第二章 「逢魔の国」

第1話 いつも通りの日常

その小さな体と比べると、大きく感じる食材の入った紙袋を抱えて、ニアは路地裏を軽快なリズムを奏でながら歩いていた。路地裏は薄暗く、視界も紙袋で少し塞がっていたが、その事が全く障害にならない程、彼女にとってそこは何度も歩いた道だった。


料理屋の角を曲がって、武器屋の看板を通り過ぎて、そこから二つ先の角を右に曲がれば大通りに出る。そこからは通行人にぶつからない様にペースを少しだけ落として、馬車の通る道路を横断してから暫くまっすぐ進めば家に着く。いつもの道で、変わることのない、不変の道だ。なればこそ、変化は人が、意思が起こすのであろうか、彼女のいつもの帰り道は、いつも通りには行かず――彼女は大通りに出る前の角で、派手に誰かとぶつかった。


短く悲鳴を上げて、ニアは路地に尻もちをついた。紙袋はひっくり返り、中身が派手に地面を転がった。


「痛たた……」

「おいガギ!どこ見て歩いてんだ!危ねーだろうがよ!」


ニアがぶつかった相手が、ドスの効いた声と、怒りに歪んだ表情で言った。その声と表情に二アは跳ねる様に狼狽える。


「ひっ……ご、ごめんなさい……」


消え入るような声で、ニアは言った。男にはほとんど聞こえていない程の声量だったが、彼女にとって精一杯の声量だった。


「アァー!?聞こえねーだろがよ!」


ニアの目線の中に強引に入り込むように、男は顔をニアに接近させた。追い詰められたニアは、もはや泣き出す寸前だった。


「おいやめろ。怖がってるじゃねえか。そもそも、ぶつかったのは半分お前にも責任はあるだろ……」


そう言ったのは、ぶつかった男の隣からひょっこりと現れた、眼鏡をかけた別の男だった。怒りに満ちた男の顔とは対照的に、眼鏡の男の表情は穏やかな物だった。


「えっと……あ、あの……」

「ごめんな、嬢ちゃん。後でこいつによく言って聞かせるから、この場はこれで勘弁してくれないかな?」


その男は怒り狂った男とニアの間に割って入ると、彼女の手を取り、その上に数枚の金貨を乗せた。ニアは驚きの表情でその金貨を眺めた。


「……これは?」

「ん、ああ。その大きな紙袋、俺の連れがひっくり返しちまっただろ?それで足りるか分らんから、もし足りなかったら言ってくれよ」

「い、いえ……むしろ多すぎるくらいです……こんなに受け取れません」

「そんな事言わず受け取ってくれよ。謝罪の意味も込めているんだから、嬢ちゃんが気にする必要もないさ」

「おい待てよ!そっちのガキが先に――むごッ!?」


彼女の手を取った男は、後ろで喚こうとした男の口をあいている方の手で強引に抑えた。抑えてから、ズレた眼鏡を上に戻した。


「静かにしてろ、話が全く進まん。ったく、このご時世、こんな場面見られただけでムショ行きだってのによ。……まあ、なんだ。早いとこ受け取ってくれ。どうしても嫌ならその時は嬢ちゃんの意志を尊重するよ」

「……なら、一枚だけ」


と言って、ニアは自分の手元にあった金貨を一枚だけ残して、眼鏡の男に渡した。男は何も言わず、笑顔のままそれを受け取り、ズボンのポケットにそれを仕舞った。


「じゃあな嬢ちゃん」

「あ、ありがとうございました」


不満げな顔した男と、柔らかい顔の男の間を抜ける様に通り過ぎ、ニアはそそくさとその場を去ろうとした。


「おい、ちょっと待てお嬢ちゃん」


不意に、眼鏡の男が背後からニアを呼び止めた。ニアが振り向くと、


「あぐッ――!?」


ニアの肺の中の空気が、一気に口から流れ出た。彼女は必死に男の手を解こうとするが、大の男の力に及ぶはずも無く、抵抗は虚しく終わった。


「おい!?お前何やって――」


驚きで怒りを忘れた男の声を無視して、首を掴んだ眼鏡の男はその力をますます強めていく。


「ぐ……う……」

「おい、嬢ちゃん。俺の勘違いだったら謝罪する。俺の全財産だって、命だってくれてやる。それだけの事をしたという自覚もある――だから、その背中にあるものを俺に良く見せて見ろ」


眼鏡の男は自分の内側から這い上がってくるものを押さえつける様に、ゆっくりと、落ち着いた声で言った。しかし手や声は震え――まるで、目の前の少女を恐れているようだった。そのまま、男は少女の体の向きを強引に変えて、その背中を覗き込んだ。


「キャッ……。な、何を……」

「いいから黙ってろ!まさかとは思っていたがよ……!クソが!」


ニアの背中を確認してから、眼鏡の男はその体を投げ飛ばした。幼い少女の体は激しく地面を転がった。


「ゲホッ……。い、痛い……やめ――あぐッ!?」


立ち上がろうとしたニアの体を、眼鏡の男は足で強引に押さえつけた。


「やっぱりな。大方こいつに詰め寄られて、自分の服をどっかに引っ掛けて破いたこと忘れたたんだろうが、まさか嬢ちゃん、お前が人間じゃないだなんて夢にも思わなかったぞ」

「な――まさかそいつ、は……」


ニアの背中から生えていたのは、小さな、虫の様な羽だった。


「ああ……間違いない、しかも嬢ちゃん、よりにもよって妖精族かよ……よくもまあ、クソみてえな羽をお持ちのようだ……な!」


眼鏡の男が、ニアの背中に向かって何度も足を振り下ろした。男の足が彼女の小さな背中に当たるたび、肺の空気と共に彼女は苦痛の声を吐き出した。


「うぐ……だ、誰か……たすけ……」

「そいつは無理な話だなァ!?ここは人間の国なんだよ!分かるか?三百年前の生き残りだがなんだか知らないが、ここは人間の国で、お前らの居場所なんかねえんだよ!さっさとお隣の魔族の連中が暮らす国にでも行きゃあいいじゃねえか!」

「おい待て」


別の男が、彼女を押さえつける眼鏡の男の肩を引き寄せて止めた。


「あ、何だ?お前もやるのか?」

「違う違う、そうじゃない。お前知らないのか?妖精族の羽や首ってのは、高く売れるんだぜ?」

「そうなのか?」

「ああ、何でもこの町のギャングの連中が妖精族を恨んでるとか何とかで、そいつらに売り渡せば多額で買い取ってくれる。良い話だろ?」

「それはそれは、良い事を聞いた。なら出来るだけ綺麗に切り取ってやらなきゃな」


眼鏡の男が懐からナイフを取り出した。そのまま男はニアの背中にある羽を掴んで、根元にナイフを当てた。


「う、うう……」


とうとうニアは泣き出した。痛みと絶望で、これから何をされるのかの想像以外、何も考えられなかった。


「おやおや、泣かせちゃったねえ」

「どうでもいいだろ、魔族が泣こうが喚こうが」


眼鏡の男が心底どうでもいい様子で返す。


「違いねえや」


眼鏡の男はナイフを握った手の力を込めようとした。その時だった。


「おい」


眼鏡の男達の背後から声がした。振り返ると、そこには右腕に黒い何かを巻きつけた、身長の高い男が立っていた。


「何だお前、見物か?待ってろ、これから面白い所――

「今すぐ」

「あ?」

「今すぐその子から手を離せ、じゃなきゃ詳しい話を聞く前にぶちのめすぞ」


眼鏡の男は怠そうにニアから手を離した。手の中でナイフをクルクルと回しながら、男は背の高い男に向かって話し始めた。


「あー、お前もひょっとして魔族なのか?ここいらじゃ見ない顔だが」

「……人間だよ。少し離れた所から来ただけだ」


慎重に言葉を選んでいるのか、背の高い男の返答には少しだけ間があった。


「ふーん……。一応聞くが、こいつが魔族って知ってて言ってるんだよな?」

「……ああ」


背の高い男が返すと、眼鏡の男は深くため息を吐いた。


「はあ……。お前あれか、ひょっとして融和派って奴か?全く面倒くせえな……」

「融和派?」


眼鏡の男は、面倒そうに自分の目の前で手を横に振った。


「あー、何でもない。そういやこの国の出じゃないらしいな。わかったわかった、こいつを解放すればいいんだろう?するよ。こいつは良くても、お前に手出ししたら俺たちが捕まっちまう。悪いが俺は一般市民だ。お前みたいな馬鹿じゃないからな。ほら、何処へでも連れてけ」


そう言って、眼鏡の男はサッカーボールを扱うかのように、寝ているニアの体を足で押した。その行為を見て、背の高い男は強く奥歯を噛んだ。


「……感謝はする。許すつもりは微塵も無いが」

「勝手に言ってろ。じゃあな、せいぜい誰かさんの恨みを買わない様に気をつけなよ」


眼鏡の男は別の男を引き連れて、ニアの背中の羽を恨めしそうに見てからその場を去った。


「酷い話もあったもんだ……。えっと、大丈夫……じゃあないよな、立てますか?」


背の高い男が、ニアに話しかけた。男の声は少しぎこちなかった。彼女の事を心の底から心配している表情ではあったが、その動きと話し方はまるで腫れ物に触るようなぎこちなさがあった。


「や……やめて、来ないで」


ニアは、懐から小さなナイフを取り出して、震える手に必死に力を込めながら、切っ先を背の高い男に向けた。男の表情が、すぐに驚きの表情へと変わった。


「え……ちょっと落ち着いて!俺は何もするつもりはないから」

「お、お母さんが……言ってた。知らない人間は信用するな……って。だから来ないで……!来たら刺すからッ……!ほ、本気で言ってるよ!たとえ殺すことになったって……!」


その言葉に、男は目を少しだけ見開いた。


「……本当に、本気で言っているのか?」


突然、男の声色が変わった。とても冷たい声だった。優しい先生が静かな口調で怒る時の様な、そんな冷たさだった。


ニアはその男の声に、一瞬、ナイフを落としそうになった。彼女は慌ててそれを掴んで、震える右手を押さえつける様に左手を被せてから、再び取り直す。


その様子を見たか否か、背の高い男はゆっくりとニアに向かって歩き始めた。男は小さく震えるニアを壁際まで追いつめると、彼女の手にあったナイフの刃の部分を右手で強引に掴んだ。


「えっ――」


ニアは、男のその行為に完全に固まってしまった。どうすればいいかは分かっている。しかし体が思うように動かない。硬い何かにでも刺してしまったのか、そのナイフはどう頑張った所で男の手から抜けそうにはなかった。


「俺ははっきり言って部外者だ。だから、君がやっている事の善悪とか、正しいとか間違ってるとか、そういう事は分からないし、とやかく言うつもりも無い。だけど――これだけは言える。少なくとも、君は人を殺せる人間じゃない。こうして今、逃げる事や追撃をする事よりも、俺の心配をしている時点で、君はそういう人間じゃない」

「あ……う……」

「別にこういう事をするなとか、そういう事を言いたいんじゃない。時には必要なことかもしれない、どうしようもなくなれば、誰かを殺してでも生き延びるべきなのかもしれない――けど、犯した罪と向き合う覚悟が無いのなら、やめた方が良い。一生後悔する事になる。死ぬよりも、辛い現実が待っている。だから、今はまだその時じゃない。どうか、その手からナイフを放してくれないか」


ニアは、言われるがままにナイフを手から離した。意図的に離したというよりも、男の勢いに気圧されて、体が勝手にナイフを離してしまったと言った方が正しいかもしれない。彼女はこの男の事を何も知らない筈であったが、彼の放った言葉が、出任せやその場限りの物でないと、心の何処かで直感していた。そう思わせるほどの彼の立ち振る舞いや言葉には、凄みと重みがあった。


男は取り上げたナイフを一目見てから、持ち手を少女に差し出した。


「これは返す、今の君なら、後悔しない使い方が出来ると信じているよ」

「……ごめんなさい」


それだけ言って、ニアは一つ頷きを入れてから、ナイフを受け取って懐に仕舞った。


「あの、その、さっき、ナイフの刃を掴んだと思うんですけど……手は大丈夫……なんですか?」


ニアが恐る恐る聞いた。目の前の男は、言われて気が付いたのか、思い出したかの様に勢い良く自分の手を、体の後ろ、ニアから見えない位置に持っていった。


「えっと……気にしないで!平気だから!」

「で、でも……」

「うーん……まあ、いいのか……?ちょっと待って、考えるから……」


背の高い男は、自分の顎に左手をやって、独りでに唸り始めた。ニアは不思議そうにそれを眺めていが、口を出すことは無かった。しばらく、一分ほど近く男が唸った所で、男は再び彼女に向き直って、自分の手のひらをニアに向けた。


「まあ、こういう事なんだ……」

「え……な、なんで?」


ニアは目を丸くする――目の前の男の手のひらが、全くの無傷だという事実に。

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