#貝楼諸島より しずく

千住

しずく

 ディーノーフは真面目な女性であった。名前の由来は「優しく優しさ溢れる」という話だったので、和名なら優々香くらいのニュアンスだったろうか。

 もうすぐ七年になる。あの日、気がついたら私は質素な木製のダイニングにおり、痩せた女性が「どうぞ」とスープの皿を置いたのだ。私は困惑しながら「ありがとうございます」と言った。

「あら、あなた、喋れたのね」

 彼女の話によると、私はこの島に漂着しており、今日まで意識はあるが意思疎通はできない状態だったという。窓の外を見ると水面がきらきらしている。日本の内陸で育った私には、それだけでかなり驚いてしまった。話によると、島の「弱き者の家」は満床だったため、弱き者の家で介護や看護を担当する身分の彼女が保護し、亡くなったばかりの兄の部屋で世話をしてくれていたそうだ。ディーノーフという名前と由来もそのとき聞いた。

「ディーノーフとかシズク島って、どんな漢字を書くんですか」

「漢字はないわ。本当ならこの島には文字もないのよ。一時期日本に侵略されていたから日本語を使っているだけなの。もともとの言葉はもう賢者たちしか知らなくて、名前も賢者さまたちにつけてもらうのよ。あなたにも名前がいるわね」

「でも私は、帰……」

 帰らないと。その気持ちだけは確固たるものだったが、自分がどこの誰なのかまったくわからなかった。かろうじて日本人だとか、いい歳の成人男性であるのは思い出せたのだが。

「じゃあ、帰れるまでの仮の名前を賢者さまたちに貰ってくるわね。今日はのんびり好きにすごして。家にいてもいいし、外にいてもいいし、いつ帰ってもいいからね。帰ってなくても、ごはんができたら呼ぶから」

 そういってディーノーフは微笑んでくれた。笑顔には歳が出る。彼女がまだ二十歳も迎えてないことがわかった。自分が二十歳のとき、こんな優しさや慈しみがあっただろうか。

 ディーノーフはどこかすすけたナース服に着替え、出勤していった。

食事を食べ切るのに、ディーノーフが出てからさらにしばらくかかった。量が多かったからではない。体がうまく動かなかったのだ。食べ終わるとすっかり疲弊していた。ベッドに戻りしばらく昼寝した。

 日が高くなり眩しくて起きたが、頭に霞がかかっていた。自分が読書好きだったような気がして家の中を探した。しかし簡素な家の中には日用品しかなかった。テレビやラジオもなかった。

 頭の霞を晴らしたくて、外を散策することにした。家には鍵にあたる仕組みが見当たらず、そのまま外出した。

 小さな島であった。一周するのに数時間もかからないだろう。ろくに整地されていない土地に簡素な家が無秩序に建っていた。ここは少し丘で、島の一番低い場所に建っている寺社か宮殿のようなものだけが妙に近代的だった。その周辺にある商業地区らしき所にみなみな出払っているのか、周囲は静まりかえっていた。

 私はあてもなく散歩した。弱り切った体は十数分おきに休憩を要した。立ち止まるたびに感じた。どこに居ても波の音がする。どこに居ても潮のかおりがする。いつあの家に帰ってもいい。そのうちディーノーフが帰ってくる。帰らなくてもいい。食事ができたら、ディーノーフが私をみつけて呼んでくれる。

 私は包まれている。包まれるなんて実感、今まで他にあっただろうか? 思い出せないが、そのことに焦りはない。穏やかだった。一日がとても長く、永遠に散策できる気すらしていた。頭に霞が満ちたまま生きていられるように思った。

 やがて簡素な船着場にたどりつき、海を眺めた。

 ぼうっとしているうち、おぼろげながらここ数日の記憶がよみがえってきた。ディーノーフは私に言葉が通じているかもわからないのに、ずっと今朝みたいな調子で、人間として扱い続けてくれた。神に嫌われた兄が死んで寂しかったから助かったとこぼしていたこと。私を引き受けた褒賞に神の雫を貰えるのが楽しみだと言っていたこと。弱き者の家の車椅子を借りられたら、散歩に行こうと言ってくれたこと。一度だけ私を「おにいちゃん」と呼び間違え、照れ隠しに笑ったこと。

 ディーノーフに恩返しをしたかった。はまなすが盛りであった。数輪摘んで、棘をきれいに取って、食卓に飾ってあげようと思った。

 頑健な茎と棘に苦戦していると、小型の船が近づいてきた。国旗が掲げられていない。胴には「はまなす丸」と書いてあった。日本語だ。違和感で身動きが取れなくなっているうちに、船は慣れた手つきで着岸した。

「いやぁ、すんませんねぇ、早く着きすぎちまっ……おまえさん?!」

 日に焼けた老爺は私を見るなり腕を引き、操縦席に押し込んだ。やっと一輪取ったはまなすの紅が波間に消えた。

「隠れとれ!」

 私は訳もわからないまま身を縮めていた。やがて老爺は積荷を降ろし始めたが、ほとんどが大手通販の段ボール箱であった。老爺と島の男が話しているのが聞こえた。

「いつもありがとうございます。ここには船を動かせる者もいないので、移住してくださると助かるのですが。貴族の身分をお約束しますよ」

「いやぁ、身に余りますわぁ」

「そんなことはございません。こちら、神の雫といいましてね。若返りや強壮に効果のある霊薬です。貴族には毎日支給されて、いつまでも現役でいれますよ」

 老爺は生返事で流し、船に戻ってきた。私を脚で脇に寄せるようにして、隠したまま離岸する。

 島を離れて十分くらい経ってから、老爺は小瓶を差し出した。

「お巡りさん。これじゃろ。探しとったの」

 瓶には仰々しい雫のロゴが描かれていた。それを見た瞬間、頭が殴られたようになった。ガラスが割れたみたいに記憶と涙が溢れてくる。

「怖かったな。怖かったな。よう無事で戻りなさった。あーとかうーしか言えなくなっちまう人もな、おるからな、歩けるだけでもうけもんよ。すぐ日本に帰れるかんな」

 老爺は私の背をさすり、無線で警察と救急車を呼んでくれた。それから少し席を外して、日本国旗を掲げた。

 私はずっと泣いていた。老爺が思ったような、恐怖や安堵からではない。夢のように包まれていたあの時間が、ほんとうに夢、うつろな勘違いだと解ってしまったからだ。


 何時間後くらいだろうか。本州の港に戻ると後輩がパトカーから降りて出迎えた。

「無事ですか」

「わからない。貝楼諸島だった」

「その爺に聞けばいいですか」

「ああ。よくしてやってくれ。密航かもしれないが、あの様子じゃ麻薬は運んでない」

 私は液体合成麻薬の小瓶を後輩に預け、自ら救急車に乗った。麻薬取引の現場を押さえようとしたところ注射を打たれ、気がついたら拉致されていたこと。その後数日の記憶がおぼろげで、どうやら話すこともできなかったようであること。自分が誰かを思い出したのもついさっきであること。説明すると救急車は大学病院へ走り出した。


 カルト教団は貝楼諸島北西部にある小さな島を不法占拠していた。幹部は逮捕され、合成麻薬の虜になっていた信者たちも保護された。治療を受けたが、何人かは激しすぎる離脱症状で廃人となってしまった。あの日行動を共にしていた同僚たちも話せない姿で発見された。島の墓地には死亡届の出ていない遺体がディーノーフを含め十四もあった。ディーノーフは、私を逃した咎で毒殺されていた。遺体のほとんどが身元不明で、現地人かもしれないため、そのままにされた。

 間もなくあれから七年になる。都心へ栄転し、海沿いが通勤路になった。毎日思い出していた。どこに居ても波の音がする。どこに居ても潮のかおりがする。いつ家に帰ってもいい。そんなふうに、包まれていたときのことを。ベイエリアのタワーマンションを買い、毎朝海風を浴びても渇きは癒えなかった。こうじゃない。吹き抜けるばかりで包んではくれない。門限のない自分の部屋だが、いつ帰ってもいいという感覚と少し違う。どんな過酷のなかでも独り正しく在れる男になろうと幼少から努力してきたのに、鍵のないドアを開け、包まれながらあてもなくさまよったあの日に、これほど深く囚われている。あれはしずくが地面に叩きつけられるまでの一瞬のまぼろし。そうだとしても。

 島は元の無人島に還ったか。もしくは、居るべき民の住処となったか。知らぬまま私は二週の休暇を取った。駅前を滑るスーツケースは軽い。予約した小薔薇のブーケを収めるためだ。

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