第13話

「はー、手が痛い」


女が血で濡れた手を力なく下ろしながら言った。

女の足元には、全身から血を流し、体の至る所に痣や傷を作り、辛うじて呼吸をするだけの肉塊と化した佐藤が転がっていた。


いつの間にか、辺りには雨が降っていた。

その雨は、霧を払って、火を消し、血を洗い、まるで戦いの終焉を告げているようであった。暫く雨に打たれながら、女は佐藤を何となく見ていた。


「……ま、仕方ないかー」


女が自分を納得させるように呟き、佐藤を運ぶために、一歩を踏み出そうとした。

その時、どん――と、女よりもかなり背の高い、金髪の女――シルワが女の背中にぶつかった。シルワは女とぶつかった事を意にも介さず、そのまま肉塊へ向かって走り出した。


「――サトウ君!」


と、彼の名前を呼び上げながら、シルワはそれを抱き上げた。力なく垂れる頭を支え、彼の胸に耳をやり、生きている証を確かめる。弱々しく、気を付けなければ雨の音にかき消されてしまいそうなほど小さいその音は、彼女の心を内側から満たしていった。

良かった――と、シルワの口から素直な感想が出た。何の捻りも、語彙も無かったが、彼女の精一杯の一言だった。彼女はそのまま、佐藤の胸に手を当てた。暫くすると、その手が淡く輝きだし――彼の体にあった無数の傷が、ほんの少しだけ塞がった。


「ごめんね、私の魔法技術じゃ、気休めにしかならないだろうけど」


それを言うと、目覚めることが無いと分かっていた佐藤の体を、シルワは慎重に下ろした。


「あなたが……やったの?」


女に背を向けたまま、震える声でシルワが聞いた。


「そうだよー」


悪びれもせず、女が公用語で返した。

その声に、自分の内側から得体のしれない何かが這い上がろうとしていた。喉の少し下が、焼けるように熱くなっていた。


「何で……こんなひどい事を……!?サトウ君があなたに何かしたって言うの!?」


その熱さを吐き出すように彼女は言った。しかし少しもその熱が引くことは無く、寧ろゆっくりと、その熱は胸のあたりまで広がっていった。

女はすました顔を少しも変えず言う。


「いいやー?何もしちゃいないよー?」

「だったら何で!」


女に背を向けたまま、シルワは強く叫んだ。いつの間にか強く握りしめていた拳からは、血が流れていた。


「何でって、転生者は死刑なんだよー?当然じゃん」

「死……刑って……何?」


彼女は死刑という言葉を知らなかった。しかし、『死』という不穏な言葉が、彼女の心を卑しく撫でた。嫌な予感――というよりは、嫌な確信だった。


「何だ、知らないのー?簡単に言ったら、国でこいつを殺そうって話。別に良し悪しとかじゃなくて、皆が怖がっちゃうから殺そうってだけー」

「……」


シルワはその言葉を聞いて、ゆっくりと振り返った。赤く、血で染まったような眼で、女を真っ直ぐ見た。


「あなたが、何を言っているのかは分からない。だけど――絶対に許さない」


一瞬の沈黙と、瞬きがあった。今だ収まる気配を見せない雨は、彼女の涙を洗い流していた。しかし――彼女の心を、決して洗い流してくれることは無かった。


彼女は、委ねた。自身に沸き立つ感情いかりに。心に身を委ね、それの赴くままに――四肢を動かそうとした。

その時、何かが彼女の心を塗り替えた。どす黒い何か。深淵のような何か。それはそのまま彼女の内側から溢れ出し――彼女の全てを支配した。

次に彼女が目を開けたとき――その目は、真っ黒に塗り潰されていた。瞳孔も角膜も結膜も全て、黒いペンで塗った様だった。そこから、火傷痕のような黒い痣が、徐々に目元から広がっていった。

そのまま、ゆっくりと彼女は姿勢を低くした。腰を下げて、地面に手を付き、四足歩行になり――いつの間にか、目元だけだった黒い痣も、全身に広がり彼女を包んでいた。彼女の体を包んだ黒い痣は、鋭い爪や棘の様な毛を作り――気が付けば、黒い獣がそこに居た。


女は好奇心の目でそれを見ていた。彼女の身体の変化が終わるのを待ってから言う。


「まあまあ、随分な変わりようでー。一体何が――


その時女の腕の肌を、一瞬の風が通り抜けた。氷の刃の様な、冷たい風。

次の瞬間――女の腕の肌に、三つの赤い線が描かれた。


「……へえ」


そこから大量に流れる血を意にも介さず、女は好奇心の目を変えないまま、薄っすらと笑って言った。黒い獣の姿はすでにそこに無く――女が振り返ると、爪先を血で染めた黒い獣がそこに居た。

突然――女の筋肉が一気に膨れ上がった。彼女が身体強化の魔術を発動させたからである。


「……いやー。こりゃ、相当危険なケモノ――いや」


いつの間にか、女に降り注ぐはずの雨や、腕から流れるはずの血は、煙へと姿を変えていた。少し離れた所に出来た水溜りは、雨で水を補充しながら蒸発していた。

女の体が、火で包まれた。熱の傘に守られた領域の空気は熱で揺らぎ、足が触れている地面は、赤い液体に変わろうとしていた。女は立ったまま、少しだけ姿勢を低くして構えた。


「バケモノ……なーんてね」


――獣の姿が消えた。

次にあったのは、敵に向かって拳を突き出す獣と、眉間にしわを寄せ、余裕のない表情で受け止める女の姿だった。少し遅れて、獣がいたはずの地面が大きな音を立て破壊され、辺りに低く、鈍い轟音が響いた。


「くっ……そ、こんの馬鹿力めー……」

「……」

「だけどいいのかなー?私に触って。腕が焼け落ちちゃうよー」


そう言った直後、彼女を中心にして、半径五メートル程の火柱が勢いよく立ち昇った。火柱の中は一気に数千度に過熱され、一呼吸だけで死へ至る地獄へと化した。

もし相手が普通の人間なら、腕どころか全身が焼け落ちるところであったが――目の前の獣の腕は、焼け落ちるどころか、一切の変化を見せず、黒いままだった。

全てが溶けていく世界で、彼女らだけが形を保っていた。


「……冗談きついってのー。少しは効いてくれないと困るんだけどー」


余裕のない表情ではあったが、それでもおどけた調子で女が言った――直後、女の脳天に鈍い衝撃が走った。獣が女の頭を蹴り飛ばしたのだが――彼女にはその一切を知覚できなかった。頭から火柱の壁を突き破り、そのまま近くにあった民家に頭から衝突した。瓦礫が崩れ去る音と共に、砂埃が舞った。

黒い獣は、真っ直ぐ砂埃を見ながら、それが晴れるのを待った。雨が降っていたため、長い時間を要することなく砂埃は晴れた。

一瞬の間を置いて、瓦礫が爆発とともに吹き飛んだ。爆発の中心には、おぼつかない足取りで、力なく女が立っていた。頭から血を流していたが、やがてすぐにそれも蒸発した。


「やるねー。全く見えなかったよ」


息を切らしながら、女が言った。


(……あいつさては、さっきあの転生者を回復させたときに、全魔力使い果たしやがったなー……おかげで魔力の流れで動きが読めないなー……こうなったら)


女は力を抜くように息を吐いた。すると、彼女の体を覆うように発生していた炎や熱の傘が一気に消失し、雨や血が彼女の体を濡らした。

女は息を吸って、全身に力を込める――女の体が、さらに歪に膨れ上がった。


(……やっべ、意識が飛びそー。流石に全魔力身体強化に回すのはやり過ぎたかー……?)


女の体には、いくつもの血管が浮かび上がり、膨れ上がった筋肉はいつの間にか彼女の身長を二メートル超すほどに押し上げていた。

黒い獣は、自分よりも数倍大きい獲物に全く恐れず飛び掛かり――獣の拳と、女の拳が、激しく打ち合った。

女は叫びと共に、拳を振りぬく。

獣は投げられた犬のように吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。壁で跳ねた獣は、空中でバランスを整えて地面へ着地した。女と打ち合ったその腕は、関節や指があらぬ方向に曲がりひしゃげていた。


「……」

「……悪いねー。あんまり君の事気にかける余裕がなくてさー。ま、誉め言葉とでも受け取っておいてー。どうせこいつをかばった時点で君も死罪同然だしー」


獣は、二本足で立ってひしゃげた腕を眺めた。

ぺきり――と、プラスチックが割れたような音が無数に辺りに響いた。あらぬ方向に曲がっていた関節や指は、時間を巻き戻したかのように、元ある位置に戻り始め――さほど時間もかからず、その腕は元の獲物を狩るための腕に戻った。


「おいおい――冗談きついなー」


頭から冷や汗のようなものを流しながら、それでも女は構えた。

――この状態の活動限界はおおよそ三分。それまでに決着を付ける。

女がそう、決心をした瞬間だった。

痛覚――全身を撃ち抜かれたような痛みが、女に襲い掛かった。

降り注ぐ雨に混じって、一滴の血が地面に零れた。それに続く形で、ぽたぽたと、血の雨が降り注いだ。


「うそ……だろ」


女が苦痛に耐えながら言った。

その赤い水滴は、女の腹を貫く黒い針のような触手の先から発生していた。その触手は一つだけではなく――無数の触手が地面から飛び出し、女の体をすべての触手が等しく貫いていた。


意識が途切れた女の頭が、だらりと垂れた。中途半端に開いた口からは少しだけ捻られた蛇口のように赤い液体が線を引いていた。再び二足歩行に戻った獣は、何処からともなく現れた触手を、女の心臓の位置当てた。

そのまま力を込め、心臓を突き刺す――


その時だった。その触手を、別の手が掴んだ。掴んだというよりは、乗っけたと言った方が正しかった。全身から血を流し、傷だらけで、もはや立っているのが不思議だと言える程の男がそこには居た。

何てことは無い、ただ乗せられただけの手。しかし、まるで万力にでも掛けられていたかのように、その触手は奇妙に震えていた。


「ダメです――それ以上は……ダメだ」


弱々しく、今にも死んでしまいそうな声だったが――赤く、決意の血で塗られた目で、黒い獣を真っ直ぐ睨みながら、男が――佐藤がそう言った。


佐藤が一歩、黒い獣に近づいた。佐藤にとって、それだけで死力を尽くす思いであったが――それでも何とか、獣の元へたどり着いた。

獣はまるで天敵とでも出会ったかのように、震えて縮こまっていた。


ごめんなさい――と、虐待を受けた子どものように、その言葉を繰り返しながら、頭を抱え込んで彼女は座っていた。

佐藤は、座り込む彼女の上から、赤子を扱うかのように優しく抱きしめた。


「大丈夫……大丈夫だから……」


佐藤はまるで、自分に言い聞かせるように、そう言った。

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