第9話 生という呪い

「お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ――」


呪詛のような声が、佐藤の耳に届いた。いつの間にか気を失っていたのだろうか、その呪詛が、佐藤の意識を再び呼び覚ました。


(あれ……どこだここ。確か組織のボスっぽい奴に連れ去られて……そうだ。はやく逃げる算段を――)


そんな事を、寝る直前の、あのふわふわとして、しかし何処か自覚的で意識的な、そんな感覚の中で佐藤は考えていた。眠たい訳ではなかったが、長時間暴力にされされては、人間の意識というのは何処か鈍り始めるだろう。今の状態の佐藤も、例外ではなった。


佐藤は何となく、顔を上げた。本当に何となく。理由も目的も、そこには無かった。


佐藤の視界に映っていたのは、女――では無かった。黒い人型の何かだった。クレヨンで書いたかのような、輪郭が曖昧のようでハッキリしている、そんな人型の何かが、佐藤を殴っていた。


「お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ――」


その黒い何かは、飽きる気配も無く佐藤を殴っていた。表情が分からないのではっきりとは言えないが、その言葉からは怒りに近いものを、佐藤は感じていた。


(……あれ。俺何で、逃げようとなんかしたんだろう。逃げたらいけないのに)


佐藤は、微かに両腕に込めようとしていた力を抜いた。殴られるためだけの人形。自分をその形に押し込む事が、最善である事を知っていたからである。


「お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ。お前の所為だ――」


(……そう、だよな。全部俺の所為だよな。分かっている。俺は大丈夫。だって――)


佐藤は、まだ微かに新しい匂いがする天井を眺めながら、


「俺さ、約束したんだ。勝手にいなくならないって。だから生きるよ。何があっても。生きて必ず帰って、ちゃんと償うから」


と、言った。



*   *   *



女は相変わらず、佐藤を殴り続けていた。時間がたっても、彼が反応を示めさなくなっても、自分の拳に付いた血が、自分の血と混ざり始めても――殴る手も、怨嗟の声も一切止まる気配は無く、効率的に、効果的に、機械のように佐藤を殴り続ける女の姿がそこにあった。


そこからさらに、時間が経つと、女の手が不意に止まった。自分が掴んでいる男に反応があったからだ。


「う、うう……」


うめき声のようなものを上げながら、手中の男は何かを喋ろうとした。その言葉を一字一句逃すまいと、女は耳を傾けた。恐怖か、絶望か、懇願か、あるいは怒りか。果たしてこの男は、一体どんな声を上げるのであろうか――期待のようなものを込めながら、女は彼の言葉を待った。


――俺さ、約束したんだ。勝手にいなくならないって。だから生きるよ。何があっても。生きて必ず帰って、ちゃんと償うから。


佐藤は、少しの曇りもない、安堵と喜びに満ちた表情で、そう言った。


その言葉と表情、女の期待通りではなかった。その全くの逆と言える程だった。女はまるで投げ捨てるように、佐藤から手を離した。触りたくもないものに、気づかずに触っていた気分だった。


力なく床に体を溶かす佐藤を見ながら、女は拳を強く握った。まるで意味が分からなった。どうしてこの男は恐怖に怯えないのだろうか、絶望に打ちひしがれないのだろうか、命乞いをしないのだろうか。自分は死なないと言いながら、そう命令したとはいえ、何かをする気配も無い。それなのに、夢見心地で、まるで自分の事など眼中にない様子の彼の口から出たのは、希望に満ちた独り言だった。


彼は言った。『勝手にいなくならないと約束したから、生きる』と。ならばその約束が無ければ、彼は死ぬつもりだったのだろうか。そこまででは無くても、今のように生に執着する事は無かったのだろうか。


――だとすれば、その約束はまるで、呪いではないか。


「なんだよこいつ……ふざけるな!」


女は激高した。楽しむだとか、苦しめるだとか、そういう次元はとっくに過ぎていた。一刻も早くこの異物を排除しなければならないと、そう思っていた。女は、魔法を使って、剣を手元に引き寄せた。この部屋には中央の蝋燭しか光源が無いため、佐藤や女の位置からは良く見えないが、壁には無数の武器や拷問器具が取り付けられてある。女はその中から、少し長めの剣を選んだ。


女は強く剣の柄を握って、床で寝ている佐藤の首に、刃先を当てた。そうしてそのまま、剣を振り上げて、力の限り振り下ろうとした。そうすれば、目の前の得体の知れない何かについて、これ以上考えずに済むからだ。


しかし――振り上げた剣は、そこから動かなかった。鎧をまとった巨大な手が、それ以上の斬撃を許さなかったからだ。


「悪いがそれは、止めさせてもらうぜ」


背後から、声がした。男の声だった。状況が分かっていないのか、陽気な声だった。


「……邪魔するな。こいつは私が殺す。確実にだ」


女は強い口調で、佐藤から一瞬たりとも目を離さずに言った。自分の動きを止めた正体が何であろうと、それだけ言えば事足りるからだ。暫く待ってから、もう一度両腕に力を込めた――しかし、またしても女が剣を振り下ろす動きは、同じように振り上げたままで止まってしまった。


「聞いていなかったのか。邪魔はするなと言ったはずだぞ。それとも、理解出来ていないのか?その手を離せって事を私は言っているんだ」


女は、振り返らずに言う。


「聞いているし、理解もしている――だが、納得は出来ないな」


――冷静さを欠いていたかもしれない。女は自分の中にある沸々とした感情に少しも蓋をせず、力を込めてその手から強引に剣を抜き取ると、振り向きざまに、背後にいるであろう何者かに向けてそれを全力で振るった。


激しい音が一度鳴って、部屋の中を反芻した。鎧を纏った何者かも、女も、動かなかった。続けて、女の手にある剣の刃が折れて、その破片が地面を転がる音がまた部屋の中に響いた。


女は、折れた剣を見た。根元から強引に引きちぎられたかのような断面だった。何故だか、それを見ると自分の中にある苛立ちが消えていくような気がした。女は折れた剣を捨てて、蠟燭に照らされた鉛色の人型の何かに体を向けた。


「何者だ。どうして私の能力が効いていない」

「さあな」


そう言って、鎧を全身に纏った男――アールは、その巨大な拳を女に向かって打ち上げるように振った。男の拳と、その拳から身を守るために自分の体の前に突き出した女の腕から、鈍い音が鳴る。女の体が少し浮いて、数メートル後方に飛んだ。


「……お前。その力――」


アールの一撃を受け止めた女の腕は、複雑に曲がっていた。彼の攻撃は、一撃で女の腕を粉砕していた。


「詳しい理由は知らないが、そうだな――俺が、生き物じゃないからかもな」


アールは平坦な声で、まるで他人事のように言った。


「……ッ。確かに、生き物に命令を下す能力が、生き物以外に効く道理は無い物ね。なるほど、勉強になったわ。――ところで」


女は、折れた腕を、強引にアールに向けて伸ばす。女が一瞬、力を込めた。それだけで、アールの大きな体は壁へ向かって、勢いよく吹き飛んだ。そのまま石造りの壁を簡単に破壊して、その体は外へと投げ出された。破壊された壁から光が射しこんで、女の体と、背から生えた羽を照らす。その虫のような羽は、光を受けて鋭く輝く。


「まさか、能力さえどうにかすれば私に勝てると――そう思っていたのか?」


アールはその言葉を無視して立ち上がり、地面を蹴った。そこから発生する爆発のような音と衝撃。鎧の男は空を跳ねた。空中で体制を強引に整え、女の脳天めがけて、速度と重量を乗せた拳を放った――


それを、女は折れたままの腕を伸ばして、手のひらで受け止めた。


「……なっ」


予想外の出来事に、アールは狼狽えた声を上げる。


一体それは、どれほどの衝撃だったのだろうか、女の足に伝ったエネルギーは、それだけで後方の床や壁に巨大なひび割れを作った。石造りの壁から、大小様々な石のかけらが床に落ちた。――しかし、女の体は、その衝撃を受けても一切動かなかった。文字通り、『一切』である。1cmも1mmも、ほんのわずかなズレさえ、女の体は許していなかった。女はアールの指数本をを強引に掴むと、それを引っ張ってハンマーでも振るうかのように、地面に叩きつけた。大きな音が鳴って、地面が割れた。その部屋の崩壊が、さらに進んだ。


「甘い。力だけで、私に勝てるなどと思うな」


その言葉を聞いたアールは跳ね起きると、手を広げて自分の指を確認する。金属に包まれたその指は、彼女の強引なスイングを受けて、手の甲の側に歪に折れ曲がっていた。


「ふむ……そうだな」


アールは歪に曲がった自分の指を、もう片方の手で掴んで、強引に元の位置に戻した。異常が無いか確かめるように、指を何度か振った。


「確かに、力だけだと難しそうだな」


女はその一連の動きを、驚きの目で見ていた。


「……あなた、まさか痛みを感じないの?」

「ん?……まあな。俺には不要だからって事で、痛みを感じるように出来ていないんだよ。あ、そうだ。腕直していいぜ」


女は面食らった顔をして、くすりと小さく笑った。


「あなたが折ったでしょうに。まあ、それはこの際置いておいて。それより――あなたって本当に、生き物として作られていないのね」

「……何が言いたい?」


女の口角が、少しだけ妖しく歪んだ。


「人ならざる人の創造――まあ、こんな仕事をしているおかげか、そういう話はよく聞くのよね。その中で一つ面白い話を聞いてね。生き物っていうのは、痛みを感じないと自分の体の状態を把握出来ないそうで。結果的に、痛みを感じる普通の人より弱かったり、短命になってしまうと。だからそういう風に生き物を作るときは、痛みを感じるように作るべきだと」

「……」

「しかし貴方はそうではないのよね。勿論あなたの製造者がそれに気が付かなかった可能性もあるのだろうけど、流石にその線は薄いでしょうし……そうね。色々考えるより、直接脱がせて、確かめてみましょうか」


と言って、女は口の端を大きく歪ませた。


「折角のお誘いだが、遠慮させてもらおうか。悪いがベッドの上でもこの鎧は脱げないもんでよ」

「あら。私の誘いを断られたのは初めてね。普段はみんな喜んでついていくというのに」

「能力でそうなってるだけだろ」


アールがそう言うと、女は歪な笑い方から、苦笑へと笑みを変えた。


「そうね。いやでも本当、新鮮なのよ。私に逆らってくれるやつってのは。組織のリーダーとしてはイエスマンしかいないのは楽だけど、一人の妖精としては、つまらないものなのよね」

「……そうだな」


アールは心底納得したかのような声で言った。


「そういう意味では、あなたの事気に入っているわよ?だからまあ、正直に言えば惜しいわね。あなたをここで殺さなくてはいけない事は――ね!」


女は口火を切るかのようにそう言うと、アールに向かって、鋭く目を向けた。彼女が魔法を使った合図だった。アールは自身を襲う衝撃を、姿勢を低く構えて受け止めようとした。しかし――その意図とは裏腹に、彼の体は簡単に壁へ叩きつけられるのであった。


(チッ。やっぱ正面からじゃ太刀打ちのしようがねーな。流石は魔族と言った所か。……アプローチを変えてみるか)


アールは落下の途中で壁を蹴って、天井の近くまで跳躍すると、そこの出っ張りを掴んで強引に天井に張り付くと、そこから更に壁を蹴って、女へ向かって拳を振った。


「学ばん奴だな」


女はそう言って、いつの間にか治していた腕で、その攻撃を先と同じように簡単に受け止めた。


「まあ見てなって」


アールはそう言って、すぐに後ろに飛びのき、自分を捕まえんと伸びた手を躱した。地面を蹴って跳躍し、追撃の魔法攻撃をさらに躱すと、再び壁を蹴って、空中を舞った。数度壁を蹴ってから、方向を一気に変えて、再び女へ攻撃を繰り出す。女が更にそれを受け止めると、やはりアールはそれ以上の追撃をせず、すぐに退いた。


「……消耗狙いか」


女はそう呟くと、アールは動きを止めた。女の予想と、アールの狙いは一致していた。アールが狙っていたのは女の魔力の枯渇だった。


「流石にバレるか。お前、腕折れたまま俺の攻撃を防いだって事は、身体強化の類の魔法は使わないって事だろ。体も大きくなってないしな。障壁か力場発生か、まあその辺りの単純な魔法ってこった」

「……」

「魔族って事もあるんだろうが、やっぱ現代魔法は使えないみたいだな。あんたが身体強化とか、そういう持続性のある魔法を使うってなら少し厄介だったんだがな。別にあんたの魔力量がしょぼいだなんて思っちゃいない。ただ――我慢比べじゃ負ける気は無いぜ。こっちは」


女は目を閉じた。


「……確かに、私が使えるのは私の魔力量は有限だ。お前の作戦は正しい――ように見えるだけだ」


女は一気に目を見開く。魔法の気配を察知したアールは、跳躍してその攻撃を躱す。そのまま壁を蹴って加速して、先と同じように宙を舞う。


「お前のその作戦の決定的な欠点――それを今から、教えてやる」


女は天に向かって手を伸ばすと、それを一気に振り下ろす。その動きにシンクロするかのように、アールの体は地面に叩きつけられた。轟音と共に地面が抉れた。


「な――そうならないために、俺は――」

「だろうな。捕まらないようになるべく早く動くよう、務めていたんだろう」


女は、動けないアールにゆっくりと近づいて、首根っこを掴んで、そのままその体をゆっくりと引き上げた。身長差の関係上、アールは膝立ちのような形になっていた。上を向かされる形になったアールは、天井の所々がまるでチーズように穴開きになっているのが見えた。


――こいつ、この部屋の空間ごと、俺を押さえつけやがったのか。


「じゃあな、化け物未満」


女は拳をゆっくりと上げて、アールの体の中心に向かって突き出した。女のその拳は、アールの分厚い鎧を貫通して、向こう側まで突き出した。女の腕が、青く透明な液体で濡れた。


「生きていないとは言っていたが――綺麗な血をしているんだな。羨ましいよ」


女はそう言った。

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