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 僕は生きるべき素晴らしい人間だ。

 これは嘘だ。

 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ」。

 この言葉を、多くとも100回ぐらい唱え続ければ僕は死ぬ。言葉で自殺できるようになった。良い時代だと思う。


 夕暮れ時、電車に飛び乗って新宿へ向かう。東京は虚構の街だ。ずっと嘘をつき続けて大きくなったような都市なのに、全く死ぬ気配はない。人を飲み込み、嘘を飲み込み、永遠に膨れ上がっていくダークグレーの景色が僕は好きだった。都合の悪いものを隠蔽し、汚い存在を遠ざけ、表向きの美しさを堂々と守り続けるという露悪性を一切隠さないところが好きだった。死の臭いが全くしないのに、その街には死がよく似合っている。


 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ。」

 これは嘘だ。嘘を百回つくと、死ぬ。

 百嘘病なる病気のことを初めて耳にしたときは、まさに誰もが「嘘だ」と思ったことだろう。出来の悪い冗談、三流のフィクション。だがその後、何の外傷もない原因不明の死が大量に起こり、B級映画が現実になったことを人々はぼんやりとわかり始めた。

 ニュースを見て夏緒は「面白いね」と笑った。あまり面白いと思っていなさそうな声だった。目線はすぐ詩集に落とされた。夏緒が僕の部屋にいたのはもう遠い日のことで、今どこに居るのかは知らない。


 「真北、やべえよぉ。俺ブラジルに行くことになっちまった」

 多田先輩は狂っている。狂っている多田先輩にこの間会ったとき、彼はナハハと笑いながらそう言った。

 「...そんでよ、俺はアッタマ来て、こう言ってやったのよ。おめえよお、俺はよおこちとらよぅ、地球の裏側まで響かせるつもりでrapやってんだっつってよ、そんなわけねぇじゃんなぁ!? 地球の裏側っつったら、そりゃあ俺の言葉なんてわかるわけねーし。困ったわあ、また嘘ついちまったよ」

 事の経緯は、先輩が先日参加したMCバトルが始まりらしい。多田先輩はラッパーで、百嘘病が流行した後のMCバトルブームに乗っかりどうにか名を売ろうとしていた。もともとHIPHOPという文化はありのままの自分の姿や生活を表現する(つまり、realである)ことが前提であり、その場の勢いやカッコつけで身の丈に合わないことや思ってもないことを言う人間はfakeだとして美徳に反するとされていた。だが実際には表面上の言葉を技術でコーティングしたようなラッパーも人気があって、彼らの存在がMCバトルを陳腐化させていたのだ。

 そんな状況が百嘘病によって一変した。なにせrealでないことを言ったら、死ぬのだ。「俺はこのMICに命掛けてる」などと叫ぶラッパーはごまんといた。しかし今、この状況下で同じことが言えるラッパーはほとんど居ない。本当にMICに命掛けてるラッパーなんて、いるわけないのだ。命が惜しければ「俺はMICに命なんて掛けられねぇ。普通に死にたくねぇ」と言うしかない。自分のrealを出すしかない。MCバトルはフリースタイルラップの技術を競うコンテストから本来のHIPHOPマインドを競うコロシアムに変化した。すると当然、そこで交わされる言葉の密度も高くなり、刺激的なショーとして注目度が格段に上昇したのだ。

 多田先輩はそんなfakeが消えたMCバトルにおいて、無類の強さを発揮した。狂っているけど根は良い人なので、隠し事をするよりも本音を吐く方が得意だという性格が百嘘病MCバトルの性質に恐ろしく適合した。決して身の丈に合わないことは言わず、死にたくないなら素直に死にたくないと叫ぶ。かと思えば一転、「お前なんかにゃ負ける気がしねぇ!」と大上段を構える。これは嘘をついているわけではなく、多田先輩が狂っていて本当に「(1ミリも)負ける気がしねぇ!」と思っているから言っただけなのだが、こうした自然に生じてしまう緩急に観客は魅せられていった。

 むろん、先輩も全く嘘をつかないわけではない。僕も詳しくは知らないが、大麻を捌いた後輩ラッパーを庇う為に警察に捕まった、なんて話を聞いたことがある。実直だからと言って全てを真実で通せるほど、人間は綺麗ではないのだなと思った。いずれにせよ、先輩に残された嘘をつける回数は少ない。

 その先輩が珍しくかなり致命的な嘘をついてしまった、という話がブラジルに繋がる。事件当日、先輩は例の如く渋谷のクラブでrealを追求するゲームに興じていた。相手のラッパーの「このrap響かせる東京中」というラインが先輩のセンサーに触れ、スケールの違いを見せるアンサーを返そうとした。だが、言葉にした後それが本心でないことに気づいてしまう。つまりfake、嘘だ。百嘘病では、嘘をついても一週間以内に真実に出来れば嘘にカウントされない。よって先輩は嘘を取り消すため、realを貫き証明するためにブラジルへ行くのだという。

 「楽しそうですね」他人事みたいな響きの感想が出てきてしまった。けれど本当に思ったことだ。

 「楽しい」と多田先輩は即答した。多分本当に思ったことだ。

 「死にたくないですか」僕は率直に尋ねた。

 「ああ、死にたくねぇ」またナハハ、と笑い声が聞こえた。


 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ。」

 これは嘘だ。もし、僕が全力を尽くしたなら、一週間以内に真実へと変えられるだろうか?


 揺れる電車の中で、僕はまた断片的に夏緒を思い出す。僕の知るかぎり、彼女は世界で一番嘘をつくのが上手な人間だった。嘘をつくことで、何とか生き延びていた人間だった。夏緒という名前が本名かどうかさえ、今となっては疑わしい。彼女が僕の隣にいたという記憶さえ、もう嘘か真実かわからない。

 まだ嘘が許されていた去年の夏、僕らは海に行った。海に行きたいと夏緒は言った。空と海の青いグラデーションを前に確かに笑っていた。ふっと消えてしまいそうな笑顔だった。心から笑っているかどうかを判断する術を持たずに、ただその笑顔を目に焼き付けることしかできなかった僕のことを、少なくとも僕は許しはしない。

 「逃避行だよ」と夏緒は言った。追われていると夏緒は言った。何に追われているかを教えてくれなかった。ただ、静かに笑うだけだった。

 僕らはどこまでも逃げ続けた。どこまでも、どこまでも逃げ続けた。座席がらがらの地方鉄道で逃げ続けた。暗くなりかけた線路沿いを宛もなく逃げ続けた。星に名前をつけながら逃げ続けた。

 「嘘を上手くつく方法を、教えてあげよう」

 魔法使いが描いたような夜に、夏緒は言った。

 「本当をぼかすんだ。本心をぼかすんだ。真実をぼかすんだ。嘘と真実の境界線をぼかせば、嘘は嘘でなくなる。真実がはっきりしているから、嘘は嘘としての輪郭を持つんだよ」

 「夏緒は、ずっとそうしてきたの」

 「私は追われているから」

 「なにに」

 「ねぇ」

 「なに」

 「お手本みせてあげようか」

 それから夏緒がついた嘘を、僕はよく覚えていない。これは嘘だ。絵の具に水を混ぜるように、記憶を曖昧にしてこの嘘の輪郭を消してしまおうと試み続けている。


 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ」。

 既に致死量は越えていた。灰色の街の中それでも唱え続けた。

 誰が「生きるべき」かどうかを決めるのだろうか。それは自分であるし、世界でもあると思う。ずっと昔から、生まれたときから、自分は世界にとって不要な存在だと思って生きていた。生まれてきても生まれてこなくても何も変わらない存在。僕は、僕自身が僕のことを「生きるべき」だと堂々と思えて生きられればそれで良かった。それが出来ればあとは何も要らなかった。けれどその為には世界から承認されなきゃいけない。人は自分で自分を承認するために、逆説的に他者を必要とする醜い生き物だ。どこかの成功者がよく大きな顔をして「本当に必要なのは"自分自身"だ」と宣う。けれど彼らが指す"自分自身"とは、"自分の好きな他人から必要とされている自分自身"に他ならない。充分に必要とされているから、自分の気に入らない人間からの承認を拒絶できるという話でしかない。誰にも承認されない人間は自分で自分を必要とすることなんてできない。要するに、僕は根源的に誰にも必要とされていない。

この世界では必要とされていない人間でも一応生きることは許されている。無限に回り続ける資本主義システムの歯車の一部として、社会の部品になれば生存は可能だ。けれどそれは僕でなくてもいい。結局は代替できるパーツとしてしか尊重されない。僕は僕であって僕でしかないのに僕の中の"僕"の部分は決定的に誰にも必要とされてなくて僕の中の僕でなくても良い部分だけを世界は搾取して使い捨てる。僕の心臓は動いているけれど"僕"は生まれてから今この瞬間までずっと死んだまんまだ。死産だ。それは生きていると言えるのだろうか。もしかしたら、生まれてから死ぬまで一度も生きることなく死んでいくのかもしれない。

 ならば、と思う。死んだほうがマシじゃないか。誰からも生きることを望まれず、自分さえ望まないのなら、今すぐにでも死ぬべきじゃないだろうか。

 死ね。

 できるだけ速やかに、人様に迷惑をかけずに死ね。富士の樹海で首を吊って死ね。十年前に廃業したラブホテルの屋上から飛び降りて死ね。海水と睡眠薬に溺れて死ね。そうだ死ぬべきなんだ、絶たないといけない滅さないといけない、にも関わらず今もこうして意地汚く維持される生命。どうして、どうして死ねない。どうして死なない。死にたくないのか。まさか。生きることを拒絶しておきながら死ぬことすらまともにできないのか。死にたくないのか。まさか。

 ……このような憂鬱を、このような孤独を、少し運(と、頭)の悪い人間なら誰もが抱えている。決して特別な感情などではない。きっと時間の経過と共に、いつかは消え去ってしまうような、拘泥する価値のないものだ。僕が死んでも誰も悲しまない。けれど、僕が生きていても誰も悲しまないのだ。なら、好きなようにすればいい。


 僕と夏緒が一緒にいた頃のある日、曖昧に塗りつぶされた時間の中のある日、僕は夏緒の横顔を見て、ふと好きだと伝えたくなった。何故かはわからない。こういうときは往々にして、「何故か」なんて必要ないものだ。だが僕は結局、彼女に想いを告げることが出来なかった。細波に流され打ち消されるみたいに、その言葉が言葉になることはなかった。

 夏緒が何から「追われている」のか、今ならなんとなく分かる気がする。僕のくだらない憂鬱と夏緒の敵は、恐らく本質的にそう変わらない。あの日、僕達は逃げ続けた。自分の本心から逃げ続けた。嘘のような日々に逃げ続けた。

逃避行を終えた後、夏緒はさよならも言わずに姿を消した。


 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ」。

 これは嘘、いや、嘘じゃない。真実でもない。嘘にも真実にもならない言葉もある。定義も解釈も宙に放り出した言葉は真実を作らない。いかにも夏緒が好みそうな感じだ。

 僕の自殺は頓挫した。夏は終わり、逃避行は終着駅を迎えた。蝉の声と細波の音でノイズを作る必要もなくなった。これ以上あの人が一人で逃げ続けるつもりなら、誰かが迎えに行かなければならない。あの日伝えられた嘘と、伝えられなかった真実に、決着を付けなければならない。


 まだ嘘をつくことが許され、多田先輩が全く売れないラッパーだった頃、僕はときどき先輩のバトルを見に行っていた。先輩は長い韻も踏めなかったし、テクニカルなビートアプローチも出来なかった。ただ素朴な感情を熱量とともにぶつけるだけの鈍臭いラップだった。相手が誰でもそんな調子だったので当然ロクに勝てていなかった。

 「先輩、ラップ楽しいですか」純粋に不思議だったので訊いた。

 「楽しい」即答だった。

 「負けっぱなしですけど」

 「負けっぱなしやね」

 「いいんですか」

 「ただ思ったことを馬鹿デカい声で言えるのが楽しい。それができたら勝ちじゃね」

 僕は、先輩は狂っているのだとばかり思っていたのだが(いや確かに狂ってはいるのだが)、同時に極めて常識的な感覚を持ち合わせている人間なのだということに最近気が付いた。彼が何故延々と鈍臭いラップを繰り返したり、すれ違った美人を隣に彼氏らしき人がいるのにナンパしたり、突然マグロ漁師になって三日で辞めるのかといえば、それは彼が自分のやりたいことに非常に忠実であるからだ。やりたいことだけやっている。本当に。その結果たとえ失敗に終わったとしても、全く合理的でなかったとしても、気にも留めずナハハと笑って次に行く。バカみたいに素直だ、というかバカだ、けれど僕はその愚かしさを尊いと思う。

 「ブラジルでライブとかやったら、動画送ってくださいね」

 「おう。だからおめぇもあんましょーもねー嘘ついて死ぬんじゃねぇぞ。サバ読むときぐらいにしとけ」しょーもねーことを言って先輩は笑った。


 「僕は生きるべき素晴らしい人間だ」。

 路地裏の猫がそう話しかけてきたので、「君は人間ではない」と教えてあげようと追いかけた。その先に夏緒はいた。いつの間にか雨が降っていて、猫はいなくなっていた。

 「私は君の傍にいてはいけない」ずぶ濡れになった背。

 「私は君の想いに応えられない。感情をぼかさずに生きていくことに耐えられない。感情を認めた瞬間から始まる恐怖に耐えられない。……君を好きになることに、耐えられない」打ち付ける強い雨音。

 君と一緒にいたい。

 「これは嘘だよ。はっきり嘘。嘘ばっかついてたからもう致死量なんだ。……今まで楽しかった、ごめんね」振り返ると彼女の濡れた顔はまたあの笑顔だった。全てを曖昧にしてしまうような、胸が締め付けられるような、僕が大好きだった笑顔。……そう、大好き“だった“。もうその笑顔に甘えることはしない。しまいこんだ真実から逃しはしない。

 「なにが嘘なんだかは、わからないけど」

 これ以上凍えてしまわないように、冷えた手を取って言う。雨音のノイズを跳ね除けてはっきりと伝える。

 「その言葉が嘘だってんなら、一週間以内に本当に変える。自分に嘘なんかつかなくとも生きられるように、何が本当か一緒に考える」……悪いけどその笑顔は飽きた。もっと素直に笑ったり、泣いたり、怒ったり、たくさん素敵な表情があるはずだ。その顔を見るまで、僕は嘘をつかないと決めた。どんな嘘もかいくぐって生きていくと決めた。

 嘘みたいに灰色が支配する虚構の街の中で、冷たい雨が降り続けていた。それでも彼女の答えを聞いて、真実から目を逸らさずに生きていける気がした。

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