第11話

宿の扉を、佐藤はゆっくりと開けた。真上に昇った太陽が、佐藤の顔を照らした。それと呼応するように、ずっしりと重たい熱気が、佐藤の体を包み込んだ。

暑い。と、佐藤は素直な感想を漏らした。シルワと森で過ごした時も、この国に来る前も来た後も、ここまでの物では無かった。一瞬の躊躇いがありながらも、それでも佐藤は次の一歩を踏み出した。そうするより他に無かった。

暑さのせいか、先程まで対向者に気を使うくらいには混雑していた往来は、今は人が減ってすっきりしていた。その道を佐藤は、なるべく速く大股で歩いた。これまでの事や、これからの事を考える余裕もなく、ただ顔を伏せ、自分の足元だけを見て歩いた。時折自分とすれ違う人影に気を付けながら、そのまま門を目指して道を進み、角を二、三度曲がる。特に迷うことなく、後はこの角を曲がって真っ直ぐ進むだけ、という所まで来た。初めての道であったが、緊張と焦りの最高潮の中、背後まで迫っている死の影が、彼の集中力を極限まで高めていた。

佐藤は、その角を曲がった。そこでようやく、伏せていた顔を緊張の面持ちで上げた。少し遠くに、自分たちが入ってきた大きな門が見えた。後はそこを目指して歩くだけ――しかし、彼の体は、ある一つの事実に縛られ、次の一歩を踏み出せないでいた。


何故なら、遠くの門まで続く真っ直ぐ大きな一本道には、街が脱皮したかのように、誰一人いなかったからである。


先程まで、顔を伏せていた時も、直接見たわけではないが、それでも人の気配はしていた。何度か自分の横をすれ違う人も――


(違う……いなかった。俺と同じ道を目指して歩く人も、十字路で俺の目の前を横切る人も、いなかった。全員が全員、何かから逃げるように――あるいは、俺が流れに逆らっていたかのように……)


迷っている余裕は無かった。

佐藤は全力で回れ右をして、元来た道を引き返そうとする。夜道のような静けさのこの道から、一刻も早く逃げ出したかった。

その時だった。


佐藤の背後で、爆発が起こった。凄まじい轟音と閃光が、佐藤の背中を突き飛ばした。そのまま佐藤は、前のめりで地面に叩きつけられた。全身を均等にバッドで殴られたような痛みに耐え、反射的に振り返った。

佐藤を見下す様にまっすぐ伸びた黒煙の向こうから、すらりと細長い、白いシンプルな服を着た女が悠然と歩いてきた。肩の少し上で切り揃えた赤髪が、背後の爆発から発生した風に揺られていた。


「まさか本当に転生者が来てるとはねー。人払いが効かないってのは聞いたことがあったから試しに使ってみたけど、正直ここまで効果的だとは思ってなかったよー」


自信に満ちたような目で、地面に倒れた佐藤を女が見下しながら言った。


(クソ……最悪の展開だ……)


全身の痛みと、落ち着かない呼吸の中、佐藤は半ば強引に立ち上がった。彼女の口から、聞き慣れない単語がいくつか飛び出したが、それについて事細かに考える余裕は無かった。


「これも聞いた話なんだけどさー、転生者って強い能力を持ってるって聞いたんだよねー」


胸に手を当てて、呼吸を落ち着かせようとする佐藤を尻目に、女は右手を伸ばし、手のひらから上に三メートルほど伸びた炎を発生させ続ける。


「だから、精々私を楽しませられるように頑張ってー」


と言って、女がその炎をボールのように投げた。空中に放り出された炎は、拡散することなく、真っ直ぐ佐藤に向かって飛んだ。身を翻して、佐藤はそれを躱す。そのまま炎は勢いを失うことなく飛んでいき、やがて建物の壁に衝突し――先程、佐藤を襲った爆発より数段激しい爆音と閃光が発生した。

佐藤の視界を白色に塗りつぶすほど激しい閃光と、鼓膜が揺れている事がはっきり伝わるほど轟く爆音に、彼の視力と聴力が一時的に完全に消えた。


「あらら、衝撃で目が潰れちゃったかなー?」


女が佐藤の前まで近づいて言ったが、その声は佐藤には届いていなかった。そのまま、女は佐藤の鳩尾をつま先で蹴り上げた。彼の下腹部に、鋭い痛みが走った。短く息を吐いて、腹を抱えて地面に倒れこむ。苦痛に顔を歪ませながら、呼吸を荒くし、必死に空気を取り込む。

今だ霞む視界で、女を見上げた。目の前の女は退屈した顔で佐藤を見下ろしていた。


「手加減してあげてるんだからさー、もうちょっと本気出してよー」

(知ら……ねえよ!)


佐藤は地面に僅かに存在していた砂石を強引に掴み取り、立ち上がりながら女に投げつけた。女は油断していたのか、反応が遅れた。砂石が顔に命中し、短く声を上げ、顔を仰け反らせる。

佐藤は目の前の女には目もくれず、一目散に逃げだした。大通りから建物の裏の狭い路地に入り、壁に凭れ、腕で忙しなく額から流れる汗を拭った。


(ちくしょう……遅かったか……それに、熱の発生源はあいつか……)


緊張や走りによるものもあったが、何より先程から女から中心に発生しているサウナを思わせるような熱気が、一番佐藤の額から汗を流れさせていた。

肺が焼けるんじゃないかと思うほど空気が熱かったが、それでも無慈悲に体は酸素を欲していた。早くなる呼吸を無理矢理落ち着け、ゆっくりと、大きく酸素を取り込む。


(……このまま、隠れながら逃げ――


その瞬間、佐藤のすぐ傍を巨大な火柱が突き抜けた。凄まじい熱気が佐藤を襲う。反射的に腕を顔の前にやってその熱気から顔を守ろうとするが、発生した火の光は腕を貫き、肌が出ていた部分に刺すような鋭い痛みが走り、一瞬でその部分は赤色に染まった。


「ぐ……あ……」

「逃げるなよー。ったく、せこい手使いやがって」


円形にくり貫かれた石壁の淵は、赤い液体となっていた。地面に垂れた赤い液体が、生肉が焼けるような音を発生させていた。その穴の向こうに、呆れた顔で女が立っていた。


「しかしさー、さっきから戦う気ゼロで逃げてるけど、もしかして何の力も持ってないのかなー?」

「……だったら……何なんですか」

「別にー。久々に正式に戦闘が出来るかもって楽しみにしてたのに、その相手は逃げ一手でつまらないからさー」


女は佐藤に聞こえる様に、わざと大きくため息を吐いた。


「ま、何の能力も無いならそれも仕方ないかー。精々頑張って逃げてみよー」


佐藤のすぐ傍で、さらに何度か爆発が起こった。



*   *   *



シルワは、目を覚ました。ゆっくりと体を起こしてから、欠伸と伸びをした。右手で自分の髪に手をやって寝ぐせの確認をしながら、空いた方の手で背中を軽く掻いた。


「サトウ君~?」


彼がいない事を怪訝に思い、名前を呼ぶが、返事は帰ってこなかった。机の上に無造作に置いてあった鍵と、その鍵を重しにして、下に敷いてある折られた紙をシルワは見つけた。

今だ痛む足を気にしつつ、立ち上がってその紙を拾った。紙を広げて中を見る。中には公用語で、数文の文字が書かれてあった。


(サトウ君……かな?公用語で書かれてるけど、私文章レベルは読めないんだよね……)


彼女は簡単な単語なら知っているし、その文章が公用語で書かれてあるかどうかは理解できたが、文章となると話は別だった。読むのを諦めた彼女は、そのまま紙を折りたたんで、元の場所に戻した。

暫くどうしようかと考えたが、考えるのがあまり得意でない彼女は、結局ここであれこれ考えるよりも、行動したほうが早いという結論にたどり着いた。その結論にたどり着くまでに、三十秒とかからなかった。

部屋を出て、周りの迷惑もお構いなしに、佐藤の名前を呼びながら、片っ端から扉を開けた。彼女にはおおよそ常識というものは欠如していたため、それがどれだけの迷惑行為だったか理解していなかったし、同じように自分たちの他に泊まりに来ている人がいる可能性を、全く考慮していなかった。


だから彼女は、ほかの部屋に一切の人がいなかった事実を、全く不思議に思わなかった。


二階の部屋を全部開け終わって、彼女は一階に下りてその作業を継続した。一階は単純な構造で、扉も少なかったため、そこまで時間はかからなかった。そしてやはり――誰一人いなかった。

確かに、彼女は誰もいない事を不思議に思わなかった――ただ、誰かはいると、思っていた。佐藤だって、その他の人達だって、楽観的に、この宿のどこかに居るんだ――と。


だが、誰もいなかった。どこを探しても、窓の外を見ても――誰もいなかった。


「何で……誰もいないんだろう……?」


誰もいない。そう思った直後に、どくん――と、シルワの心臓が強く跳ねた音が、乾いた世界に染み渡った。

自分の心臓以外何も聞こえない、極端なほど静かな世界が、彼女の心を何かで満たした――それは恐怖だった。自分の呼吸音が極端に高くなる。嫌な汗が背中を濡らす。何度も息を吸うが、体が上手く酸素を取り込んでくれない。息が苦しい、胸が苦しい。


嫌だ――と、心の中で強く叫んだ。何かから逃げるように、振り払うように、救いを求めて外を出た。変わらない日常を求めて、違う世界を確かめたくて――突き破るようにして、木製のドアを開けた。蝶番が強引に引きちぎられて、石畳の道の上に落ちた。からん――と、冷たい音が鳴った。


やはりそこには、誰もいなかった。


シルワは力なく、だらんと手を下ろし、そのまま地面に膝をついた。


「は、はは――嫌だ……」


心の叫びが、素直に口から出た。脂汗に混じって、涙が頬を流れた。そのままシルワは嫌だと言い続けた。心の声の糸に縛られ、操り人形のように言葉を発し続けた。


「だったら」


声がした。若い女の声だ。誰もいない筈の世界で、声がした。

何分経ったか、シルワには分からなかった。

見上げると、そこには紫色の三角帽子を被った女が立っていた。


「それが嫌なら、自分で掴み取るしかないだろ」

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