第2話

「で、落ち着いた?」

「色々すいませんでした……」


佐藤は再び彼女の膝の上で目を覚ました。流石に先ほどのように取り乱すことはなかったし、口の上では冷静であったが、彼の人生で初めての膝枕という行為に、破裂しそうなほど心臓が動き出す。

佐藤と女の目が合った。余すことなく、目の前の女性の情報が、彼の脳内を上書きしていく。西洋の雰囲気をまとった、青い瞳に金髪の髪の、婉容な美女だった。ただ、佐藤は何となく彼女が着ていた、森で活動をするための軽装が似合ってないと感じた。ドレスやワンピースが似合いそうだなと、彼は思った。


「……もしかして、助けてくれたんですか?」

「うん、森を散策していたら、倒れている人がいるからびっくりしたよ」

「ありがとうございます。名前を伺っても?」

「私はシルワ。あなたは?」

「佐藤龍一です」

「サトウリュウイチ?かなり長い名前だね」


佐藤は、性と名を区切って言ったのだが、シルワは続けて言った。


「あ、すいません。性が佐藤で、名が龍一です」


反射的に彼は言った。シルワは困惑の表情を浮かべた。


「性?名?何それ?」

「……佐藤で良いです」


佐藤は少々面倒くさくなって、会話を半ば強引に終わらせるように言った。彼女が特殊なのか、性と名が存在しない世界なのか、その判断はつかなかった。


「サトウ君だね。おっけー」


彼の言動を特に気にすることもなく、シルワはそう言った。

その後に、佐藤に断りを入れてから、彼女は彼の頭を自分の膝から慎重に降ろした。彼はちょっとだけ物惜し気な顔をした。暫くして、手に木製の器とスプーンを抱えた状態で、シルワが再び彼の視界に入った。


「スープ作ったけど、食べさせてあげようか?」


わざとらしく笑いながら、シルワは言った。正直に言えば、所謂あーんというものを佐藤は体験してみたかったわけだが、彼にも誰しもが持つくだらない自尊心や虚栄心が無いわけではない。結局、彼はその提案に乗ることなく、シルワの手を借りながら、近場の木に凭れ掛って座ってそのスープを受け取った。お礼を言って、胃を驚かせない様に、言い換えればよくよく味わうようにして、彼は目の前の自尊心と虚栄心の結末に手を付けた。


彼の口に、地獄が広がった。



*   *   *



別に、砂糖と塩を間違えたとか、辛すぎたとか、そういのではない。断じてそういうことでは無く。

ただただ、ひたすらに――不味い。不味い味がした。頭痛が痛いみたいなフレーズではあるが、彼の足りない語彙――いや、もしかすると辞書で彼女の料理について調べてもそう出てくるんじゃないかと思わせるほど、不味い。


それでも――彼は耐えた。何とか、崖際つま先一つで、彼は踏みとどまった。反射的に吐き出してしまいそうではあったが、目の前の彼からの言葉を心待ちにしている女の顔が、彼にその選択肢を許さなかった。

佐藤の額から、謎の汗が大量に出た。脱水症状に陥ってたはずの彼ではあったが、意外と絞れば出るものである。


(やっば、死ぬ。一瞬三途の川が見えたぞ。幻覚だったけど)

「ど……どうかな。人に作るのは初めてだったんだけど」


落ち着かない様子でシルワが佐藤に聞いた。この状況で一番避けたい質問だった。彼らが、ある程度の関係を築いていたなら、佐藤は恐らく何の遠慮も無く自分の感想を正直にぶちまけたであろう。寧ろここでそういう風にぶちまけたほうが彼にとってはまだいい結論になったかもしれない。

ただ――虚栄心や自尊心ではなく、彼のエゴはそれを許さなかった。


「美味しいですよ」


佐藤は自身の顔に笑顔の仮面を被せてそれだけ言った。具体的に何がどう美味しいとか、そういうことを言うと仮面が剥がれ落ちそうな気がした。


「良かったぁ……」


と、シルワが笑顔で胸を撫でおろす。佐藤の心は、罪悪感と安心感でぐちゃぐちゃになった。


「じゃ、これからも作ってあげるね!」

「こ……これからも?」


全く悪意を感じない、死刑宣告のような決意表明だった。佐藤は思わず無罪放免の方法を模索する。彼の脳が結論を出す前に、シルワが何かに気が付いたかのように――小石に躓いた様な顔をした


「あ……ごめん。君にも、帰る場所があるんだよね」


と言って、目を伏せた。佐藤には、それが同情を誘っているようには思えなかった。純粋とも少し違う、それとは違う何かを、無意識のうちに彼は感じ取ったのだろうか。


「――いや、無いですよ。そんな場所」


結果だけ切り取れば、それは嘘だった。しかし、佐藤は正直に言った。投げやり気味に――諦めたように言った。


「あ……ごめんね」


彼から何かを感じたのか、シルワが謝った。どこか遠くに浮いていた彼は、その言葉で風船のようにに割れた。


「いやいやいや!そういう事じゃなくて、実は……」


と、彼は真の嘘を彼女に伝えた。



*   *   *



「なら、君は転生者ってことになるんだね」


シルワが思い出したように言った。


「転生者……ですか」

「うん。この世界には結構いるらしいけどね。別の世界で死んだ時に、死ぬ直前の記憶と肉体を引き継いでこの世界にやってくるんだって。まあ、そんないい加減な理由だとは知らなかったけど」

「……元の世界に帰る方法とかは知らないんですか?」


正直に言って、言ってみただけの質問だった。それで帰れるのなら、誰も人生苦労はしない。


「うーん、知らないなあ。ごめんね」

「……そうですか」


ある程度予想していた返答を聞いて、佐藤はほんの少しだけ落胆した。けれどもこの程度の事で精神を停滞させているわけにもいかなかった。

その姿勢のまま、上を見て彼は考える。


「……国とかは、あるんですか?この世界」

「あるらしいけど」

「らしい……?」

「あー、実は私、この森から出たことが無いんだよね」


前までは母親と暮らしていたんだけど――と、彼女は自身の過去を少し話した。


彼女はこの森で生まれ、この森で育った。母親は数年前まで一緒に暮らしていたが、突然、姿を消した。何分、昔の事であるため、前後の事をはっきりとは覚えていないらしいのであるが――兎にも角にも、彼女はこの森から出たことはない。国という存在は母親から聞いていたらしいのであるが、彼女は見たことが無い。と、そう佐藤に言った。

その話を聞いて、どういう顔をするべきか佐藤は分からず、困ったような、笑顔のような、微妙な顔をした。


「ああ――気にしないで」


私は大丈夫だから。と、彼女が言った。

佐藤はその言葉を鵜呑みにした。彼は良くも悪くも人をすぐ信じてしまう人間だった。


「えっと……なら、何処に国があるかって、分かりませんか?」

「うーん、知らないけど、この森の近くに、時々商人が来るんだよね。今はそれを待ってみるしかないのかなぁ」

「まあ、当然身寄りもないわけだし、それまでは私の家に住む?サトウ君」


恥ずかしげもなく、シルワはそう言った。


「え……良いんですか?お礼なんてできそうに無いですけど……」

「お礼なんていらないよ。まあ、乗りかかった船だし、君が元の世界に帰るまで、手は貸してあげる。よろしくね、サトウ君」


シルワは佐藤に握手を求めるように手を伸ばした。

佐藤は呆けた顔で、彼女を見上げた。何故だか、目から涙が流れていた。


「えええ!?何で泣いてるの?私何か悪いことした!?」


どうしていいか分からず、オロオロとその場を往復するシルワを横目に、佐藤は自分の目から溢れようとしている物を手の甲で押さえつけつつ、


「いや、何でですかね……すいません。ちょっと嬉しくて」

「この世界に来てから、自分の中では気を強く持って生きようとは思ってましたけど、やっぱり、頼れる人も、住む場所も無くて、ずっと不安だったんです。だからその、安心したら、気が抜けちゃって」

「ありがとうございます」


と続けて、佐藤から手を差し出した。シルワは佐藤に向きなおって、彼の手を握った。


「どういたしまして」


と言って、彼女は優しく笑った。


「あでも、家に案内する前にそのスープだけ飲んでよ。冷めちゃうからさ」


優しい笑顔のまま、シルワはそう言った。

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