夜道

ぱん

夜道

 涙を流す理由は人それぞれだ。

 誰も構ってほしくて泣くわけじゃないし、何も泣けばすぐに解決するとも思ってない。

 コップ一杯に張った水が溢れるように、ただ涙が頬に落ちただけ。


「……だのに、なんであいつは」


 買った缶チューハイをコンビニ出てすぐ煽り、ぷはーっ、と息を吐く。

 街路灯が等間隔に照らす終業帰りの夜道、たまたま気が触れてアルコールに手を出してしまった私は、一缶も飲めない下戸であることを忘れてさらに煽る。

 そも今日の出来事を忘れたいとか、愚痴を吐き散らかしたいとかいうわけじゃない。

 なんだかむしゃくしゃしただけ。

 よくある犯罪者の証言に、今だけは共感している自分が恨めしかった。


「まあ、こんなんでどうにかなるならさぁ……毎日だって酒飲むわ。飲めないけど」


 首の辺りがちょっとだけ温かくなった気がして、襟元を緩めた。

 すでに六月を過ぎた気候、もう随分と春から夏らしい熱さが夜にも立ち込めている。下戸のせいではない――ただ、今日がとても熱帯夜な感じだから、普段はそこまでじゃないスーツが、今日は熱く感じちゃうのだろう。

 いっそのこと、人通りの少ない夜道だ――上着を脱ごうとした、その時だった。


「先輩、それはちょっとやらしくないですか?」


「は――」


 後ろからかかった甘ったるい声に振り返ると、巻き髪女子の典型がそこにいた。


「なんでいんの、友坂ともさか


「やだなぁ、帰り道一緒じゃないですかやだー」


「いや、んなわけないでしょ。私こそやだー、だよ。何普通に隣歩いてるの。ちょっと亭主関白の妻みたいに三歩ぐらい離れて独り言みたいに会話しよ。ね、友坂」


「もう、先輩ってば恥ずかしがり屋さんなんだからっ」


「かわいい後輩は話も聞けないの? ねえ」


「えー?」


「殴るぞてめぇ」


 一年前に入社し、何かとちょっかいをかけてくるサークラ系甘々女子の友坂さん。

 同期、先輩問わず、見た目の愛らしさと、舌ったらずな口調、多少でかいその胸部装甲に加えて、必殺上目遣いがどうもクリティカルヒットするらしく、全員骨抜きにしている女王である。

 教育係を満了し、別の人間に引き継がれて以降も、なぜかしつこく付きまとってくる彼女は、今日も今日とて私の罵詈雑言に賑々しい笑みを浮かべている。もしかしてMなの?


「そんなことないですよ? 彼によって、どっちもいけますし」


「他人の性癖の話してないから。つか、人の心勝手に読まないでくれる?」


「え、ホントに? 先輩と以心伝心できちゃったんですか? 嬉しくないですか? あ、インスタ載せません? はい、ポーズ!」


 カシャッ、と鳴った撮影音に反応して、私はピースしていた。

 ……え、なんで?


「あ、先輩めっちゃ盛れてる! 肌若い! 夜なのにかわいいっ!」


「そこまで褒められても何も出ないし、また隣歩こうとしないで。ちょっとも好感度上がってないし、マイナススタートなのわかってる君?」


 醒めた酔いを取り返すようにまた缶を煽り、しっし、と手で払う。

 しかし、友坂はその扱いが嬉しいのか、「むふふっ」と楽しそうに私の腕に絡みついてきた。


「いや、きも」


 あ、声に出てた。


「ごめん、今のなしで。他人に見られたら変な誤解されそうだから離れて、で」


「えー? 心傷ついたんで、イヤです」


「なんでよ」


「だって、先輩に慰められないと私、明日、課長にこのこと言っちゃいたい気分なんです」


「は――」


 次の瞬間、思った以上に強い力で腕を引かれ、虚を突かれたような声が喉から出ていた。その拍子に缶チューハイの中身が跳ね、夜が染みたアスファルトに吸い込まれていく。

 何、この状況。頭一つ分背の低い彼女と視線が合ってるんですけど。

 あと、その笑顔怖いのでやめてもらっていいですか。


「ねえ、ちょっと何」


「先輩が悪いんじゃないですか、いつも私に冷たくて……あ、ツンデレですか?」


「人の心読めるならちょっとは察して。わかるでしょ、好感度」


「ふむふむ。『友坂ちゃん、超好き』って先輩言ってます」


「言ってないし。捏造すなし」


 むしろ「いや、きも」ってさっき口に出たじゃん。聞いてなかったの?

 バランスを崩す私を支えるようにして片腕に両手で縋りつく友坂は、この状態でも楽しそうだ。どこからそんな力が出ているのかはさておき、怖いぐらいの満面の笑みはやっぱりあまり近くで見ていたくはない。

 仕方ない。


「……で、何用なの」


 振り払うのが困難と早々に結論を出し、姿勢を正しつつ、私は献身的な後輩を覗き見た。

 この感じ、知っている。


「帰り道反対なこと、知ってるんだけど」


「え、まさかわたしのファンだったんですか?」


 おい。


「話逸らすなよ、ちょっと理解しようとしてた私がバカみたいじゃん。ねえ?」


「てへへ」


「……何、その舌出したあざといの。また本音言うよ?」


 と、そこまで言ってようやく友坂は笑顔を閉じた。

 天上の華のような美貌も、片や平静となると冷たさを感じる。人通りの少ない路地に二人、街路灯の小さな温かみを見せる演出は、今の友坂によく似合っていた。


「や、今日のあれって、先輩悪くないのになー、って思ったんで」


 両手を離し、自由にしてくれる彼女は、小さく息をつく。


「あれ、先輩に対する嫌味ですよね?」


「あー……わかる?」


「わかります! だってめちゃくちゃな理論でしたもん!」


「だよねー!? 私、絶対に悪くないよね? 先方に掛け合ったのは私だけどさ、進行プロジェクトの概案作成は田崎君だし、課長は悪くないって進めたくせに、全部丸投げってどうなの? 生贄にされたよね、私? ……あ」


 なんか口から滝のように出てくる愚痴にようやく歯止めが効いたのは、言い終わってからだった。思わず口を塞ぐも遅く、引きはがすように友坂に手を取られ、握られる。

 え?

 聖母のような笑みがそこにはあって――歪んでいた。


「先輩は、悪くないですよ。だって、陥れられたんですから。仕事のできる女子に対する男の妬みって気持ち悪い、まったく……だから、先輩を慰めようと私がこうして出向いたわけなんですが」


 っと、視界が回り、バランスを崩しかけた私を、またしても友坂が支えてくれた。

 このゆるふわ巻き髪女子、本当に腕力ある。


「今はとりあえず、飲めない酒に呑まれた先輩を介抱しますよー? お酒の缶はちゃんと持っててくださいね?」


「いや、いい――」


 話を聞かずに私の前に回ると、よいしょ、と声を出す友坂に続き、浮遊感が身体を包んだ。


「何して……」


「先輩の家ってもう少し先ですよね。ちょっと辛いですけど、まあ、いけるでしょ」


 そう言って、友坂は一歩、また一歩進む。

 後輩に背負われている。それも、自分より線が細いサークラ系のゆるふわ巻き髪女子だ。堅物で通してきた私とは真逆の生き物。

 だから冷たく払い、興味を示さないでいたはずなのに、なぜか慕ってくれる彼女は、記憶が正しければ、今日も私の介抱に買って出ている。

 前回は確か……大口の契約を切られた時だった。

 その前は、理不尽な課長の物言いに泣いた時だった。

 今日はその延長線上、同僚と上司の失敗を押しつけられた。

 その度、なぜか家路についてくる友坂は一体何を考えているのだろうか。

 彼女の歓迎会だって……こうして潰してしまったというのに。


「先輩は最初から強がってて、かわいい人ですよねー」


 あの日、酒に呑まれて先に帰ろうとした私を、主役の彼女が強制的に家に送ってくれたのを憶えている。記憶がなくならないタイプの酔いはとても下戸と相性が悪い。

 泥酔して醜態を晒そうとその記憶は彼方に消えてくれない。ずっと頭に残っている。陽気で、気持ち悪くて、どうにもならない視界と、熱いぐらいの体温を、いつも憶えている。


「寡黙に頑張って、男社会を駆け上がって、天下を獲ってやるーっていう志は好きなんですけどねー」


「……うっさいな」


「先輩めっちゃ乙女だし、責められたらすぐ泣いちゃうし、力弱いし、強がりだし、そのくせ、わたしに当たり強いし」


「最後の関係ないでしょ、それ」


「好きな子いじめるのって、よくないってことですよ」


「好きじゃないし……つか、うるさいんだけど。頭ガンガンする」


「酔い回るの早くないですかー? もう」 


 仕方ないな、と言わんばかりに歩くスピードを速める友坂は、それ以上何も言わなかった。


「……」


「…………」


 気まずい雰囲気とか、そういうものはない。

 ただ静寂があった。微かな揺れと、吹きはじめた涼しい夜風が熱を孕む頬を撫でるのが気持ちいいぐらいだ。

 まぶたが重い。


「先輩、家着きましたよ……って」


 自宅マンションに入り、扉の前で背中から降ろされた私は、もうほとんど意識がなくなっていた。鞄を漁られているのも、水を一口飲まされたのも、ベッドに仰向けになっているのも、部屋の電気が消えたのも、記憶の断片として視界の端にはあったけれど、眠気の方が勝っていたようだ。


「――先輩」


 だから、囁くように呟いた彼女の声を最後に意識が消えていた。


               § § §


「おはようございまーす、先輩。よく眠れました?」


 それは、なぜか隣にいた。

 見知ったベッドで、布団の中で、半分だけ開けられたカーテンから差す朝陽に照らされて少しだけ寝癖のついた前髪で、よく知る声で、いやらしい笑みで。

 なぜか下着もつけてない友坂が、そこにいた。

 頭が痛いんだけど。


「ねえ、なんでいんの。友坂……ねえ、状況説明できる?」


「え、逆に聞きたいんですけど」


 そう言って顎に人差し指を当てる彼女は、豊満な胸部を寄せてとぼけた顔をする。

 意味ありげな表情はスッピンでも通用するかわいさだ。恨めしい。

 だが、そんな感情は一瞬で吹き飛んだ。


「先輩、なんで憶えてないんですか?」


「……」


「顔、真っ赤だぁ。かわいい。一緒に写真撮っちゃおー」


 カシャ。

 無機質なスマホのシャッター音が、部屋に響く。


「ほら見て見てっ、先輩の間抜け顔かわいい!」


 こちらに向けるスマホの画面には、字の通り、友坂と同じく何も着ていない赤面の私が映っている。


「いやいや」


 そして、写真の背景には――ベッドの下から玄関まで続く道すべてに、二人分の脱ぎ捨てられた服が落ちていた。

 よもや、どこぞの艶めいた世界でしか見たことがないような状況だ。

 ふふふっ、と笑う声が間近に聞こえた。


「昨日のこと、本当に憶えてないんですか?」


 頬に熱い何かが一粒、流れる。


「……知らない」


 こんなものは、知らない。


「とりあえず、その写真消して」


「え、イヤです」


「は?」


「もうクラウド保存して、わたしの待受ですし、その他諸々もう無理でーす」


「よし、戦え。今すぐだ」


 血が飛び交うのもいとわぬ。

 そうして新しい黒歴史が、今日もここに刻まれた。


『♯先輩とデート ♯めっちゃかわいいっ! ♯お持ち帰りしちゃいましたー ♯やばい超好き ♯食べちゃった、かも?』










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夜道 ぱん @hazuki_pun

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