第5話
人間は慣れる生き物である。
今まで佐藤はこの言葉を疑っていた。確かに大抵の環境では人間は慣れる生き物と言えるのかもしれないが――それでも、限度というものはある。限界というものはある。それは例外として処理すべきものではあるのかもしれないが、理系人間の佐藤にとって例外という言葉は、あまり好きではない言葉だった。完璧な理論や数式に例外が加わるだけで、綺麗な湖に鳥のフンが落ちたような、そんな気分になってしまう。最も、彼のこの考え方は少なからず自身の経験から来るところがあるのだが――兎にも角にも、今までの佐藤は、人間には慣れない物もあると、そう思っていた。
変化は突然――だが、実際にはその予兆があったのだろう。彼女に世話になってから、一週間がたつ頃、佐藤は彼女の作る料理に慣れてしまった。別に美味しく感じるようになったとかそういうわけではない。ただ、慣れてしまったのである。人間なら誰しもがあるであろう、『食べようと思えば食べられるけど、積極的には食べたくない物』のポジションに、彼女の料理はいつの間にか鎮座していた。
最初は彼女を傷つけないように、どうにか彼女に料理の腕を向上させようと考えていたのだが、一度美味しいと言ってしまった手前、それは難しかった。それに彼女は異様に起きるのが早く、佐藤がどう頑張っても、起きるころには彼女は今日の食事の手配を終わらせていて、いつもテーブルの上に空の食器が用意されているだけであった。
(人間ってすごいな)
そんな事を思いながら、シルワより後に起きた佐藤は、真顔で目の前に用意された食事に手を付けていた。彼女はこの時間には既に狩りに出かけていて、彼一人であった。
食事を終えて、使った食器を軽く水洗いしてから、佐藤は元あった場所に食器を片付ける。彼女の家には、雨水を貯める仕掛けが施されていて、水が使えた。他にもちゃんと火が使えたりもして、(燃えたら一巻の終わりではあるが)彼女の家は意外と文明的であった。特にすることも無い佐藤は、食事の時に座っていた椅子に座りなおして、外していた時計を再び付け直した。
(シルワさんの所にお世話になって一週間か)
腕時計の液晶画面を見て、佐藤はため息をついた。この一週間、全くと言っていいほど進展が無かった。最も、彼女が普段からお世話になっているという商人を待つ以外の選択肢が、彼らに取れるはずもないのだが、それでもやはり、何も前に進むことが出来ず足踏みをしている現状は、むしろ自分たちが後退しているんじゃないかとさえ思えてくる。下りのエスカレーターを昇っているような、そんな無意味さを感じる。
(魔法も結局使習得できなかったし)
魔法の存在を知ってから、佐藤は何度か魔法の習得に挑戦してみたが――結果は虚しいものとなった。習得に当たっては、シルワが彼の教師を務めたのだが、彼女曰く、『何が原因か分からない』とのことであった。
(どうしたもんかね……ま、どうしようも無いんだけど)
佐藤は自分で自分にツッコミを入れた。何もしていない訳じゃないと良い訳をするように、家の清掃を始めたが、昨日も同じ理由で掃除を行ったため、一時間と経たずに終わってしまった。
本当にすることが無くなってしまった佐藤は、少々申し訳ないとは思いつつも、ツリーハウスの梯子を下りて近くの土に座って、木の枝で数式を書き始めた。
彼が行っていたのは数学や物理の計算だった。頭の中で即興の問題を作り、それを解いていた。簡単な高校数学や物理の問題から、果ては彼が今が大学で学んでいた分野など、思いつく限りの問題彼は解いていった。
最初は一問解くたびに消していたが、次第にそれも億劫になって、無限の広さとも言える土の紙に、所狭しと彼は数式を書いていった。世界に真理を刻みつけながら、彼は自身の世界に没頭していった。
暫くして、鉄の匂いがした。続けて、自分のすぐ後ろに足音と気配がした。佐藤が振り返ると、背中に動かなくなった鹿を背負って、シルワが物珍し気に立っていた。
「お帰りなさい。今日は大物ですね」
ばつが悪そうに佐藤が言った。
「まあねー、これでしばらくは狩りに出なくて済むよ。サトウ君の方は、何してたの?」
「何て言えばいいのかな……」
佐藤はしばらく考えた。鹿から流れていた血が小さな池を作っていた。
「科学……ですかね」
「科学?」
「俺たちの世界で発達した分野です。この世界で言う魔法的なポジションですかね。魔法が運命を捻じ曲げる力だとするなら――科学は運命を紐解く力……って所ですか」
「ふーん」
と、シルワは返した。佐藤は彼女のその曖昧な返答を聞いて、実際は理解していないことを直感し、佐藤はそのまま言葉を続けた。
「例えば――あの時の人参みたいに、どうして人参が落ちる運命にあるのか。あの人参に突きつけられた運命とは何なのか。それを考えて理解するのが科学って事です。ここに書いてあるのは、その理解のための……魔法陣って言えばいいのかな。ちょっと説明が難しいですけど」
「うーん。私あんまり頭良くないから分からないけど、でも」
少しだけ残念そうな顔をした佐藤に、シルワは続ける。
「綺麗だね、なんか。そうやって数字が丁寧にキチンと並んでて、綺麗っていうか――美しい?」
佐藤の顔が明るくなったのが、誰の目にも分かった。
「珍しいですね。前にもいろんな人が同じようにのぞき込んだりしたんですけど、みんな『よく分からない』とか、『難しい』とか、酷いときは変人だなんて言われましたよ。まあ、仕方のないことですけどね」
と、佐藤は自虐気味に言った。
「そうかな?まあ、難しそうな感じはするけど、でも多分、分かったら――面白いんだろうね」
佐藤はシルワを見上げて、無言の拍手を送った。
「いやあ、凄いっすね。シルワさん、前世はきっと数学者ですよ」
「数学者?」
「ああ、こっちの話です。それよりも――数学の勉強を少ししてみませんか?俺が教えますから」
佐藤は少しだけ勇気を出して言った。シルワは少し考える素振りを見せてから、
「いやいいかな」
と言った。
* * *
「ああ、そうだ、明日――その商人がやってくるから、朝ごはん食べたらすぐ出発するよ」
佐藤の目の前で慣れた手つきで鹿を解体しながら、シルワが言った。佐藤はその様子を珍しげに見ていた。
分かりました。と佐藤は軽く返して、時計をセットし始めた。
「国に行って、何か掴めればいいんですけどね」
「ねえ、国ってどんな所なの?」
鹿を解体する手を止めることなく、彼女が言った。
「どんなところ……」
佐藤は回答に詰まった。やはりこの人の質問は子どもにされる質問な様な難しさがあるなと、彼は思った。
「うーん、一言で言うなら、人が沢山住んでいる所……ですかね」
ほんの少しだけ、期待感を膨らませながら、佐藤が言った。
「人が……沢山……」
鹿の肉を切り裂くナイフの手を止めて、シルワはその光景を想像する。暫くして、子どもが納得いかない時に見せるような顔をした。
「うーん、やっぱよく分かんないや……」
だったら――と、佐藤は誘いの言葉を出そうとして、緊張で喉を詰まらせた。落ち着けと心の中で唱えるが、体の温度が上がるのを抑える事が出来なかった。
「ねえ、サトウ君、私も付いて行っていい?」
と、一人芝居を続けている佐藤の心境などいざ知らず。シルワがそう言った。
「良いですよ」
佐藤はいつもの調子を崩さず、なるべく平静を装って言ったが、視界にはシルワ以外映っていなかった。
「シルワさんがいてくれると、とても心強いです」
この言葉は彼の本心であったが、考えて言ったわけではなかった。声を上擦らせないように必死で、自分が何を言っているのか分かっていなかった。
その瞬間、鹿から飛び出した鮮血が彼の顔を襲った。佐藤が反応する間もなく、彼の顔は赤色に染まった。
あ、とシルワが短く声をあげた。
「ごめんサトウ君!大丈夫!?」
血を顔に掛けられて、佐藤は何だか、こんな事で一喜一憂している自分が馬鹿らしくなってきた。
「大丈夫です。目には入ってないので、下で洗ってきます……」
助かったような余計だったような、そんな複雑な感情で、佐藤は梯子を降りて、風呂の方へ向かった。
風呂は水面に月が昇り、表面からは湯気が出ていて幻想的な光景だったが、佐藤の視界には入っていなかった。
膝を折って正座の形で風呂の近くに座り、手で水を掬って顔についた血を流す。二、三度顔を洗ったところで、水面に自分の顔を反射させて、自分の姿を確かめる。結果から言えば、血が顔に残ったままかは確かめる事が出来なかった。水面には、ぼやけたままで、元の世界の頃とは変わらない、自分の強張った顔が映っていた。
佐藤はため息を吐いた。いくら女性経験に乏しい自分とは言え、ここまで酷いのかと、意味も無く自分を責める。
(大体、仮に彼女とどれだけ仲良くなったところで、結局離れ離れになるだけだろうにさ)
だったらいっそ――
この先は、出てこなかった。
佐藤はまた、ため息交じりに嗤った。
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