤の体を完全に貫いた爪は――ニアの目の前で止まった。


「――」


ニアが何かを言った気がした。しかし佐藤には既に――聞き取るだけの力は残されていなかった。



佐藤の体を貫いた爪先から、雨漏りのような速度で、雨水の代わりに赤い液体が滴っていた。ニアはそれをただただ眺めていた。目の前で起きた光景が、彼女の心を日常から引き剥がしていた。


彼女がここに戻ってきたのは、役に立つためだ。自分に出来ることは決して多くは無いとは思っているが、例えば治癒魔法なら自信があるし、出来る事は少なくとも、何かはきっと出来るはず――と言うのは実際の所、ただの良い訳のような物だった。そういう風に理由付けをしただけであって、本心は母親の事が気になって仕方が無かった。


母親を助けたい――純粋な少女のその願いは、目の前の非現実的な光景によって、いともたやすく打ち砕かれた。何をすべきかは分かっている。だが体が動かない。自分の中のもっと内側から溢れる恐怖が、自分を縛って離さなかった。


それから、五分ほど経って、段々と彼女に失われていた思考能力が戻り始めた。僅かに復活した思考能力で、彼女が思ったのはどうして自分が生きているのか、だった。


どうして獣は、爪でリュウを貫いたまま――動かないのだろうか。



そしてその答えは、リュウが――佐藤が、自分を貫いている獣の腕を掴んでいるからだった。

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