第4話 宿の一幕②

「サトウ君、お風呂空いたよ」


宿の一室で、机に向かって座り続ける佐藤に向かって、風呂上りで、タオルを肩に掛けたシルワが声を掛けた。


「ああ、ありがとうございます。もう少ししたら、俺も入りますよ」

「まだ本の翻訳作業?」


ベッドに飛び込んだシルワが、佐藤に尋ねる。


「いえ、それ自体は大体終わったので、今はこの人が書いた内容を頑張って理解しようとしているって感じですね。……あんまり理解できる自身は無いですけど」


シルワの方を見ず、憑りつかれたように机の上の紙を睨みながら、佐藤は答えた。


「サトウ君でも分らないんだ……。だとしたら、相当凄い人なんだね、その人」

「いやいや、ぶっちゃけ、その道の人間からしたら俺なんて大したことないですよ。まあ、この本を書いた人は、実際凄い人ですけどね」


と言って佐藤は苦笑する。


「でも、サトウ君ならきっと出来るよ」

「……ありがとうございます。そうですね、この本の謎を解く事が、もしかしたら帰るためのヒントになるかもしれないですしね」

「そうなの?」

「ええ。この本に書いてある魔法が凄いと言うのもありますけど、もしかすると、書いた人は転生者なんじゃないかって思うんです」

「あ……!確かにそうかも」


その言葉に、シルワは驚いた顔をしたが、佐藤がその表情を見る事は無かった。


「普通に考えて、この世界の人達がこの本を書いたと考えるよりも、俺達の世界で科学に詳しい人が転生してきて、魔法をヒントに、もしくは魔法を使って、この本を書き上げたと思うんです。……確か、この本が書かれたのは七十年前だったから……。単純に七十年前の人間がこの本を書いたと仮定すると、1950年代か……。その頃なら、量子力学が完成しているだろうし、ありえない線じゃないな…」

「サトウ君?」

「いやでも、超ひも理論はその後に提唱されただろうし……だとすると、俺達の世界と、この世界とは時間にズレがあるのか……?だとすれば、この星の重力がよっぽど強いか、自転の速度が相当早くないといけないし……」

「サトウ君ー?おーい?」

「多世界解釈はどうだろう……いやでも、これはまだ確かな理論じゃないし……っていうかそもそも、この世界と俺の元いた世界は同一宇宙にあるのか?……いやでも、この世界にいる存在なら、宇宙を跨ぐなんて不可能なはずだし……」

「ねーえー、サトウ君ー?聞いてるー?」


置いてけぼりになったシルワが、佐藤の背後に回って彼の頬をつつきながら言った。やはり佐藤は、彼女の方を決して向かなかった。


「シルワさん。一つお願いがあるんですけど、良いですか?」


そのままの体制のまま、佐藤は神妙な面持ちで言った。思わず、シルワはたじろぐ。


「え、何?良いけど……」


佐藤は大きなため息を零す。


「服着て下さい」




「ホントにあの人は……何回言えば治るんだ……」


流れるシャワーの水を浴びながら、佐藤は呆れた様子で呟いた。


未だに佐藤は、彼女の羞恥心の無さに慣れていなかった。ああいう風に彼女が一糸まとわぬ姿で彼の前に現れるのは決して珍しい事でなかった。何度言っても彼女の悪癖が治ることは無く、結局彼は彼女の裸が容易に想像できるほどにまで成長してしまっていた。そこまで来ると最早わざとなのではないかと疑うのが普通の思考であるが、彼がその思考にたどり着くことは無かった。


(……しかし、昼間の話は驚いたな。まさかそこまで大きな話になってとは。何しでかしてくれたんだ、三百年前の佐藤さんは)


佐藤は昼間に、アールから聞いた話を思い出していた。シルワと同じように、悪癖と言う程でもないが、彼には風呂の最中、ひたすらに物事を考える癖があった。そのせいで無駄に長風呂になることも多かった。


(……正直、この世界の歴史に関しては、傍観者でいる予定だったけど……。ここまで来ると、そうもいかない可能性もあるのかもしれないな……)


佐藤はあの少女を襲った連中を、許すことは出来ないと言う結論に変わりは無かった。彼らの行為は、ある意味仕方ない事だとは思っている。周りの人間が作った流れに、中々逆らえないのが人間だ。結局、他人を思いやることも、極端に言ってしまえばそれと大して変わりない。向きが違うだけで、進んでいることに変わりは無いのだ。


だから――もしかすれば、このまま佐藤が、このスタンスをを取り続ければ、人と魔族のいがみ合いの歴史にいずれ介入してしまうかもしれない。そうなれば、何か甚大な被害を被るのかもしれない。


(だからと言って、それを認める事は出来ない……よな。歴史を変えるつもりも、介入するつもりも無いけど、傍観者で我慢できるほど、俺は強くない。強くなれるはずがない)


佐藤は、水に打たれながら、ぼんやりと自分の手を眺めた。その手は血で濡れている――気がした。彼は、目を閉じた。少し待ってそれを開けば、そんな事は無く、ただの水で濡れた手だった。


(……止めよう。早く上がろう)


佐藤は水で濡れた手で滝の様に流れ出るシャワーを止めて、風呂を上がった。出る水はお湯で、寧ろ熱いくらいだったが、何故だか寒気がした。




「あ、サトウ君、お帰り」


佐藤が風呂から戻ると、シルワはベッドの上で横になっていた。彼女が服を着ている事に、彼は安堵のため息を漏らす。


「はぁ……」

「どしたの?」

「あなたが裸じゃないんで、安心してるんです……。何度言ったら直してくれるんですか」

「ごめんねー、私忘れっぽくてさ。でも、そんなに嫌なの?私の裸?」

「いや、そういう訳じゃないんですけど……。むしろ、嬉しいからと言うかなんというか……」

「え、嬉しいの?こんなのが?」

「そう言われればそうなんですけど……でも見たら罪悪感で死にそうというか……」


シルワは、訳が分からないとでも言いたげな顔をする。


「?」

「……とっ、とにかく、大事な人でもない限り、そう言うのは見せちゃ駄目なんです!理由とか、理屈とかそういうのじゃなくて……そういうものなんです!だから、ほんとにお願いしますから、今度からちゃんと服を――」

「サトウ君は――」

「え?」


シルワは佐藤の言葉を遮って、平常の口調を決して崩すことなく、言う。




「サトウ君は、大事な人だよ?少なくとも、私にとって」


その瞬間――佐藤は脳天に、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。そしてすぐに、自分の耳を疑った。聞こえてはいたが、彼女が何を言っているのか分からなかった。


「へ……今、なんて?」

「だから、サトウ君は大事な人だよ?」


彼女は恥ずかし気も無く言う。その言葉一つ一つ、一挙手一投足が、彼の心に突き刺さる。


「ほ……本気で、言っているんですか?」


彼の口から出る声は、彼が気付かない程、とても情けない声だった。嬉しいはずなのに、ただその事実に喜べばいいだけなのに、自分でも訳が分からない程、体が震えた。


「うん」


彼女のたった二文字の言葉ですら、その言葉は刃物となって彼の心を突き立てる。少しでも心臓が跳ねれば、そのまま刺さってしまいそうだった。


「ほ、本気にしちゃいますよ……良いんですか?」

「? 別に、いいんじゃない?」


やはり、彼女は言う。何の恥ずかし気も、何の理解もしてない顔で。無知で無垢な――デリカシーの無い子どものように。


「良い訳――」

「え?」

「良い訳無いでしょう!?」


いつの間にか、佐藤は叫んでいた。叫んでから、彼はふと、我に返る。困ったような、驚いたような。そのどちらでもない顔を佐藤はしていた。彼はこういう時、どういう顔をすれば良いか分からなかった。


「あ……いや、その……」

「えっと……ごめん。ど、どうしたの?」


シルワが困惑した表情で、佐藤を見つめる。彼は咄嗟に目を逸らす。


「……すみません。少し、夜風に当たってきます」


佐藤は踵を返して、ふらふらとおぼつかない足取りで、その場を後にする。背後でシルワが佐藤に向かって声を掛けていたが、今の彼には聞こえていなかった。――否、仮に聞こえてたとしても、それに振り返る事は無かっただろう。


外を出た佐藤は、あても無く歩いた。彼の脳内では、まるで呪詛のように、彼女の言葉が響いていた。


(そんな訳無い……あれはシルワさんの、いつもの悪い癖だ。あれはその……あれだ。ペットにかける言葉みたいなものだ)


佐藤は早足で歩きながら、思考を紡ぐ。言い訳じみたものだった。彼女が本気で、それこそ、男女の関係を指して、あの言葉を言ったわけではない。その事は、佐藤も分かっていた。しかし、彼にとって、彼女のその言葉は、あまりにも魅力的だった。あまりにも甘い、劇薬のような、麻薬のような言葉だった。そのまま、その言葉に身を任せてしまいたかった。彼女の操る蔦に、自ら捕らえられたかった。


(止めろ……考えるな)


考えたことが無い訳では無かった。


(止めろって言ってるだろ!)


だけど、なるべく、心の声で形にする事は避けていた。


(俺がもし――なんて、そんな……そんな事、許されるはずがない。俺は、帰らないと駄目だろ!)


その脅迫にも似た思考を――佐藤は紡ぐ。


『帰りたい』――佐藤の根底にある、彼の本心。彼が今こうやって、ここに立っているのも、魔法の練習をしているのも、彼女と出会えて、今こうして話している事すら、その心のおかげだ。


しかし――彼女と過ごせば過ごすほど、話せば話す程、その本心は揺らいでいく気がしていた。はっきりとそう感じたわけではないが、彼女と話すたび、何か影のような物が自分の背後に音も無く近づいていて、気が付けばいつの間にか自分のすぐ傍まで忍び寄っているような感じがしていた。何か大事なことを忘れている時のような、そんな不気味さにも似た感情だった。


けど佐藤は、分かってもいた。この自分の本心が、決して揺るがない事を。それはあくまで気がするだけで、実際には揺れていない事を。揺らぐはずが無いのだ。自分の足元に絡みつく黒い腕と血に濡れた腕が、ちょっとやそっとでは自分を放してくれない事を、彼は知っている。それには何処か安心感すら覚えていた。


(だから、大丈夫だ。彼女は俺の事なんか、好きじゃない。俺だって、彼女の事は好きじゃない。そう、これで十分だ。他に何もいらない筈なんだ。気にしなくていい。気にしないで、俺は帰る道を模索すればいい)


出来る事なら、シルワとこれ以上関わる事すら避けたかった。これ以上、彼女と一緒にいれば、その本心ですら、いつか揺らいでしまうのではないかと、そんな気がしてならなかった。そんな事は無いと言う自分と、そんな事があるかもしれないと言う自分が共存していた。


(出来る訳……ない……よな)


しかし、こんな自分でも、義理でも、大事だと言ってくれる彼女を拒絶するなど、彼には出来なかった。嫌われる勇気すら出なかった。そのまま、彼女が発する都合のいい言葉に、少しだけ甘えていたかった。――それが間違っている事だと思っていても。


佐藤は、喉で詰まった何かを吐き出すように、大きく息を吐く。


「大丈夫、だいぶ落ち着いた。やるべき事は分かってる。俺は大丈夫だ。いつも通りシルワさんに接してそれで何とかして元の世界に帰る。それだけの簡単な作業だ。彼女と特別な関係にはなるつもりは無いし、どう頑張った所でなる訳が無い」


佐藤は自分のやるべきことを、自分の中の事実を、しっかりと声に出して確認する。軽く頬を叩いてから、決意を新たにして、彼は元いた宿へと、ゆっくりと歩き出した。


まるで――親と喧嘩してしまった時に、早く帰らなければいけないのに、ゆっくりと時間をかけて帰る時のようだった。

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