23話:包帯と安堵
「おい、麻耶」
お父さんはそういってわたしの髪の毛を掴む。わたしは苦痛に悲鳴を上げるが、すぐにそれを押し殺す。騒ぐな、耳障りだ。いつもお父さんに言われていることを思い出して、慌てて口を手で塞ぐ。しかしお父さんは力を緩めることなく、座り込んでいたわたしを、髪の毛を引っ張って膝立ちにさせる。その右手には、木製のバット。わたしはふと、今日のは特に激しいな。なんて思っていた。きっと、余程お父さんの怒りを買うことをしてしまったらしい。
そのまま引き起こされたわたしは、自分の身体に目を落とす。そして、思わず苦笑いを浮かべてしまいそうになる。それほどまでに、わたしは甚振られていた。
ワンピースから除く自らの手足は、どこもかしこも痣だらけ。所々から出血しており、ほとんどは上から乱雑に巻かれた包帯に染み込んでいるが、新しい傷口からも血は垂れている。そしてショーツは脱がされ、左足にぶら下がっていて。足の間が熱を持って痛んでいるのは、きっといつも通りの理由だろう――生理であろうと、お父さんは関係なしにわたしを犯すから。
ふと口に血の味が滲むのを感じて、手を額にやる。ぬるりとした感覚は、手のひらを見ずとも、理由が分かる。頭をこのバットで殴られたのだろう。
震える手を伸ばして、お父さんの手を上から掴もうとする。なにせ、前髪をひたすら引っ張り続けられるのは、耐え難い痛みが伴うから、せめて上から抑えておこうとする。だが、その手をすぐに引っ込めて、ぶら下げる。そんなことをすれば、余計に怒られてしまいかねない。
今が一番最善の状況と説いた哲学者は誰だったか。とにかく、わたしはこの状況をせめて崩してしまわないように努めて心掛けながら、お父さんの方を見つめた。
今にも振り上げられる木製バットを見て、それでも最善説を唱えることが出来るなら。
きっとその人は気が触れている。
「おはよ」
飛び起きたわたしに気付き、先生は灰皿にゆっくりと煙草を置く。わたしは辺りを見渡し、どうやらあれが夢だったと理解した。全身にびっしょりとかいた汗で、身体が冷えるのを感じながら、下を向いて息を整える。そして、現状の理解に努めた。
こんな時に限って、記憶とは皮肉なもので、あっという間にすべて思い出してしまう。
気を失う前、半狂乱になってしたこと、言ったこと、されたこと、言われたこと。それらが瞬く間に脳裏に浮かび、そしてすべて思い出して。わたしは目の合っている先生に、どうやらとんでもないことを口走ったと、理解した。
服は、着せられている。しかしわたしの服じゃない。きっと、先生の服だろう。下着は、上はつけておらず、下だけ履いているらしい。髪の毛はまだ湿っていて、どうやらわたしが気を失ってから、それほど時間が経ってはいないことが分かる。
わたしは、服を着させてくれて、布団に寝かせてくれた先生に感謝を抱きながら、ベッドから降りて、服を探す。その様子を、何も言わず、きょとんとした様子で見ていた先生は、わたしが荷物をまとめて玄関に向かったところで、ようやく口を開いた。
「え、ちょ……どこ、いくの?」
「……っ、ご、ご迷惑、おかけしました。すみませんでした」
ここに居てはいけない。そんなことが分からない年齢でもないのだ。年上の、それも先生で、好きな人に対して、あんな酷い言葉を泊めてもらっている状態で口走って、それでも世話を焼いてくれて。そんな優しい人に、これ以上の迷惑はすこしでもかけられない。それに、わたしがああなるのは何も今回が初めてではない。すでに何度も、先生に最近、迷惑をかけている。
わたしは玄関のカギを開けて、ドアノブを掴もうとする。そこで後ろからどたばたと音がして、すぐに先生が駆け寄ってきた。そして、わたしの肩を掴む。
「待って」
「駄目、です」
「……待ってって、言ってるよね」
後ろからの声が、少し低く響く。わたしはそれに身体が硬直する。恐る恐る、後ろを振り返ると、果たしてそこに立っていた先生の表情は、とても険しかった。少なくとも、これまで見たことのないくらいの、怒りを孕んでいるような。そうして理解した。どうやら、帰る前に怒られるらしい。わたしにとってそれは、出て行けと言われることより、恐ろしかった。
男の人が怖いのと同じくらい、大人が怖い。特に、こうして凄まれたりすると、本当に心臓が止まりそうになるほど、恐怖を感じる。手が震え、また泣き出しそうになる。やっぱり、一錠では効かないのだ。情緒が安定しない。思考も纏まらない。気を抜くと、良くないことばかり考えてしまう。先生に殴られるんじゃないだろうか、とか、怒鳴りつけられて叩かれるんじゃないだろうか、とか、酷い言葉を浴びせかけられるんじゃないだろうか、とか。
そんな情景を想像して、勝手に気分を落ち沈めて。悪循環もいいところだ。
「……はい」
「こっち来て」
震えて力の入ったままの手を、ゆっくりとドアノブから離す。それを確認して、先生は先に寝室の方へ戻っていく。後を追って、わたしも続くが、その足取りはとても重たい。荷物が、鉛でも詰められたようにずっしりと肩に食い込むし、一歩踏み出すたびに、息が早くなる。怖い。恐い。
「そこ、座って」
相変わらず低い声で、先生はわたしに再び、ベッドに戻るように示す。それから、火の付いたままだった煙草を消した。わたしはひたすら足元を見つめたままで、蚊の鳴くような声の返事をして、荷物を床に降ろすと、ベッドに腰かけた。そこで先生は近くに椅子を持ってきて、わたしの正面に座った。
怒られる。怒られる。怒られる。怒られる。
「……もっちー」
「ひっ、ご、ごめんなさい」
突如かけられた声に、わたしは身構えていた両腕で、自分を庇う。だが先生は、そんなわたしの腕を柔らかく触ると、ゆっくり、降ろした。わたしは前髪の隙間から先生の顔色を覗くと、優しい顔に戻っているのがわかった。だが、それすら恐ろしい。その優しい顔で、これから怒鳴られるかもしれない。先生がどんな風に怒るのか、そのパターンばかり考えてしまう。
しかし先生は、その声色のまま、ポケットに手を入れる。そして、わたしの手の平に、何かを握らせた。手を開いてみると、それは先生が取り上げていた薬。エチゾラム錠だった。
「先生、あんまりお薬のこととか、詳しくはないけどさ、でも、これきっと、大量に飲むものじゃ、ないよね」
わたしは目に涙が浮かぶのを感じて、震える声で返事をする。するとすぐに先生は焦ったような声で、わたしの隣へ腰を移した。
「ち、違う違う、責めてるんじゃなくて! 大丈夫、怒ってたりなんかしないから! ね?」
「……はぃ」
先生はすぐに枕元へ手を伸ばし、ティッシュを取って渡してくれる。それで涙を拭き、鼻を噛んだ。
「そうじゃなくて、単純に、まず確認として、訊いただけだから。約束する。怒ったりしないし、わたし、話したいことがあるだけだから、それをまず聴いて? それで、聴いた後で、それでも帰りたいんだったら、その時は、先生がちゃんと送るから。だから、ちょっと落ち着いて話、聴いて欲しいんだ」
止まらない涙をティッシュで拭い続けながら、わたしは首を小さく縦に振る。先生は、わたしの肩を引いて近くに寄せると、優しく頭を撫でる。
「このお薬、一日にどれくらい飲んでいいことになってるの?」
涙声を恥ずかしく思いながら、わたしは答える。こうして優しくされると、なんだか余計に涙が止まらなくなって、とても恥ずかしい。
「朝と、夜のご飯の後に、一錠ずつ、です」
処方箋にはそう書かれていたし、お医者さんからも、それは厳重にいつも言われている。あまり守れてはいなくて、いつも次回の通院日よりもかなり前倒しで、通院して、処方されているが。
先生は、頭を撫で続けながら、隣で優しく話を続ける。
「なるほど、食後のお薬なんだね。じゃあ、もっちー、今何錠手に持ってる?」
「いち、に、さん……ろく、六錠です」
「うん。じゃあ先生が今から、全部飲むから、頂戴?」
わたしは慌てて手を握った。そして先生から遠ざける。
「だっ、駄目です、そんな一気に飲んだら、先生、倒れる……」
「なんで? 大丈夫だよ? ほら、頂戴? ね、先生にそれ、返して?」
頭を撫でていた手を肩に回し、わたしにぐいぐいと手を差し出す先生。わたしは必死で抵抗をした。こんなわたしですら、初めて飲んだ時は、一切耐性がついていないというのもあってか、副作用で丸一日、寝込んでしまった。それに何度か、ODしたあと、未だにとてつもなく、良い方向ではなく、悪い方向に作用することも経験している。そんな薬を、先生が一度にこの数。どうなるかは火を見るよりも明らかだった。わたしはこれだけは渡すまいと、必死で抵抗を続ける。
「ねえ、もっちー、返して? 先生のこと、嫌い?」
「い、いやです、返せませんっ」
「じゃあ嫌いなの」
「そ、それは……好きです」
「じゃあ先生に頂戴よ。心配しなくても、ちゃんとお金なら払うよ」
「だ、駄目ですって!」
と。
そこで不意に先生はわたしに寄せていた手を引いて、悲しそうに微笑んだ。
「……ねえ、もっちー」
先生の気持ち、わかってくれた?
もっちーを、好きだってこと。
好きだからこそ、一錠以上は飲ませられないこと。
そう言われて、わたしはまた目頭に涙が浮かぶのを感じる。きっとあの時、先生も、今と同じような気持ちだったんだろう。わたしに怒鳴られて、酷いことを言われて、それでも、望んでいる通りに出来ない。むしろ、嫌がることをしなければいけない。それが本人の為だとしても、本人に嫌われかねない。
そんな気持ちを、先生に味わわせた。わたしは何とも言えない気持ちになって、握りしめた薬を先生に返した。
「ん、ありがと」
それを先生は、ポケットに再びしまった。
「……わたしね」
先生は少し目を赤らめて、わたしを真っすぐに見つめる。その目は柔らかく微笑んでいるが、しかし涙がゆっくりと浮かんで、そして零れ落ちていた。
「もっちーのこと、本当に好きなんだよ。でも、正直、もっちーにとって、一番大事なことは、なにも長生きをすることじゃないのかもしれない。だから、いいよ。もっちーが、どれくらい苦しいのとか、わたしにはわからないから、もっちーが本当に薬を一杯飲んで、それで楽になれるんだったら、先生は、それでもいいかなって思う」
勿論悲しいけどね。そう付け加えて、先生は手で涙を拭った。
「でも、わたしはあんな風になるまで、辛い思いをしてきた人に、健康的に長生きをしろとか、頑張れとか、そんなことは言えないし、言いたくない。勿論、健康的なのが一番だけど……」
そこで先生は袖を捲った。そこに巻かれた包帯に、わたしは心を切り裂かれたような痛みを憶える。
「あ、葵さんっ、そ、それ……」
声が震える。しかし先生は、鼻をすすりながら微笑んだ。
「よかった。また葵さんって呼んでくれるんだ」
嬉しいよ。本当に、嬉しい。そう笑って、包帯に手をかけた。綺麗に巻かれた包帯が、解けて床に落ちていく。そうして現れたのは、かなり深く切りつけられた、何本もの自傷痕だった。そのどれも、わたしが切るよりも深く、今の包帯を剥がした刺激で、血が少しずつ滲み始めていた。だが先生は、そんな腕には目もくれず、ただ涙を流して、わたしを見つめていた。
「もっちーの、気持ち、わたしも分かろうとして、切ってみたんだ。でもね、分からなかった。ただ痛いだけだった。腕が、じゃないよ。心が痛かった」
もっちーが、どんな思いでこれまで暮らして来たのか、全くわたし、これまで知らなかった。そのことを思うと、本当に心が痛かった。そう言って、包帯を巻きなおしながら、先生は言葉を続ける。
「わたし、まあ今25歳で、それなりにしんどい思いもしてきたし、つらいなーって思うこととかも、色々経験は、それなりにしてきたつもりなんだ。それなりにいじめられたことだってあるし、理不尽な目にもあったりしたし、なんでわたしだけって思うこともいっぱいあった。……でも、あのもっちーの話を聞いて、ただ聴いてる時間が、わたしは人生で一番、辛かった。可笑しいよね。聴いてるだけなのに、それで辛いなんて。……もっちーは、もっと辛い、はずなのに」
正直、聴きたくなかった。そう思っちゃうくらい、聴いてるだけで辛かった。
大粒の涙を流して、先生は俯いた。そのまま、顔を抑え、声を上げて泣き始める。
「カウンセラー、失格だよ、わたし」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます