第25話

全身を黒で染め上げた獣は、静かに佐藤を見ていた。佐藤もまた、元の彼女の顔から判断できるその獣の目を引き攣った顔で見ていた。


「あ、ああ――あの時の」


回想、というより走馬灯に近かったかもしれない。目の前の黒い獣が火を操る女の全身を串刺しにした光景が、佐藤の中で強烈にフラッシュバックした。


「皆さん!逃げ――


佐藤がそう叫ぼうとした時だった。獣はすでに、佐藤の目の前にいた。その後ろで、フェルムとグラウスは壁に叩きつけられていた。


「なっ……」


事の顛末に動けずにいる佐藤を、黒い獣は強引に地面に押し倒した。その様子はまるで人間にじゃれつく肉食獣のようであった。黒い獣は佐藤の上を取ったまま、彼の肩口をじっと見つめていた。


(敵意を感じない……?確か前の時は、俺を恐れていたような……いったい彼女に、何が起きているんだ……?)


分からないことだらけだった。しかしそれでも、以前の状況から照らし合わせて、彼女を元に戻せるのは自分だけかもしれないと、そう思った佐藤は何とか口を開く。


「……シルワさん!しっかりしてください!目を――


その時だった。黒い獣は、どこからともなく出した触手を、開いた佐藤の口の中に強引に突っ込んだ。


「んぐっ――!?」


触手の予想外の行動に、佐藤は慌てて左手でそれを引き抜こうとした。しかし触手の力は凄まじく、体内に侵入した異物を全力で排除しようとする胃の動きに逆らって、触手はさらに奥へと侵入していった。


(い……きが……)


食道をぴったりと埋めた触手は、佐藤の呼吸を妨害するのには充分だった。体が酸素をひっきりなしに求めていたが、彼がそれに答えることはできなかった。


やがて、佐藤の意識は失われ始めた。触手を掴んでいた左手は、だらりと垂れた。


(い……しき……がッ!?)


落ちる寸前、彼の意識を再び呼び起こしたのは、痛覚だった。その状態から更に力を込めた触手が、佐藤の食道を突き破った。


佐藤の右半身を、何が侵食していった。予防接種の時に感じる、あの異物感。一瞬だけ覚醒した意識で、彼はそれを味わった。


その異物感が肩まで達すると、佐藤の肩口に巻かれた包帯を突き破って、細い触手が無数に飛び出した。飛び出した触手は、佐藤の肩口から先を編み始めた。触手は皮膚の様に――あるいは血管の様に――あるいは筋繊維の様に、彼の腕を形作っていった。やがて五分もしないうちに、彼の肩口から先は、黒い腕に置き換わっていた。しかしその色も、腕についた墨汁が落ちていくように、段々と人間らしい腕の色に戻り始めた。


「驚愕だな」


地面に倒れていたグラウスが起き上がりながら言った。黒い獣は満足したのか、すでに気絶した佐藤の体内から、ずるずると触手を引き抜いていた。触手をすべて引き抜き終わると、彼への興味を失った獣がグラウスの方を見た。


「やはりというべきか、シルワといったな。お前だったか、黒い獣というのは。あの女の口ぶりからしてそうである可能性を疑っていたが、なにぶん、確証がなかったのでな」


グラウスの言葉を獣は聞いていた。理解しているようには見えなかったが、グラウスは続けた。


「まあ、その事はあまり重要ではないな。私が興味があったのは黒い獣だけで、その正体についてはどうでもいいと思っている。ただ――


グラウスは獣から目線を外し、その後ろにいる佐藤に目を向けた。


「サトウは、お前との約束を守ろうとしていたぞ。無事ではないが、それでも、国を亡ぼす力を持つと謳われる賢者を倒した。強い男だ。強い意志を持った男だ」


グラウスは、目線を黒い獣に戻した。


「お前は、この男を信じてやれなかったのか?あの時この男と交わした約束は――お前にとって信用に足るものではなかったのか?だからここへ来たのか?心配する気持ちも、焦る気持ちも理解できるが――サトウとお前の立場が逆なら、彼は待っただろうな。どんなにそれが苦しいことでも、お前を信じて。それが出来なかったのは、お前の弱さだ」


グラウスは、鼻で笑った。黒い獣ではなく、自分自身を。


「いや――人間という生き物は、実に不思議だ。自分で自分のことが一番理解できないのだからな。……そうか、そういうことか。ようやく理解できた」


グラウスは、数秒目を閉じた。それがどれだけの隙を生むことになるのかについては理解していた。しかしそれでも、彼は目を閉じた。その顔は一種の気恥ずかしさを含んでいたような、そんな微妙な顔だった。


その隙を獣は見逃さなかった。すかさずグラウスに飛び掛かり、長く鋭い爪を彼に振りかざす。


「お前は言ったな。そんなことは覚えていないと、なら――


その獣を、グラウスは握りしめた拳を振って獣を地面に叩きつけた。派手な音と共に、黒い肉塊が叩き付けられた床が大きくひび割れる。


「思い出してもらおうか、彼女を――イグを傷つけたことを」


静かに血を滾らせた男がそう言った。



黒い獣が勢いよく後ろに飛んで、グラウスと距離を取った。獣は低く構え、彼の方に顔を向けた。その姿は敵の様子を伺う狼のようであった。獣は後ろ足で地面を引っ掻いてから、一気に加速した。数歩で目では追えない程に加速した獣は、グラウスを翻弄するように壁を蹴って空間を縦横無尽に飛び回った。時々直角に曲がるようにしてグラウスに飛び掛かり長い爪を振り下ろしていたが、グラウスは空中に浮いた剣でその攻撃をすべて弾いていた。弾くたびに金属と金属がぶつかり合うような甲高い音が鳴っていた。その音に共鳴するようにして、獣の黒い影の速度は徐々に増していった。


やがて、グラウスの頬を何かが掠めた。軽い痛みと共に、グラウスの頬に一つの線分か彫られた。彼は撫でるようにその傷口に触れた。


「チッ……。仕方ない」


再び空中を舞うようにして飛び回っている黒い獣を眺めながら、グラウスが言った。彼は空中に向かって手を伸ばし――何かを握りつぶす様に手を閉じた。その後に黒い獣の動きが空中で止まり、重力に引っ張られて地面に落ちた。動かなくなった黒い獣の全身は、いくつかの淡く虹色に光る剣に貫かれていた。


「悪いな、サトウ。これも仕事の内だ」


グラウスがため息を零した。そのままその場を立ち去ろうと、振り返って歩き出した。


「……?」


その途中で、グラウスが足を止めた。彼が足を止めたのは一つの音を聞いたからだ。その音は咀嚼音だった。骨を砕くような、何か硬い物を強引に嚙み砕いている音だった。グラウスがその方をゆっくりと振り返った。


「……は?」


グラウスの眼下では、黒い獣が自分の体に刺さっている剣を触手で引き抜いて、それを。さながら、獲物の骨を砕き食べる鬣犬の様に。剣が引き抜かれた部分からは黒い石油の様な液体がぼたぼたと流れ落ちていて、剣の残骸を黒く染めていた。


「いや、待て。そんなバカな話があってたまるか。その剣は祝福で作ったものだぞ……。力や魔法で強引に折るどころか、傷一つ付かない筈だ。それがルールなんだ。硬さや強さとか、そういった次元の話ではない……なんなんだお前は、何者なんだ……?」


グラウスの問いに答える様に、獣は牙を覗かせた。敵から獲物へと、彼の存在が変わった瞬間だった。瞬時に獣の体は跳ね、グラウスに向かって飛んだ。彼が慌てて剣を出し、握ってそれを振る――金属が激しくぶつかり合う音が鳴った。獣はその斬撃を牙で白刃取りの様に受け止め、そのまま剣を嚙み砕いた。


ぐるりと、獣が空中で体を一回転させた。そのまま回転の勢いを乗せ、長い爪を振り下ろす。その一撃は彼の上半身の一部を抉り取った。


返り血を浴びた獣は、彼の体を蹴って距離を取った。いつの間にか空中から獣に向かって飛んだ刃が、獣の鼻先を掠めた。着地した獣はその足で地面を蹴って前に向かって加速する。


「化け……物め……!」


グラウスが手を振り下ろす。それに呼応するように、天井を消失させながら、無数の光の柱が降り注いだ。しかし、黒い獣は天から降り注ぐ無数の光の柱をすべて躱した。


「な……」


獣はそのまま加速し続けた。光の雨を躱し、飛んでくる剣を弾き、最後にグラウスが放った拳を足場にし、その体を貫かんと爪を前に突き出す――しかし、獣が彼の体を貫くことは無かった。彼の体の直前で、獣は動きを止めた。否、そうではなかった。獣の体は受け止められたのだ――三角帽子と、ぶかぶかのローブを着た、背の低い女の細い指一つによって。


「やあ、シルワ。久しぶり――それとも、初めましての方が正しいのかな?」


背の低い女――マギサは、開いた方の手を振って、まるで親しい友人と話すかのように言った。

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