第8話 恨みつらみを拳に乗せて
命令を失った肉体が、バランスを失って崩れ落ちる。ぐちゃり――と、耳に纏わりつくような音がした。その死体の首は、専用の機械で切断したかのような、綺麗な断面をしていた。その断面から止めどなく流れる血は、赤く乾いた床を上書きしていた。
意外にも、生臭さや血の匂いを佐藤はあまり感じなかった。あるいは、感じる余裕などなかったと言った方が適切かもしれなかった。変わりに佐藤の鼻を突き抜けたのは、込み上げてくる胃酸の匂いだった。口から這い出ようとするその液体を、佐藤は手で強引に抑え込み、飲み込んだ。
「どうかしたか」グラウスが佐藤に話しかける。彼が座り込んだまま、中々立とうとしなかった事を怪訝に思ったのか、足元に転がる肉塊を大股で跨いで、グラウスは佐藤に向かって手を差し出した。
佐藤は、自分に差し出された大きく、太い指を伴った手を自分の手の甲で打ち付けて振り払った。この手を握るのは、まるで悪魔と契約でもするかのような、そんな気がした。
「……あ?」グラウスが目を細めた。「どういうつもりだ?」いつもの不機嫌そうな声で、グラウスが佐藤を見る。
「……あったんですか。殺す必要」
「あるだろう。敵だぞ」
「貴方ほどの実力者なら、無力化だって出来たんじゃないんですか」
「まあ、出来ただろうな」
「だったら、そうしたらいいじゃないですか。わざわざ殺す必要なんてあったんですか?」
呆気なく認めるグラウスに対する怒りの感情を抑えながら、佐藤は冷静に話すように努める。
「人間が相手なら、あるいはそうしただろうな――だが、相手は魔族だ」
「……何が違うんですか」
「魔力の種類が違う。生きる時間が違う。あとはそうだな、人間は背中に虫の羽など生やさん」
「たったそれだけの事が、彼女を殺していい理由になるんですか」
「なるだろう」
グラウスは腕を組んで、ため息を吐いた。
「一つはっきりさせておこう。お前を魔族の国にいる協力者の元に届ける。それが我が王から私に課せられた命令である以上、私はそれを必ず実行する。どれだけ考えが古臭いと揶揄されようともな。お前が怒る理由など私は知らないし、知るつもりもない」
グラウスは、強い口調で言い切った。
「お前が抵抗するかどうか、私と一緒に行くことを拒むかどうかはお前の勝手だ。好きにするといい。ただし、お前がその選択を選んだのなら、私は手荒なことをしてでもお前を連れて行く。それが私のすべきことだからだ。理解したか」
佐藤は黙ったまま頷いた。自分が助けてもらっている立場など、嫌なほど理解していた。
「なら選ぶといい。私と共に行くか、私に連れていかれるか。どちらを選ぶ」
佐藤は立ち上がった。肩を凄い力で抑えられているようだった。実際にはかなりの力を込めて立ち上がったのだが、その様子からは力強さは微塵も感じられなかった。
「それでいい。全く手間を――」
その時だった。
「もう気が付いていいわ。面白い話だったわよ」
そう背後から女の声がしたのを、グラウスははっきりと聞き取った。
――馬鹿な。気配も魔力も一切感じなかったはず。
その疑問に答えは出なかった。それよりも先に、彼は迎撃を選択していた。勢いよく振り返り、空中に無数の剣を出現させ、それを一気に声の方へ射出――したつもりだった。
しかし、そこに出現するはずの物体は、何一つとして現れなかった。グラウスはただ、血の匂いが立ち込める部屋の中で手を伸ばしているだけだった。
「なに?」
「言ったはずよね?『私に危害を加えるな』と。まあ最も、私に気が付かない条件を解除しないで言ったから、今初めて言われたように思うかもしれないかもしれないけど」
そう言って、まるで初めからそこにいたかのように、女が立っていた。黒い髪は短く切りそろっていて、鋭く睨むような眼をしていた。攻撃的ともさえいえる目だった。
「さて。『動くな。お前たちの生きるための最低限度以外の行動の一切を禁じる』」
女がそういうと、グラウスと佐藤の体は、まったくと言っていいほど動かなくなった。動かそうとしても動かない。まるで手足のそこから先が切り落とされたかのような感覚だった。
女はその様子を見向きもせず、グラウスが切り落としたラディーの頭を拾って、その顔の先をゆっくりと、自分の胸に当てた。そして忠誠を誓う騎士のように地面に片膝をつき、頭を下げ、目を閉じる。
「ラディー。今まで組織のために、良く勤めてくれた。感謝しよう。そしてゆっくり休むといい。お前の思いや意思は、私が受け継ごう。最も、お前は別に私の事を良くは思っていなかっただろうが――それでも、お前にとっては下らぬ私の野望のために、その命を燃やしてくれた事を、私は誓って忘れない。妹の事は私に任せてくれ。何、悪いようにはしないさ」
そう言って、女は目を開いた。何かを睨むような目つきは少しも変わっていなかった。女は頭を元あった場所に戻してから立ち上がり、グラウスに近づき、値踏みするかのようにその姿を眺めた。
「どこかで見たことがある気がしてたんだけど……なるほど、『剣聖の賢者』か。随分な大物が来たもので。まあ、私の組織が大きくなったって事で、前向きに考えておきましょうか」
女はグラウスの胸の辺りを何度か指先でつついた後、顎に手をやって、口角を上げた。
「まあ、そうね。結局の所、それって、魔法で作ったお人形さんみたいなものなのでしょう?あなた自身はここにいない訳で。えっと、何だっけ。『形ないものに形を吹き込む』能力だった?あなたの能力。それを答えるためだったら、喋っていいわよ」
「……ああ、そうだ」
「ふーん。遠隔操作の人形に私の能力が届くかどうか今まではっきりしていなかったのだけれど、私の声さえ届けば問題ないようね。じゃあもう、消していいわよ、それ」
女がそう言うと、グラウスの姿は一瞬で消えた。後には何も残らなかった。気配も存在も、一瞬のうちに消えたのである。
「え……」
佐藤の情けない声が、辺りに響いた。
「ふふ、可愛いわね」
そう言って、女は困惑した表情の佐藤の頬に手を添えた。まるで子供をあやすようなその仕草の最中でも、女の目は鋭かった。
「たっぷり可愛がってあげる。転生者ちゃん」
* * *
時間は少し前に遡る――
とある部屋の一室、ベッドの上で横たわるシルワを目の前にして、フェルムは額から流れる汗を、自分の手にべっとりと付いている血に気をつけながら、肩に近い方の腕で拭った。
爆発に巻き込まれた彼女の体は、凄惨を極めていた。腕の一本は消し飛んで、鼓膜や眼球は爆発の衝撃で潰れていた。全身からの流血は、シーツを赤く染めるだけにとどまらず、マットレスを伝って床にまで達していた。
そんな状態のシルワに、フェルムはただ一人治療を施していた。とは言っても、彼女に出来ることは決して多い訳ではなかった。軽度の魔法による治療と、自身の知識を用いた対処療法をする事で、彼女の命を何とか繋いでいた。
しかし、フェルムは疑問に思わずにいられなかった。
――どうして生きているのであろうか。
そう、疑問に思わずにはいられなかった。確かに治療はしている。自分に出来る限りの事はやっている。しかし、腕の一本が消し飛び、体のあちこちを損傷させ、明らかに致死量を超えた出血は、未だ止まる気配は無く――その失った血を確保する算段もない。そんな状態の人間を、どうやって生かせばよいのであろうか。彼女に答えは出なかった。
シルワが瀕死である事は間違いが無い。だが逆に言えば、瀕死から動く気配が無いのだ。治る訳でも、そこから進むわけでも無い。言うならば停滞。三途の川の上空に吊るされたその体は、引き上がる事も、川に沈む事も無かった。
自分に出来る限りの治療を終えて、血が自分にかからないように上から着ていた服を、彼女は脱いだ。最後まで彼女がまるで万力のように生を離さない理由は分からなかった。しかしそれ以上に自分に出来る事が無いと判断したフェルムは、これが彼女の生命力によるものなのだろうと納得する事にして、その場を後にした。
「状態はどうなんだ?」
部屋の扉を開けて出てきたフェルムに、鎧の男――アールは話しかける。
「最悪。予断を許さない状態であることは間違いない。マギサが来るまで持つといいけど。とは言ったけど、正直体の半分近くが無い状態で、どうして生きているのかと、私は思うけどね」
フェルムは淡々と答える。
「まあそれはいいんだけど、やっぱり行くんだね」
フェルムが遠い床を眺めながらそう言った。
「そりゃ行くだろ。お前はシルワを頼んだぞ。サトウを連れて帰るまで、何とか持たせてくれ。助からないにしても、最期の言葉くらいはかけさせてやりたい」
アールはフェルムの方に顔を向けていった。フェルムは相変わらず遠い床を見ていた。
「……そうだね」
その返答には、少し間があった。
「それに、やつらの能力について、マギサからいくつか新しく情報を貰ったんだが、どうやら連中のボスの能力がかなり厄介らしくてな。なんでも自分の命令を強制させる能力だと」
「それは確かに厄介だけど」
「となれば、俺の出番だろ?なんせ俺は――」
「アール。良くない癖が出てる」
フェルムがそういうと、アールは時を止めたかのように動作を止めた。
「――悪い。ついうっかり」
その体勢のまま、アールは兜の下から弱弱しい声を漏らした。そう言ってから、落ち込んだように椅子に深く座り直した。
「良くないって事は分かってるんだが、どうしてもこればっかりはな……」
フェルムはゆっくりと、足幅程の道を歩くかのように座っているアールに近づいて、その兜に手を置いた。
「大丈夫。世界がアールを認めなくても、私はアールの事をちゃんと認めているから」フェルムは、そう言った。そう言ってから、「……それは多分、あの女も一緒だと思う」と付け足した。
「……そうだな」と、呟いてから、アールは勢いよく立ち上がった。「ありがとうな。お前のおかげで、何とかなりそうだわ」
アールはそのまま歩いて、外に通じるドアに手を掛けた。
「いってらっしゃい」
その時、やはり色の無い声で、フェルムが言った。
「おう、行ってくるわ」
鉛色の顔を向けて、鎧の男はそう返すのであった。
* * *
佐藤が連れてこられたのは、とても暗い部屋だった。広さは分からなかったが、佐藤の目線の先にただ一つ置かれた蝋燭の灯りは、端の方を照らすのには全く足りなかった。
手枷も足枷も佐藤にはつけられなかったが、その必要が無いのだろうと、彼は今までに起きた事で、何となく把握していた。
「さて、『あの蝋燭のところまで歩け』そこで君を殺すから」
背後にあったドアを閉めながら、女はそう言った。女の言葉が耳に入ると、佐藤の体は、まっすぐ蝋燭へ向かって歩き出した。
「ああ、そうだそうだ。別にもう喋っていいわよ」
「……あなたの能力って」
「流石に気が付いた?自分の命令を相手に強制させる能力。声が届かなかったり、理解できなかったり、どう頑張っても達成不可能な命令はできないけど。……って、そんな事よりも」
「なんですか?」
「怖くないの?あなたこれから、殺されるのよ」
「死にませんよ」
佐藤の即答に、女は一瞬言葉を詰まらせた。訳が分からない、とでも言いたげに、わざとらしく口角を上げた。
「はい?」
「約束があるので」
「何を言いたのか、全く分からないのだけど」
「約束したんです。勝手にいなくなったりしないと。だから俺は、死にません」
そう佐藤が強く言った。女をまっすぐ見つめる目は、少しの揺らぎも、陰りもなかった。
「……はあ、聞いて損した」
女は、そう言って、少しだけ上がっていた口の端を固く結び直すと、突然佐藤の顔を突然蹴り飛ばした。頭が首から外れるんじゃないかと思えるような衝撃と共に、佐藤の体は床を転がった。
床に倒れた佐藤の髪を掴んで強引に引き上げて、痛みに耐える顔を覗き込む。
「そんなことは聞いてないの。私が殺すと言ったら殺す。まあ、たっぷり苦しんではもらうけどね」
「……どうしてそこまで、転生者を恨むんですか」
佐藤の質問に答えるかのように、女は佐藤の鼻先を強く殴った。一切の手加減も容赦もない、明確な殺意がこもった拳だった。そのまま、女は佐藤の顔を一定の感覚で殴りながら、言葉を続ける。
「私はねぇ、あなた達転生者のせいでたくさんの物を失ったのよ。三百年前のあの日――本当に色々な物を失った。その日から、私はこうしてあなた達を殺し続けている。数十を超えてから、数を数えるのはやめてしまったけど――全くと言っていい程、この思いを消化するには足りないのよ」
女は佐藤を殴り続ける。
「あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで、あなた達のせいで――」
呪詛のようにその言葉を続けながら、女は佐藤を殴り続けた。
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