第7話 朱染めの部屋
頑張って――最後にラディーは、確かにそう言った。その言葉の意味するところを、佐藤は理解していなかったのだが、それを理解する瞬間は、意外と言うべきかそれとも当然というべきか、直ぐに訪れた。
「おい、人間」
鉄格子の外から、佐藤が知らない誰かが突然話しかけてきた。佐藤が顔を上げると、背中に羽を生やした男がそこには立っていた。男は佐藤の返事を待たずに、鉄格子の扉を開けた。
手首に手枷を付けられ、動きは封じられているため、佐藤はなんとなく、自分の目の前までゆっくりと歩く男を眺めていた。
「えっと、何か――」
その時――男はいきなり、佐藤の鳩尾を全力で蹴り上げた。その衝撃に強烈な吐き気と、締め付けられるような閉塞感をに息を詰まらせる。
「ぐ……な、何を――」
佐藤が言い切る前に、男は高く上げた足を振り下ろす。佐藤の脳天に男の踵が命中する。意識が一瞬飛びかけ、力の抜けた佐藤の胸倉を男が掴む。そのまま男は、佐藤の頬を殴り始める。
「黙ってろよ……人間。黙って俺に殴られときゃいいんだよ!」
――そこから数時間の間、佐藤は暴行を受け続けた。代わり替わりに誰かがここへやってきては、佐藤の体のあちこちを殴った。数分で終わる事もあれば、一時間程それを続けることもあった。痛みは相当な物であったが、しかし命が脅かされるような攻撃では決してなく、拷問に近いものだった。わざと殺さないように手心を、あるいは工夫を加えた攻撃だった。
「……そういう事かよ」
最後の一人が満足して帰った後、しばらく待って誰もいない事を確認した佐藤は、自分の口の中にある欠けた歯を吐き出した。歯は彼の血で出来た池を数回跳ねた。
(頑張ってって、この事か……。ボスが殺すとは言っていたけど、殺さなければ好きにしていいと。……わかりやすくて助かるよ)
欠けた歯の部分を舌で撫でながら、佐藤は考える。壁に繋がっている手枷や檻の鍵は壊す事も、外す事も叶いそうになかった。痛みを忘れようと、佐藤はゆっくりと息を吐いた。
(無理ゲーすぎるな……不甲斐ないけど、助けを待つか、何らかのチャンスを待つ他ないか。奴らは確か、ボスが帰ってくるのは明日だと言っていたな。それまでに助けが来ると良いけど……)
そうして繋がれたまま、また暫くの時間が経過した。その間は、時々佐藤を殴りに来る連中が来る程度で、それ以外に特に変わったことは無った。佐藤は特に何かを企てることなく、ただ時間の経過を待っていた。待つより他無かった。
次第に、痛みや苦痛よりも、眠気が勝るようになった。そのころには佐藤を殴りに来る連中もかなり減って、外の様子は分から無いが今はに差し掛かっているのだろうかと、佐藤はそんな事を考え始めたが、瞼の重みに耐えきれなくなった所で、佐藤の意識は闇に落ちた。
それから、幾ばくかの時間がたち、佐藤はまた目を覚ました。夢を見る暇もない、うたた寝程度の睡眠だった。と言っても別に、彼自身が自然に目を覚ましたわけでは無く、殴られた結果だからであったが。佐藤の目の前には男が立っていて、手にパンを握っていた。
佐藤は睨むわけでも恐怖におびえるわけでもなく、自分を殴った男を眺めていた。ただ何となく、そこに存在がいるのいるのだから眺めていた。
「……もう少し、優しく起こしてくれたって――」
佐藤の言葉は、目の前の男の拳によって阻まれた。男は、さらに続けて二、三発彼の頬を殴った。口から血を吐き出しながら、その動きに合わせて佐藤は体を揺らす。
「あー……その、何しにここにやってきたんですか?」
と言う佐藤の顔は笑っていた。口と鼻から血を流し、片目は大きく腫れ、口の端は紫がかった青色で染まってて、前歯の一本が欠けていた。引き裂かれるような痛みで、果たしてそれは笑みと言えるのかどうか微妙なところではあったが、男は不愉快そうに舌打ちをした後、手に持っていたパンを捨てるように床に投げた。
「……この状態で食えと?」
男は何も言わずに出て行った。天井から滴り落ちた水が、彼の血の池の上で跳ねた音が、とても良く響いていた。佐藤は自分の血で濡れ、三秒ルールなどとっくに過ぎたであろうパンを見た。
「冗談きついって……」
彼は軽く悪態をついてから、自分の体をパンに向かって精一杯伸ばした。自分の血で柔らかくなったパンの端を一本欠けた前歯で掴むと、皿と言うには広すぎる床を上手く使いながら、パンを少しづつ食べていった。当然ながら、血の味しかしないそれを美味しいと感じるはずも無く、食事というより栄養補給(最も、栄養と言えるのかは微妙なところであったが)に近いものだった。
「随分、情けない恰好ね」
いつの間にか、犬のように地面に這いつくばる佐藤をほくそ笑むような顔で、ラディーが檻の向こうに立っていた。佐藤はその動きを止めた。
「……誰のせいだと思っているんですか」
「一応水を持って来たのだけれど、その様子だと必要なさそうね」
と言って、ラディーは廊下に水の入った瓶を置いた。佐藤は口惜しそうに、その動きを目で追ったが、結局その事については触れもしなかった。
「……あなたは殴らないんですね」
佐藤がそう言うと、ラディーは軽蔑するような表情を彼に向けた。
「もしかして殴ってほしいわけ?お金をもらっても嫌だけれども」
「変な想像は止めてください……ただ、ほかの方達と違って、あなたは対応が違うんですねってだけですよ」
「ああ、そういう事ね」
ラディーは、一瞬納得したかのような顔を見せてから、話し始めた。
「別に、あなたの事が可哀想になったとか、同情した訳じゃないわよ。ただ、どうでもいいだけ。あなたの事もボスの事もこの国の事も、魔族と人間の争いも、全部が全部どうでもいいだけ。明日を生きるためのお金さえあればね」
「ならどうして、ここの組織に?」
「知らないの?人間の国じゃ魔族の労働は認められていないのよ。だからお金を稼ごうと思うなら、こういう事してる組織に所属するか、盗みを働くか、人間のふりして働くくらいかしらね。それで私は一番安全なここを選んだ。ただそれだけよ」
「……あなた達も、大変なんですね」
「あら、同情してくれるのかしら?」
佐藤はしまった、と心の中で思った。ラディーの方はさして気にしている様子でもなかったが、佐藤は失言でもしてしまったかのような顔をする。
「そういうつもりで言ったわけでは……ただ何となく、そう思っただけです。すみません」
「別に謝る必要は無いと思うのだけど……ま、それはこの際どうでもいいわ。ちょっといいかしら」
そう言って、ラディーは鉄格子を両手でつかんで、覗き込むように佐藤を見た。
「……何ですか」
「あの時にいた、鎧の男って何者?」
「……さあ?俺が知りたいくらいですけど。何か気になる事でも?」
ラディーは鉄格子を握っていた手を離して、暫く宙を眺めて考える素振りを見せた。
「そう。まあいいわ。もし彼が死んでも、恨まないでね」
「え……?」
突然の彼女の言葉に、佐藤は呆けた声を出した。
「今さっき連絡が入ったのよ。侵入者が現れたってね。状況を考えて、まあ間違いなくあなたのお友達でしょう?全く、どうやってここを突き止めたのかしら。あなた間抜けな顔してるし、聞けば素直に喋ってくれるかもと思ったけれど、まあ知らないのならいいわ」
「……俺が嘘をついているかもしれませんよ」
「だったらわざわざ言わないでしょう。仮にそうだとしたら騙せているわけだし」
佐藤はぐうの音も出なかった。
「さて、私もそろそろ行かなければならない訳だし、お暇させてもらうわ」
そう言い残して、佐藤に有無を言わせることなく、ラディーは入ってきた扉を開けて出ていった。その後ろ姿を佐藤は眺めていた。彼女が出て行ってから、彼女の背中の羽が小さく震えていた理由を、考えても仕方の無い事だとは分かっていながらも、考えずにはいられなかった。
そこからの時間は、想像以上に長いものだった。一切の行動を封じられ、ただ助けを待っている時間は、自分が無力な人間であるという事実を証明しているようだった。苦痛とさえ言えるもどかしさの中、彼はそれを飲み込んでジッと耐えていた。そうして、彼の感覚で数時間(実際には、一時間にも満たないものであったが)が経った頃、変化は訪れた。
座って下を向いていた佐藤の頭に、何か軽いものが当たった。自分の目の前に転がっていったそれは、小さな石ころだった。
「……何だこれ」
そのまま、怪訝に思った佐藤が上を見ると、天井の一部が崩れていた。先程、佐藤の目の前に落ちてきた石は、そこから塵に混じって落ちたのであろうと、容易に想像が出来た。
(まさか崩れ落ちたりしないよな)
そう佐藤が呟いた時だった。地鳴りと共に佐藤に目の前に現れたのは、巨大な光の柱だった。壁と鉄格子を消失させて現れたそれに、佐藤は見覚えがあった。
「……こんな派手な登場の仕方、一人しか知らないんだけど」
大きく穴の開いた壁から、瓦礫と砂埃に混じって現れたのは体格の良い、屈強な男だった。そしてその顔は、佐藤にとって忘れたくとも、忘れられない顔だった。
「久しい……わけでも無いか」
男が言った。手には淡く虹色に光る剣が握られていたが、男がその剣から手を離すと、その剣は細かい粒子に分解され、空気中に消えた。
「まあ、一か月も経っていませんし」
「ふん」
男はぶっきらぼうに返すと、空中に何かを書くように指を動かした。そのすぐ後に、佐藤の背後で金属音が鳴った。彼がそこを向けば、手につけられていた拘束具は少しの狂いも無い垂直な断面で切られていた。
「助けに来てやったぞ、転生者」
「まさかあなたが来るとは……グラウスさん」
「別に、私が来ているわけではないが……まあ、どうでもいいか。ここから連れ出してやるから、早く立て」
「ちょ、ちょっと待って下さい、体のあちこちが痛くて」
グラウスは舌打ちを一つしてから、佐藤の頭を強引に掴んで持ち上げた。万力で固定されたかのような凄まじい力に、佐藤は抗おうとするが、その努力虚しく、彼の体は本人の意思に逆らって上へ上へと昇っていく。
「痛ッ!何するんですか!?」
佐藤が地に足をつけた所で、グラウスは手を離した。
「傷を治してやった。感謝はいらんぞ」
「へ……」
驚いたように、佐藤は自分の顔を何度か触った。染みるような痛みも、口の中の圧迫されるような感覚も消えていた。
「欠けた歯も元に戻ってる……」
「早くいくぞ、いつ追手が来るか分からん。報告もしておくか」
「他にも来ているんですか?」
「ああ。マギサの奴も来ているぞ。最も、あいつらには正確にお前の魔力を捕らえる事が不可能だから、陽動を任せているが」
「……ありがとうございます。助けていただいて」
佐藤がそう言って手を差し出すと、グラウスは佐藤にわざとらしく背を向けた。
「感謝はいらんと言っただろう。あくまで仕事で来てやっただけだ」
「そーですか」
佐藤は差し出した手を自分で握って、上下に振った。
「それで、この人たちはいったい何者なんです?」
「反社会組織……と言っても、元から魔族は人間社会に属しているわけではないから、この言い回しが適切かどうかは知らんが、わかりやすく言えばそういう事だ。魔族、特に大多数を妖精族で構成された反社会組織『イディオン』。これがお前をさらった連中の正体だ。……しかし、こいつらが人間を攫って殺すなど、ただの噂話だと思っていたが。まさか事実だとはな」
「噂話ですか?」
「噂話というよりは、親が子にする話……というのがより適切か。よくあることだろう。『言いつけを守らないと妖精に攫われて食べられる』と、親が子を脅して躾けようとするのは。不運だったな、お前がその一人になるとは」
「違いますよ」
「……何?」
グラウスが振り返る。
「こいつらの目的は転生者である俺を殺すためです。何でも、ボスが転生者の事が嫌いだとか何だとかで」
佐藤がそう言うと、グラウスは手を組んで壁に凭れ掛った。
「ふむ……だとすると、少々不味いな」
「不味い?」
佐藤の返答に、グラウスはため息を零した。
「……お前、自分が国際犯罪者なのを忘れたのか。国がお前を匿っている事はあくまで秘密裏だ。それが第三者の目に触れる事が、どれだけ不味い事なのか分かっていないのか」
「言われてみれば。ついうっかり」
「まあいい。早く行くぞ。すぐにここを出なければ――」
その身を翻して歩き出そうとしたグラウスだったが、その歩みは僅か数歩で止まる。
「グラウスさん?」
「チッ、遅かったか。おいお前。そこで動くなよ」
「え?」
そこから三回、金属同士がぶつかり合う音が鳴った。突然、グラウスを守るように空中に現れた剣が、微かに震えた。
「あらら、バレちゃった。少しやる気を出しただけなのに」
声と共に、何も無かった空間からラディーが現れた。手に持ったナイフは、グラウスに向けられていた。
「ふん。こいつの魔力量に比べれば、百倍わかりやすい」
そう言って、グラウスは佐藤の方を乱暴に指さした。
「……いつからここに?」佐藤が聞いた。
「ずっとここにいたわよ。あれはただ扉を開けて出るふりをしたってだけ。本当に大事な物は、手元に置いておくのが一番でしょう?」
「俺に優しかったのは、このためですか?俺を油断させるために?」
「それは違うといったじゃない。まあでも、あなた少し油断しすぎなんじゃない?まるで争いのない世界から来たみたいね。羨ましいことで」
ラディーは少し目を曇らせながら言った。しかしそれもすぐに取り直す。
「でー、そっちのお兄さんは大丈夫なの?」ラディーはグラウスの方を向いて言う。「彼を助ける事が、どういう事か分かっているんでしょう?」
「さて?この男はわが国の臣民の一人だ。もちろん国籍もある。拉致監禁された民をその国の兵士が助ける事に、何か疑問でもあるのか?」
「そういう事を言いたい訳じゃないんだけれど……まあ、そういうことにしておきましょう。どうせ、何を言ったところでそのシナリオは変わらないんでしょうし」
そう言うと、ラディーは姿勢を低くして、ナイフの先をグラウスに向けた。
「悪いけど、その子はここで返してもらうわ」
グラウスは何も言わず、棒立ちのまま、剣を自らの手に出現させて握った。
「構えないの?」少しの間をおいて、ラディーが聞く。
「構える必要があると判断すれば構える」
「舐められたものね」
「舐めてなどいない。この私が剣を使うと判断したんだ。光栄なことだと思え」
「そう。始まってから後悔しないでね?」
ラディーは数秒、その姿勢のままグラウスが構えるのを待った。しかし、彼が動く事はなく――諦めた彼女は、彼に向かって飛びかかり、ナイフを振るう。
決着がつくまでに、三秒とかからなかった――ラディーの首から上は消失し、その続きは佐藤の目の前に転がった。その顔は、恐怖に怯えるわけでも、苦痛に顔を歪ませたわけでもない、戦意に満ち、いまだ自分が戦い続けていると思っているような顔だった。作り物とさえ、佐藤は思えた。
「終わったぞ。無事か?」
人殺しが、そう佐藤に言った。異様なほどの暑さを感じるその部屋に響いた声は、意外にも優しく聞こえた。
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