第一章・B『草原を行く馬車』

草原の中を、一つの馬車が駆けていた。青い頭身で出来た馬が引く馬車の速度は、荷台に壊れやすい物でもあるのか、あまり出ていないかった。荷台には割れ物――ではなく、二人の男女が寄り添うようにして寝ていた。


暫く馬車が走ると、荷台に陽の光が差し込んだ。その光は男と女の境目に影を作り、男は、目の前が真っ赤になるような感覚と共に目を覚ました。彼は自分の顔の前に手を持ってきて、陽の光を遮った。


「まあ……夢なわけが無いよな。二度目だし」


男――佐藤はそう呟いてから、ため息交じりに自分の腕を眺めた。どこからどう見ても、いつもの見慣れた少し細めの腕だった。血色や血の色も、特に変わりはなかった。しかし、彼はこの腕が自分の物では無く、自分の常識の外からやってきたものだという事を知っていた。どれだけ信じ難い事であっても、重い事実として自身の右腕に憑りついていた。


佐藤は自分の隣で、状況を理解していない、あるいは知らないかのように、安らかな表情で、まるであの時の出来事が嘘であるように眠る女――シルワを見た。彼女見て、佐藤は少しだけ安心感を覚えた。実際は何も安心できるようなことでは無いのだが、彼女が恐ろしい怪物であると言う事実を、心のどこかで彼は認めたくはなかった。それは彼のポリシー――科学者として、観測した信じ難い真実から目を背けない姿勢――に反する事でもあったが、その事実にすら彼は気が付いていなかった。ただただ自分の本能と理性が、彼女が怪物では無いという屁理屈にも似た証拠を求め続けていた。


「おう、サトウ――目覚めたか」


佐藤の前方で、陽気な男の声がした。佐藤が声のした方を向くと、アールが馬を引いていた。隣には、この暑さにも関わらず、フードを深くかぶったフェルムが座っていた。


「はいお陰様で。おはようございます。アールさん、フェルムさん」


フェルムが佐藤に振り向くことは無かった。アールは荷台の縁に片腕を乗せて、鎧の僅かな黒い隙間を佐藤に向けた。


「アールで良いぜ。俺にはお前にそんな風に呼ばれる権利なんて無いんだからよ」

「分かりました。所で、聞きたい事があり過ぎるんですけど、聞いても良いですか?」

「ああ、構わねえ――と言うより、元からそのつもりだったしな。マギサから、現状説明も兼ねてお前らの護送を頼まれてよ。しかし、何処から話したものかな。そうだな、あの後何が起こったのから話しておくか」


そう言って、アールは佐藤が気絶した後の出来事を簡潔に伝えた。


「……まあ、そんな感じだな。つっても、俺も隣にいる奴から聞いただけだけどな」


と言って、アールはその大きな鉄に覆われた手で、乱雑に、それでいて傷つけないように優しく、フェルムの頭を何度か叩いた。フェルムは嫌な顔一つせず、無表情のまま乱れたフードを深く被り直した。


「……分かりました。ありがとうございます」


佐藤は礼だけ言って、それ以上は何も聞かず、下だけを向いていた。


「それから、こっちの方が大事な話なんだが――お前の今後について話したい」

「今後、ですか」

「ああ――まず、国はお前の『価値』を認めて、保護することにした。但し、万が一を考えて、表向きは敵対関係……と言うより、そもそも国に訪れていないという事になっている。つまり、無関係を装えってことだ」

「俺の価値って、まさかあの時俺が言った、神様がどうかとかですか?」


アールは横に首を振った。


「いや、それじゃ無い。まあ、咄嗟の思い付きにしては悪くはなかったと思うが、お前の価値はもっと違う所にある――そこに本があるだろ?あれを取ってみろ。但し、一度掴んだら。それから、重しも同じだ。掴む前に外さない事」


と言って、アールは金属がぶつかり合う音を立てながら、佐藤の少し後ろの方を指さした。そこには木箱の上に、重しの様な鉄の塊を上に乗せ本が置いてあった。佐藤はその本に見覚えがあった。ぼんやりとした記憶であるが、あの時にマギサに読まさせられた本だった。


その本は羊皮紙の二つ折りの物で、まるで初めから図書館の隅に置いてあって、誰にも手に取られていないような、古いが傷の少ない綺麗な本だった。


佐藤は言われるがまま、その本を掴んでから鉄の塊を外した。彼は言われた通り落とさない様にと、その本をちゃんと掴んでいた。しかし、その本は結果的に佐藤の手から離れ――


「なっ――」

「だからちゃんと掴んどけって言ったのに」


そう言ったのはフェルムだった。上に落ちようとした本は、すぐに空中で静止した。彼女が魔法を使って止めたのだが――まるでこうなる事が分かっているように、落ち始めてから止まるまで、その一連の動作は一瞬だった。


「いや、掴もうとしたんですけど、何というか、想定外の方向に力が働いたというか……あの時も、確か何なんですか、その本は」

「さあ?私は知らないけど、何でも『上に落ちる本』だと」


フェルムが荷台に飛び乗って、静止させた本を自身の目の前まで持ってきた。ひったくるようにその本を掴むと、佐藤の前にそれを差し出した。佐藤は困惑した表情で、今度は離さない様に、しっかりと注意してそれを受け取る。


「マギサが研究している魔法の内容は知ってるか?」口を開いたのはアールだった。

「ええ……知っています。確か法則を書き換える魔法だとか何だとか」

「そう、あの魔法がいまだに誰にも使えないのは、別にその魔法が難解だからとかじゃなくて、そもそも書かれている内容が暗号化されているせいで誰も読めないんだ」

「でも俺ならそれが読める……と?」

「そういうこった。これが神との対話どころか、神すら書き換える事が出来るかもしれないお前の価値って訳さ」

「まあでも、どうせ魔力が足りなくて使える様になるのは随分先だろうけどね」


佐藤に本を渡し終えたフェルムが、そんな事を言いながら、佐藤を見もせず元居た位置に座り直した。


「だからいいのさ。こいつは方法は知っているが個人だけで使うことが出来ない。どれだけ解読したところで、何の脅威にもならない。出来過ぎて怖いくらいだ」

「……話が壮大すぎてよく分からないんですけど、ひとまず助かったって事で――」


そこまで言って、佐藤は言い淀む。


「いや、違う……。むしろ逆……ですか?」

「ああ」


アールの返答は、少しだけ間があった。


「むしろ逆――危険なんだ。お前のその力は、一国が国際法を破って、それこそ宣戦布告を受けるリスクを背負ってでも、欲しいと思う物なんだ。つまり、お前の事が他の連中に知られれば、無理矢理奪おうとするのかもしれない。もしかしたら脅威を感じて殺すのかもしれない――果たしてどうなるのかは知らないが、ろくなことにならないだろうな」


佐藤は生唾を呑んだ。


「……もしかすると、またレグムとは違う連中が、俺を攻撃する可能性があるんですか」

「今すぐって事は無いだろうが、そうだろうな。とは言え、だからこそ俺が付いてんだ。そう簡単に手出しさせるつもりはないぜ」

「そう。だからサトウは安心してそこでシルワの背もたれを務めておけばいい」


フェルムが佐藤を指さして言った。無意識下にいるシルワは佐藤との接する面積を大きくしていた。佐藤は身をよじってなるべくその面積を減らそうとしていたが、それが逆に不味かったのか、面積はどんどん増えた。それはまるで彼女が離れる事を拒否しているようでもあった。


「な……うるさいですよ……。別にわざとじゃないですから……」


佐藤はフェルムに自分の顔を見せないように言った。自分の赤くなった顔を彼女に見られてしまえば――自分がどうなるか予想も出来なかったからだ。


「どうだか」

「そ、そんな事よりも、この馬車は一体どこに向かってるんです?」

「ああ――この馬車は、魔族連合国っていう、人間以外の種族が暮らす国へと向かっている。そこでマギサが用意してくれた協力者の元へ行く。その国は国際法を守る義務が無かったり、海峡を越えた先にあったり、色々都合が良いんだ」

「人間以外の種族って、その……エルフとか、ドワーフとか、そういうファンタジー的な……?」

「ファンタジー……?まあ、そうだな。いるな、ドワーフとか……エルフとか。つっても、その国まではまだだいぶ距離がある。先の戦いで随分疲れただろうし、取り敢えず今は休んでおけ」

「……そうですね。そうさせてもらいます」


佐藤はゆっくりと目を閉じて、再び眠りについた。アールとフェルムは暫く、馬車の車輪が地面を蹴る音だけを聞いていた。


「……もうサトウは寝たぞ」


アールがそう言うと、フェルムは無言で深く被ったフードを外した。爽やかな風が、彼女の綺麗な銀色の髪の間を吹き抜けた。


「やっぱ暑かったか?」

「……うん。一応、ありがとうって言っておく」

「どういたしまして。お前も結構魔力を使ったし、今のうちに少し休んでおいたらどうだ?」

「そうする……。アール、膝貸して」


アールの返答を待たずに、フェルムは彼の鎧で覆われた太股の上に頭を預けた。


「……気持ちいいのか?それ」

「全然。想像以上にこの枕猛反発してくる」

「そりゃあそうだろ。ほれ、体起こせって。こんなところで寝たら絶対何処か痛めるぞ」

「いい。……ここが良い」

「そうか。分かった」


アールは、その大きな手で、優しく少女を撫でた。少女の耳が、彼の指の間を抜けた。


その耳は、普通の人間よりも長く、先が少し尖っていて――所謂、元の世界での『エルフ』と同じ特徴だった。

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