第26話

獣は後ろに飛んで、一気に距離を取った。自身の一撃をマギサが指一つで受け止めた事実を理解しているのか、警戒するように姿勢を低くしていた。


「つれないなあ。折角いい話を持って来た――」


言葉を言い切る前に、マギサの体は獣に殴られ、派手に吹き飛んでいた。グラウスのすぐ横を通り抜けて、ある程度の速度を保った物体は、すぐ後ろの壁を簡単に破壊した。


「痛いじゃないか。全く」


マギサが残骸の中から、あっさりと出てきた。痛いと表現した割には、彼女の体は傷一つ無かった。獣は彼女に飛び掛かって、更に攻撃を繰り出した。二撃、三撃――その全ては、彼女に届くことは無かった。彼女の肌に触れる前に、見えない壁のような物で弾かれていた。


「――お座り」


と言って、マギサが手を下ろした。瞬間、空中にいた獣は地面に叩きつけられた。見えない何かに押しつぶされるように獣は地面に膝を付いた。地面と手足が触れている部分の床が、次第に割れ始めた。


「偉い偉い。ちゃんとお座り出来るじゃないの」


そう言って、白い髪の下に不気味に笑う顔を覗かせながら、動けなくなった獣の頭をマギサはゆっくりと撫でた。獣は、その手を振り払う事も、避けることも無かった。


「しかし、よく分からないとしか言えないなぁ。一応こっちでも色々調べてみたはみたけど、それらしい文献は何一つ見つからなかったし。少なくとも、『祝福』じゃあない事は確かだろうけど」


彼女の目に、恐れなどは無かった。その目は、未知の領域に心を馳せる少年のような目をしていた。獣の黒く染まった目に、自分の顔を出来るだけ近づけて見定める様に覗き込む。


「『君』は何処から来たのかな?神が与えし『祝福』を超える力を持っているとなると……ヒトの技術では無いのかな?力の根源は?シルワとどんな関係があるのかな?匂いは?味は?独立した生命体なのか?シルワを宿主とする寄生虫の様な物なのか?感じる魔力は随分少ないように感じるけど、はたしてそれは魔法の力なのか?――ああ、興味が尽きないねえ。サトウ君と言い君と言い、こうも可能性の宝と出会えることになるなんて、アールには感謝しかないよ――だが」


マギサの顔が一変する。眉間に深い皺が刻まれ、目を大きく見開く。唯一口角だけは大きく変わることは無かったが、纏っている雰囲気は真逆と言ってもよかった。

マギサは乱雑に獣の髪の毛を掴んで、勢いよく獣の額に頭突きを食らわせた。


「良い夢を見せてやるから――今は引っ込んでろ」



*  *  *



マギサは掴んだそれを大きく振りかぶって強引に壁へ投げた。鈍い音共に、獣の体は壁の向こう側へめり込んで、大きな穴を作った。


「ま、この程度で死ぬわけが無いよな。ほら、さっさと出てこいよ」


彼女の声に答える様に、穴から獣が、炎の様に揺らめく触手を携えて出てきた。マギサは構える事も無く、棒立ちのままグラウスに指を指す。


「これは単純な今までの君の行動からの予測なんだけど……君の目的はそこの男を殺す事で良いんだよね?」


獣は答えなかった。マギサはつまらなさそうに手を下ろす。


「ふーむ。その沈黙は、肯定って事で――


それ以上、彼女が言葉を発することは無かった。全身穴だらけになった女の形をした肉が、獣の前で崩れ落ちた。


「マギサ!クソッ。こうなったら――


続けて。グラウスの腹を獣は食い破った。臓腑を食い破られた男の形をした肉は、支えを失ってその場で倒れる。獣は触手を首に巻き付けて引き千切り、頭を自分の目の前にを持ち上げた。生気を失ったその顔を、確かめる様に見つめてから、ゴミの様にそれを投げ捨てた。


獣は一つ、咆哮を上げた。



*   *   *



「……そして辺りには、獣の咆哮以外何も残りませんでしたー……って感じ?」


獣の頭を掴んだまま、マギサが言った。まるで首根っこを掴まれた猫の様に、獣は大人しく縮こまっていた。その頭の周りには、小さな雷の様な物が時折走っていた。


「魔法って言うのはね、好き勝手やっていい訳じゃないんだ。当然、倫理や道徳に反するものは禁止されているんだよね。例えば――人に幻覚を見せる魔法とか」


次第に、マギサが掴んでいる部分から、獣の色が抜け始めた。黒色の髪は金色に戻り、肌は光を取り戻しつつあった。しかし、それとは対照的に、シルワの目は虚ろい、光を失っていた。


「禁呪≪虚構劇ナイトメア≫――いい夢は見れたかい?」


マギサはシルワの頭から手を離した。既にシルワは気を失っていて、その場に崩れ落ちた。


「随分手間かけさせてくれたじゃないの。全く。どう頑張っても元に戻りそうになかったから幻覚の世界の中で二人とも殺させてみたけど、どうやら正解のようだったね。君の存在意義が段々と分かって気がするよ」


マギサは寝ている彼女の体を魔法を使って持ち上げて、平らな場所へと運んだ。その寝顔は先程までの様子とは打って変わった、とても穏やかな物だった。


マギサは一つ、息を吐いた。余裕の消えた表情と、額を流れる汗を拭いて、自分の胸の前に落ち着かせるように手を持ってくる。


(……やけに楽に侵入できたな。もうちょっと苦戦するものかと思っていたけど……。いや、どちらかと言うと、ゴールが目の前にあったような感覚と言った方が正しいかなー?。それに、まだある気がするんだよなー。別なのか何なのか分からないけど、これは何となく、知っている気がする。ただ見た事が無いだけで、聞いた事がある気がするんだよな)

「……今更何の用で来たんだ?」


グラウスが傷口を抑えながら言った。その声を聞いたマギサは、いつもの表情を張り付けて振り返る。


「あら、グラウス。随分この子に苦戦してたじゃないの。珍しいことで」

「……そんなことはどうでもいいだろう。何の用で来たのか聞いているんだ」

「まあ、何の用かって言われれば、そこで寝てる奴に用があってね」


マギサは気絶している佐藤を指さして言った。そのまま彼に近づくと、首を掴んで強引に持ち上げてから、抱き寄せる様にして自分の体に彼の体を寄せた。


「……?思ったより傷が浅いな。これなら案外楽に片付きそうだなっと」


マギサは服の中から、小さな緑色の水晶のような球を取って、それを手で強引に握り潰した。するとその位置を中心にして、彼女らの周りに緑色の光のドームが形成された。暫くすると、佐藤の体に合った傷が癒え始めた。


「ほーれ、この寝坊助、さっさと起きろー?」


マギサは佐藤の頬を何度か軽く叩いた。やがて佐藤は大きな咳と共にうっすらと目を開け始めた。


「ゲホッ……ゲホッ……マ……ギサさん?」

「お、起きた起きた。あのさ、唐突で悪いんだけど、これ読める?」


と言って、彼女は佐藤の目の前に、ページを開けた状態で本を差し出した。


「え……?えっと……」


間抜けた返事と、寝起きの様なぼやけた目を擦りながら、佐藤は困惑しながらも言われるがままに、自分の目に映った情報を口に出していく。


「――――――――」


マギサは、佐藤の朗読については、何も理解していなかった。出来なかった。彼の口から発せられた言葉は、で構成されていた。しかし彼女は、まるでそれが求めていた物だと言わんばかりに、自身の回答を確認する様に、首を縦に振りながら、彼の朗読を静かに、そして嬉しそうに聞いていた。


一ページほど読み終わった所で、マギサは佐藤の前に手を差し出して、その朗読を止めさせた。


「ああ――とても良かったよ。ありがとう。後はゆっくり休んでて。これで君の『価値』も証明できたことだし」


そう言って、マギサは佐藤の目を上から下へと手のひらでなぞった。それだけで、満足げな彼女の表情を残して、佐藤の意識は再び闇へと沈んだ。


「おい、マギサ。どういう事かちゃんと説明しろ。その本は何だ?それに価値だと?その男に、何の価値があると言うんだ?」

「ああ、これ?君なら知ってるんじゃないの?この本」


と言って、マギサはグラウスの前で本をちらつかせた。グラウスの目が大きく見開く。


「……『書き換え』か?まさかとは思うが」

「そのまさか、だよ。彼にはこれが読めるんだ。私たちが何十年かかっても読むことの叶わなかったこの本を、彼は読むことが出来るのさ。話す言葉だけじゃなくて、文字も何でも読めちゃうんだよね、彼。その事を知った瞬間から、この計画を考えていたよ」

「なるほど、理解した。……所で、その本。本来なら禁書庫にあるはずだが」

「勿論くすねてきたよ。君がサトウ君達と戦っている時にね。君の魔力感知能力に関しては、ずば抜けて優秀だからね。君がいたんじゃ、盗める物も盗めない。流石に、王様お付きの兵士なだけあるよ」

「お前、もしかしてその事も考えに入れてサトウにあれを渡したのか?」

「いやいや」マギサは苦笑する。「そんな訳無いじゃない。流石に買いかぶり過ぎだって。サトウ君に関しては、一応程度で渡しただけだから。まさか君に勝っちゃうとはね」

「そうか……。いずれにせよ、これだけは言えるな」

「何?」

「お前は食えん奴だよ」


グラウスは思いっきり不快感を顕わにした顔で言った。


「どういたしまして。ほれグラウス。君にもあげるよ」


と言って、マギサはグラウスに向かって先程よりも少し大きめの緑色の球を投げた。グラウスがそれを乱暴な手つきで掴んだ。


「……一応、感謝しておく」


と言って、その球を握り潰した。先と同じように、緑色の光のドームがグラウスを包み、数分と経たずに彼にあった傷はすっかりと癒えてしまった。


「思うに、精神そのものなんじゃないかな」


唐突に口を開いたのは、マギサだった。


「何の話だ」

「あの黒い何かだよ」

「精神そのもの?」

「うん。なんかさっき、禁呪使ったらやたら入りやすかったんだよね。まるでむき出しになってるみたいにさ。勿論、本人が望んでやってるわけじゃないんだろうけど……いや。違うか、そうじゃないのかも。ねえ、グラウス」

「何だ」


マギサもグラウスも、お互いを見ることは無かった。


「人は怒ると、どうなるんだろうね?」


マギサが言う。面白そうに、可笑しそうに。


「……何が言いたい?」

「さあね?いずれにせよ、私が言えることはこれから面白くなりそうって事くらいかな――ところでグラウス、君に頼みがあるんだけど」

「断る」

「王の命令だよ」

「なら言え」


グラウスの即答に、マギサは苦笑する。そのまま、背中を向けるグラウスに向かって話し続けた。


「――ってことで、よろしく。ああ、ちなみに後で賢者会議でまとめて報告するから、質問は無しでお願いするよ」


賢者会議、と言う単語を聞いた瞬間、グラウスの顔は露骨に不快そうなものへと変わる。


「……まあ、いいだろう。全くもって納得いってないが。正直、この戦いに意味があったのか、甚だ疑問でしかない」

「冗談言わないでよ、グラウス。意味のある戦いなんてある訳無いじゃない。全部虚しいだけさ」


その言葉は、何かを突然切り裂いたようだった。


「お前にとってはそうなのかもしれないな。だが私にとっては違う」


気にも留めずに、グラウスが返す。


「そうかい。全くもって、羨ましい限りだよ」


マギサが言った。何処か遠い所を見ていた。


遠くの地平線は、薄らに赤みがかっていた。ひんやりとした風が、寝ている佐藤のそばを吹き抜けた。


夜明けが、彼らに囁いていた。

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