忘却のすゝめ

今から私がする話を忘却することを勧める。

 

同じ高校の文芸部に黒咲という女がいた。前髪が異様に長く、魔術に傾倒していて、字が綺麗だった。私の小説を読んで二、三の無難な感想を(手紙で)よこした。声が小さすぎて意志の疎通が困難だった。ルーン文字の覚え方についてのみ、かろうじて常人の声量で話すことができたが、早口すぎて聞き取れなかった。案の定というべきか、友人と呼べる生徒を校内に持たないようだった。そして──これは責めてくれてまったく構わないのだが──私がそのような彼女の性質にやや暗い情念を喚起されていたという事実がある。

はっきりさせておくと、私は彼女を虐めていた。殴った。蹴った。罵倒した。服従させた。髪をつかんだ。モノとしての承認を与えた。優しくすると思わせて急に冷たく接し、そしてまた気まぐれに優しくした。何より、彼女の魔術趣味を全面的に受け入れてやったことが最もむごい仕打ちかもしれなかった。私の暴力を日々受けるにつれ、次第に彼女は何かに取り憑かれたように魔術書を読み漁るようになり、よくわからない杖や宝石らしきものがどんどん部室に置かれていった。私は、あえてそれに関して何も言わなかった。

「揃った」

数学の授業中だった。黒咲が突然そう呟いた。彼女の言葉にしてはやけにはっきり聞こえたと思ったが、誰も反応した者はいなかった。期末直前期だったからだろうか、そのことがなぜかいやに気に障って、放課後黒咲を屋上に拘束し、校舎から人がいなくなる時間まで放置した。そして頃合いを見測り、私は自分のもてる全ての話術と修辞法を使って、黒咲に自死を促した──死んで永遠に私のものになれ。彼女は少し迷ったが、やがて快くその身を投げ、墜落した。一瞬だった。私は地面に潰された彼女の姿を見なかったし、想像もしなかった。ただ、浮ついた高揚感の中で帰った。

次の日は休校となり、どうやら本当に死んだようだということがわかってきた。それは別によかった。その翌日の朝、下駄箱を開けると、容量いっぱいに詰め込まれていた大量の手紙らしきものが溢れ出てきた。差出人は書いてなかった。中には、ひどく滲んだ赤い文字で──しかしいやに精緻な筆跡で──無限の「感謝」が綴られていた。

〈小説読ませてくれて ありがとう。認知してくれて ありがとう。死なせてくれて ありがとう。……〉

私は見つからないように手紙を全てバッグに隠し、それからトイレに行って、三回吐いた。気圧のせいではない頭痛が苛んでいた。個室のドアを思い切り蹴り飛ばしてもそれは消えなかった。朝のやわらかなひかりが差し込み、舞う埃を輝かせていた。窓ガラスに頭を思い切り叩きつけてもそれは消えなかった。


一瞬の追悼の後、無事に期末試験が行われ、人々は刹那の間に黒咲の死を忘れた。無益な日常が再開し、いくつかの季節が移りゆき、私は大学の創作科に進んだ。私が文字を打ち付けるとき、友人と食事をするとき、布団を被って夜をやり過ごそうとするとき、取り憑かれたように魔術へ魅入られていった女の姿やそのか細い声、あの赤い手紙の文字がふっと浮かんで、その度私はたしかに何かを失っていったように感じた。失っていくべきなのかもしれないとも思った。

先日群馬に帰省し、幾人かの高校の同級生と会った。私は黒咲について尋ねた──なんか二年の頃自殺したやついたじゃん。あのなんかめっちゃ前髪長くて陰薄いやつ。なんか文芸部の──。

奴らは困惑した顔を見合せ、そんなんいたっけ、と言った。思い出せないというより、最初からそんな人間はいなかったと思っているふうだった。「文芸部は全員幽霊部員じゃなかった?」と誰かが言った。はは、と私は笑った。目の前の同級生の輪郭が急に不確かに感じられた。まるで魔法にかかったみたいに。

私は本当に黒咲を殺したのだろうか──いや、これは責めないでほしいのだが──何も言い逃れしたい訳じゃない。私の記憶が正確なら、自殺教唆をしたのは事実だ。そして彼女との記憶から解放された日などない。そう、そこが問題なのだ。つまり私以外の世界は、彼女を記憶していない。私の記憶の中では黒咲は生きていたが、彼らの中では完全に死んでいる。存在を滅却されるという、「死以前の死」へと追いやられている。もし、私と黒咲が出会っていなければ、彼女は誰にも「認知」されず「記憶」もされず、「死以前の死」から出られなかったのではないか。それは。とどのつまり。

本当はお前らが黒咲を殺したんだろ。


実家に帰って、あの手紙を探した。見つからなかった。彼女の存在が、記憶が、残した手紙が、私の妄想なのかどうか、今となってはわからないことだ。ただ一つ事実としていえることは、私は今も、彼女の手紙に代わる文章を自分の手で追い求め続けている。


話はこれで終わり。さあ、思う存分忘却してみなよ。

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