第4話
「はい、これで治療終わり」
「……ありがとうございます」
佐藤は包帯が巻かれた情けない自分の右手を見て、ため息をついた。
「ご、ごめんね、私もつい力が入ったというかなんというか……」
「俺の方こそなんかすいませんでした……」
別に佐藤は負けたら負けたで面白いと思っていたが、結果は虚しく、誰も得しないものとなった。
佐藤は彼女の全身をじっくりと見てみた。彼女の腕や足は太いというわけではないが、それでも華奢ではなく、しっかりと鍛え上げられているのだろうなと、彼は何となくそう感じた。
(よく見たら筋肉ついてそうな体だけど、あれは流石にあり得ないと思うんだけどなぁ……)
流石に、筋肉隆々なマッチョがやったのならともかく、そうではない彼女の肉体から放たれた一撃がここまでの威力を発揮するのは、元の世界では考えられない事である。
(これも異世界だからって事なのかね……)
また佐藤はため息をついた。自分が強い人間だと思ったことは無いし、そういう類の強さに憧れたこともないが、男としての下らない矜持が傷ついたように感じた。
(異世界……ねぇ。まだ実感がわかないけど、仮にそうだとして、この世界がどういうものなのか全く理解できていないんだよな……)
彼女の家にあった道具や、着ていた物から推察するに、現代日本程の技術や科学力がある訳ではないことは何となく推察できるが、かといって元の世界で言うどの位の時代の物かもわからないし、そもそも元の世界にも、彼女レベルの暮らしをしている人も恐らくいるだろう。
(やっぱり、国に行ってみるしかないか。とりあえずこの世界の現状を知っておかないと、情報収集もクソも無いよな。なるべくなら科学力が今の人類以上だと助かるんだが……まあ、流石にそのレベルの科学力がある世界で未開の地なんてある訳ないだろうし、この線は薄そうだな)
佐藤は、棚に所狭しと並べられている調理器具を見た。おおよそ彼女が作ったとは考えにくい、綺麗な円柱に形どられた鉄製の鍋が目につく。
(鉄製で、しかもちゃんとしてるんだよな。多分、さっき言ってた商人から貰ったか買った物だろうけど、これを売って生計を立てるレベルの時代の商人……とてもじゃないけど、現代でこれを売って回る商人なんていないよな……普通に考えて、中世とかその辺りの馬引いて各地を回るとか、そういうイメージしか湧かないな……)
(だとすると、どうやって元の世界に帰る?あの科学を超越したクソ神の力――
あ。と、佐藤は短く声をあげた。シルワが反応する。
「どうしたの?」
「シルワさん、この世界に魔法みたいな物ってあります?」
あの神様が科学を超越した何かでこの世界に送ったのだとするなら、この世界も、その超越した何かを使えるのではないかと、そんなことを彼は考えたのだが――
「あるよ」
どうやら正解だったらしく、シルワはあっさり言った。
* * *
「そもそも、魔法って何なんですか?」
「運命を捻じ曲げる力……って教科書には書いてる」
教科書なんだ……と、佐藤は心の中でツッコミを入れた。
「運命を捻じ曲げる力?」
うん。と言ってシルワはおもむろに立ち上がり、台所らしき所の棚から、人参を取り出した。
「例えばここに今日の夕食に使う人参があります」
と言って、シルワは台所から佐藤に振り返った。佐藤は微妙な顔をしていたが、その理由をシルワは知る由も無かった。
彼女は机の上に人参を持っていき、そのまま手を離した。重力に従い、机の上に人参が落ちる。
「当然、空中で手を離せば人参は落ちるわけだけど、人参が落ちるっていう運命を捻じ曲げるとどうなると思う?」
「……どうなるんですか?」
宗教の勧誘を聞いているような佐藤を尻目に、シルワは机の上に投げ出された人参を再び拾った。そのまま人参を先ほどと同じように、空中で離した。人参は重力に従い、机に向かって落ちていき――空中で完全に静止した。
佐藤は目を丸くした。人参の上や下を手で切って、何かの仕掛けが無いことを確かめる。この現象が何の種も仕掛けも無く、本当に魔法らしき力で浮いているのだと、そう納得せざるを得なかった。
佐藤は大袈裟に椅子の背もたれに寄り掛かり、天を仰いだ。
「疲れてるのかな……俺」
「現実です」
と、シルワは佐藤の額を指先で軽く突っついた。
「ちなみにだけど、さっきサトウ君にも魔法かけてるよ」
「え……何ですかそれ、めっちゃ怖いんですけど」
「いやいや、悪いことはしてないって。ほら、サトウ君倒れてたじゃない?あの時回復魔法使ったの。まあ、私魔法得意じゃないから、あの時にほとんど魔力を使い果たしちゃったけど」
だから、その手はもうちょっと我慢してねと、シルワは手を前に出して片目を瞑り、謝りながら言った。佐藤はあの時――彼女と始めたあった時の事を思い出す。思い出して、思わず意味も無く声を出しそうになったが、喉でそれを押さえつける。
「(確かにあの時、栄養失調で倒れたのに、動く元気があったんだよな……)」
今まで佐藤が口にしたのは彼女が作ったあの地獄の汁だけである。それにも関わらず、喉の渇きも、腹の空きも、彼は感じていなかった。むしろ、心理的な面もあるのかもしれないが、この世界に転生した時よりも体の調子が良いくらいだった。
「それは……ありがとうございます」
「どういたしまして」
佐藤は形だけの感謝をした。最も、彼にその時の記憶が無いため、ある程度仕方ないことかもしれないが、シルワはその感謝にも丁寧に返した。
暫くの間、二人の間に沈黙が訪れた。先程から鳴っていた風が草木を揺らす音が、少し大きく聞こえるようになった。
「ね、サトウ君の住んでる世界の事、聞かせてよ」
沈黙を破るようにして、突拍子も無く――あるいは、ずっとその機会を探っていたかのように、シルワが景気よく尋ねた。
「俺の世界ですか?良いですけど、急にどうしたんです?」
「いーから!」
好奇心に満ちながら、少しだけ恥ずかしさのような物を含んだ顔で、シルワはそう言った。佐藤は、それがどことなく子どもっぽいと思った。
* * *
その後、かなりの長い間、佐藤は自分の世界の事をシルワに話していた。シルワは、どんなにつまらない佐藤の話であっても、好奇心の目を曇らせることなく、真剣に相槌を打って聞いていた。
佐藤もそのリズムに乗せられた指揮者のように、色々なことを話した。元の便利な道具や、建築物、自身の面白い友人の話など、なるべく彼女が理解できそうな話を選んで、佐藤は時間が許す限り話した。時々、脳内に影が差すような感覚を佐藤は感じていたが、彼女に向かって言葉を発しているときは、それを忘れていられた。
今日の終わりを告げるような肌寒い風が、佐藤に向かって吹き抜けた。ツリーハウスは基本的に窓と呼べるものが無く、空に面した壁は吹き抜けであり、そこから外の気配をひしひしと感じ取れた。昼は夏のような日差しの強さを佐藤は感じていたが、今は、月の光が春のような冷たい空気を纏っていた。
(何月くらいなんだろうな、今って)
そんな風に、ぼんやりと外を眺めながら、考えても仕方ないことを彼は考えていた。黄昏時はとっくに過ぎていたが――彼は一人、物思いに耽っていた。
彼は友人関係を作るのが苦手なタイプであった。それでも、ただ一人だけ、親友と言える男が彼にはいた。それ以外の取るに足らない人達は、彼の記憶のアルバムの中に乱雑に仕舞われていた。
(今頃どうしてるんだろうな、あいつ)
佐藤はその男の事を考えていた。どうしているんだろうなと思ったところで、元の世界では自分が死んでいることに気が付き、佐藤は何だか可笑しくなった。自分の葬式がどのような形で今行われているのかは分からないし、第一そんな物が行われるのかすら不明であったが、白い布が被せられた自分を見て、きっと泣いてくれるんだろうなとか、いやもしかしたら大笑いするんじゃないかとか、案外冷静に現実を受け止めるのかなとか、色々――というかすべてのルートを思考してみたが、結局結論は出なかった。
(会いてえなあ……会ってバカみたいな話がしたいよ)
彼との会話は、理屈も筋も通ってない、ただただ自身の思考をそのまま垂れ流しただけの、そんな物であったが、佐藤には、それが新しい自分の心の中の扉をノックしているようで、すごく楽しかった。
涙が流れることは無かったが――目頭が熱くなる感覚を、彼は覚えた。
それでも、佐藤は良かったと思った。
彼女の夕食を、涙を流しながら食べても良い訳が出来るのだから。
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