第13話 浅き夢見し 契りの日
「さあ、どうなんでしょうね」
佐藤の問いに、女は余裕ぶった表情で答えた。
「ここから先は――独り言だとでも思っていてください」
そう言った佐藤に、女は合図して、空になったカップに紅茶を注いだ。それを待ってから、佐藤は語り始めた。
「あなたはきっと、誰も恨んではいないんじゃないんですか。誰かを恨みたくても――恨めないから。魔族も、人間も恨めず――戦争を引き起こした転生者は既にいなくて。あまつさえ、自分すら恨めない」
佐藤のその語りを、女は注ぎ直したカップを傾けて聞いていた。
「だからあなたは関係のない転生者を、転生者で括りで括って恨んだ。恨みなんてものは全く無いけど、それでも自分は転生者のせいで全てを失ったと思い込んで、そう思い込むことで殺した。そうすれば、多少は心が晴れると思って。けど――そうはならなかった」
女はまだ半分ほど紅茶の残ったカップをテーブルに置いた。
「殺しても殺しても――足りない。足りる筈が無い。そんなのは当たり前だ……そんなの!当たり前じゃないですか!」
途中から、何かが噴き出るように、佐藤は語気を荒げた。
「独り言……じゃなかったの?」
「……すみません。つい」
佐藤は深呼吸をして、深く椅子に掛けなおした。
「あなたは今、娘さんがいて幸せじゃないんですか」
仕切り直すように、佐藤が先に女に聞いた。
「ええ、幸せよ」
女は即答する。
――それ程までに即答できるのなら。
「じゃあ、こんなことをしなくたって……」
女は紅茶の表面に薄らに映った自分の姿を眺めていた。
「……確かに私は、もう前を向いて生きて行けるだけの幸せを、あの子から貰った。けれど――だからこそ、私の身勝手で殺したあの人間たちの事を、無かったことにすべきでは無いと思っているのよ」
「だから今も、殺し続けていると?」
「ええ。いつの日か――誰かが裁いてくれる日が来ると信じてね。私は良い訳のしようもない悪人だから――最後まで、悪を貫くわ。途中で投げ出すつもりは無い。己の罪と過去と――最後まで向き合うつもりよ」
女は、目線を紅茶に映った自分の姿から、佐藤へと移した。佐藤は羨望のような、そんな目で女を見ていた。
「何なら、あなたが裁いてくれてもいいのよ」
「……え?」
佐藤は反応に少し遅れた。
「聞こえなかった?別にあなたが私を裁いてくれたって良いのよ?」
「そんな事……」
困惑した表情で、佐藤は言い淀んだ。
「出来ない?」
「……少なくとも、今は」
「そう」
女は、佐藤の答えに返して、残った紅茶をゆっくりと飲み干した。そして、悲しさを混ぜた笑顔を、佐藤に見せた。
「なら、私もあなたを殺さない。けど――次合う時は、殺すわ。必ず」
佐藤は何かを言おうとした。もっと気の利いて、救いようのある何かを。けれど、その何かは、女のその笑顔の前に打ち消されてしまった。
「……なら次は、俺があなたを裁いてみせます」
弱々しく、佐藤は言った。それでも、女はそれでいいと言わんばかりに、満足げな表情を浮かべた。
「楽しみにしてるわ。それから、今度はこちらから聞きたいのだけれど」
「何ですか」
「名前――お互い、名前すら知らないってのは、どうかと思ってね。あなたの名前を教えてくれないかしら。転生者だから言い辛いのは分かっているけど――誓って、悪いようにはしないわ」
佐藤は少し戸惑ったような表情をしてから
「――佐藤」
と、言った。まるで欠伸のように、佐藤の戸惑った表情は女へと移った。
「サトウ――ってあの?三百年前の?」
「同じ名前――とは実際に違うんですが、ただの同名です」
「そう。……まあ、でしょうね。私の名前はマール。娘を助けてくれてありがとう――今だけ、よろしくお願いするわ」
と言って、マールは手を佐藤に差し伸べた。佐藤はそれを握り返す。
「今だけでも、よろしくお願いします。マールさん」
「ええ。それから、もう一つだけお願いがあるのだけれど、良いかしら」
「何ですか」
「私じゃ出来ない事を、あなたにお願いしたいの――私の娘と、友達になってくれないかしら。あの子ね――魔族ってバレるわけにいかないから、友達を作りたくても、作れないのよ。こればっかりは、私にはどうしようもなくてね」
佐藤は可笑しくなって、笑いだした。その様子を見て、マールが不愉快そうな顔をした。
「何がおかしいのよ」
「いえ――何と言うか、考える事は同じなんだなって、そう思っただけです。その心配はいりませんよ――だってもう、友達ですから」
佐藤がそう言うと、マールは面食らった顔をした。そして
「そう……。ありがとう」
震える声で、何かを押し殺すような唇で、揺れる瞳で、そう言った。
「こちらこそ。可愛い娘さんと友達になれて、俺も嬉しいです」
「……でしょう?」
目を赤くしたまま、マールは誇らしげな顔をした。
「もう、お茶も冷めてしまったでしょう?おかわりが要らないなら、もう片付けていいかしら」
「良いですよ」
そう言って、佐藤はカップに残っていたお茶を一気に飲み干して、カップをマールに渡した。
「ありがとうございます。美味しかったです」
「ふふ、そんな気を使わなくても大丈夫なのに」
女はそう言って、佐藤が置いたカップを手に取って、キッチンへ向かった――その時。カタカタと、まるで警鐘のような、そんな地響きが聞こえた。
「あら……地震かしら。珍し――」
次の瞬間――女が、手に持っていたカップを放り投げた。それと同時に、佐藤の背後から強い風が吹いた。佐藤は半ば反射的に瞬きをした。時間にして僅か〇・一秒。一瞬の暗闇が晴れ、目の前にあったのは半壊した家の景色と、穴の開いた壁に、向かい合うようにして二足で立っていた――黒い、腕が生え揃った、漆黒の獣の姿だった。
テーブルも、その先にあったキッチンも、残骸になっていた。ポッドの中身から、紅茶の残りが零れていて、特有の香りを漂わせていた。何故か、佐藤の座っていた椅子だけが、無事に残っていた。しかし――そんな事は彼にとってどうでもいい事だった。
佐藤は椅子を蹴とばす勢いで立ち上がって、穴の開いた壁を眺めている黒い獣の肩に、何も恐れることなく手を乗せた。
「何を……何をしているんですか!」
獣は佐藤を無視して、前へと進んだ。佐藤はそれを止めるべく、腕を強引に掴んだ。今度は、獣も動きを止めて、頭だけを振り向かせた。
「シルワさん!あなたは何を――」
獣は、邪魔だとでも言うかのように、佐藤に掴まれた腕を強く振った。獣の腕を掴んでいた手が、すっぽ抜けて、佐藤の体は放り投げられた。そのまま彼は壁に叩きつけられて床に落ちた。
「痛――くない?」
あれだけ派手に投げられて――全くと言っていいほど、ダメージが無かった。近くにあった壁に佐藤が触れようとすると――壁に肌が触れる前に、何かが佐藤の邪魔をした。まるで見えない鎧でも着こんでいるかのように、硬い何かが佐藤の指と壁の間に挟まった。
佐藤は拳を握って、それを壁に叩きつけた。
「クソ……何でだよ!どうして……どうしてこんな事に」
彼の中で、何かが沸き上がろうとしていた。もう数年も忘れていた、沸々とした感情だった。喉奥に湧き上がってきた熱を吐き出すように、荒々しく佐藤は息を吐いた。
――なんで俺なんか庇ったんだよ。
佐藤は立ち上がって、穴へと歩みを進めようとしている獣の前に立ちはだかった。
「ねえ――シルワさん。非力で、貧弱な俺が、あれだけ派手に吹っ飛ばされて、傷一つ無いんですよ。分かるでしょう――俺の後ろにいる人が、俺を守ってくれたんですよ。俺の事を、殺したいほど恨んでいるのに、殺すだけの理由も覚悟もあるのに――だから今!たった今!この瞬間だけは――この人は敵じゃないんです!だから――もうやめて下さい!」
吐き出した筈の熱が、言葉と共に蘇る。目の前の獣は――動かなかった。しかしそれは、佐藤の言葉に胸を打たれたわけでは無かった。佐藤のその後ろに――もっと警戒すべき敵がいたから、ただそれだけの事だった。
佐藤の肩に、手が置かれる感触があった。その手の主はマールだった。額からかなりの血を流していて、顔の一部が完全に赤く染まっていた。
「マールさん!」
「うるさいわね。傷口に響くでしょう――いいから、あなたは逃げてなさい。こいつが誰だか知らないけど、狙いは私みたいだし」
「違うんです……この人は、俺の……友達なんです。理由は分からないですけど、たまにああやって、暴走とでも言えばいいんでしょうか……」
マールは佐藤の頭に手を置いた。
「そう。きっとあなたを助けに来たのね。美しい友情じゃない。ならなおさら――黙って下がっておきなさい。これは命令。大丈夫。どうにか落ち着かせてみるわ」
「まっ――」
佐藤の言葉は、途中で止まった。体が自分の意志に反して動き出して、少し離れた所まで勝手に歩いて、そこで地面に縫い付けられた。
「さてと……邪魔者も消えたし――続き、始めましょうか」
マールが身構える。それに呼応するように、獣も四足歩行に、獲物を捕らえるための姿勢に変わった。
「動くな」
先手必勝――とでも言わんばかりに、マールは宣言した。それだけで、相手が人間であるならば、彼女はそれだけで勝利する。
――しかし獣は、意味が分からないとでも言いたいのか、首を傾げた。そして、獣の姿が消えた。
次にマールに感じたのは、自分の腹が貫かれた痛みだった。自分の腹を貫いた獣の腕を眺めてから、マールは口から血の塊を吐いた。
「ぐっ……あー……。全く、嫌になるわね……。私の能力が効かない奴が、一日に二人も現れるなんてね」
獣はマールに突き刺さったままの腕を上げて、その体を持ち上げ、腕を振った。マールの体はすっぽ抜けて、壁を突き破って別の部屋に投げ出された。
――ああ、痛い。
マールが見上げる天井はぼやけていた。その原因は、彼女が流した大量の血のせいだった。マールは自分の手のひらを眺めた。手は真っ赤に染まっていた。
それを見て、彼女は微笑んだ。
――ああ、これは……死ぬかなぁ。流石に。
やっと死ねる。ついに死ねる――と、マールはそう思っていた。
三百年前のあの日から、ずっとずっと待ち続けていた。死ぬ場所も死ぬ理由も、自分にはない。だからずっと、生き続けていた。そして同時に、死ぬことを望み続けていた。自分が理不尽に命を奪うように――誰かが、理不尽に自分の命を奪ってくれるのを待っていた。待ち焦がれていた。そしてようやく――今日、自分の命が尽きる。まさに命日だ。
――命日の使い方って、これ正しいのかしら。
そんな事を考えながら、マールが次に見たのは走馬灯――では無かった。見たのではなく、彼女は聞いた。聞こえてしまった。とある少女の寝息が――自分の娘の、擦れるような、柔らかな寝息が。
――ほら見ろ、子どもなんて産むからだ。
マールは両手で強く床を叩いた。自分でも分からない。けれど、穴の開いた体は、勝手に立ち上がっていた。――まるで命令されたかのように。自分が他人にそうしてきたように、自分で自分にそうしていた。
「……私はもう死んだ。ついに死んだ。ようやく死んだ。ずっとずっと、待ち焦がれていた日だ――だけどね、母親の私が、死ぬなって、まだやるべきことがあるぞって――そう、言いやがるんだ」
マールはまるで操りに人形のような、覚束ない足取りで、ベッドに眠る自分の娘の元へと、歩き出した。ベッドの前で膝立ちになって、寝ている少女に優しく語りかける。
「ニア、起きて――あなたに言っておきたい事があるの」
マールがそう言ってニアの肩を揺らすと、彼女は目を擦りながら、上体を起こした。
「ん……なあに?お母さん」
「あのね……ニア、あまり時間が無いから聞いて。私が合図したら、すぐにここから逃げて。絶対に振り返っちゃだめ。いい?」
突然の母親の言葉に、ニアの瞳が不安げに揺れる。部屋は薄暗かったが、主張するように輝く赤色が、自分の母親の様子がいつもと違う事を表していた。
「で、でも、お母さん……その赤いのって」
「……ねえニア。ちょっといい?」
「え――」
返事を待たずに、マールは自分の娘を抱きしめた。強く優しく。一生分の思いを込めて。
「愛してる――誰が何と言おうと、私が何と言おうと。産まれてきてくれて、ありがとう」
「ど、どうしたの急に……嫌だよ!やめてよ!」
マールは、ニアの体を離した。そして、血に濡れていない指で、いつの間にか流れていたニアの涙を拭った。
「さあ、泣いていないで、もう行きなさい。いい?」
ニアの体が、自分の意志に反して動き始めた。
「嫌だ!待って!お母さん!」
背後で叫ぶニアに、マールは振り返ることは無かった。目の前の黒い獣の前に、立ちはだかった。獣が、腕を振り上げる。マールにはもう、抵抗する力は残っていなかった。
「出来れば――花嫁姿も、見たかったわね」
母親は、最後にそう呟いた。
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