24話:憔悴と混濁
きっと、人にはそれぞれ、許容できるストレスの量があって、その大きさは人それぞれなんだろう。例えるならそれは、人それぞれ容器を持っていて、そこにストレスが入るようになっていて。ただその容器のサイズがコップの人もいれば、バケツの人もいて。自分で量を調整するのが得意な人もいれば、そもそも容器にストレスを入れないようにすることが出来る人もいて。
わたしはその許容量が大きくて、だからお父さんにどれだけのことをされても、それなりに生きてこられた。自殺なんて道は、もう何度も考えすぎて、朝ごはんにご飯を食べるか、パンを食べるか。それくらいの違いでしかなかったけれど、それでも、手首を切ったり、ODをしたりしながら、何とか生き永らえていた。ただ、その許容量が、極端に少ない人だっている。そんな人に、自分のカウンセリングしている生徒が、実は過去に虐待を受けていて、強姦されて、身も心もすっかりボロボロだった。それに気付けなかった。そんな事実を、突き付けてしまった。
それが先生だった。
今思うと、あの先生のあっけらかんとした態度も、やや適当とも取れるような性格も、少ない自分のストレスの許容量を、鑑みてのことだったのかもしれない。容量が少ないからこそ、あまり何事も背負い込まないように心掛けていたように思う。
わたしはきっと、先生にとても残酷なことをしたんだと、今でも思う。
あの後、先生は少しずつ、少しずつ、学校を休むようになった。
八月は、初めの方に一度、頭痛でお休みをしていた。わたしがお見舞いに行くと、先生は玄関で出迎えてくれて、夏風邪をこじらせたみたい。そうやって、力なく笑っていた。
九月は、上旬と下旬に二回。その時もお見舞いに行くと、今度はどちらも玄関先で軽く立ち話をした後、追い返されてしまった。移すといけないから、帰った方が良い。元気になったら、またどこか行こうね。そういって、少し青白い顔で力なく笑った。
十月は、十日から一週間、入院するとのことを本人から聞いた。胃潰瘍だという。お酒の飲みすぎかもね。控えないといけないよ。病院のベッドの上で、先生は少し伸びた髪の毛をそのままに、院内着でわたしに微笑んだ。
勿論、病気の時以外の先生の顔色や、言動には特に問題がなかった。そう、周りの先生たちが陰で話しているのを、何度か耳にする機会があった。仕事も復帰したらその都度追い上げるし、迷惑もかけないように、頑張っているし。
根がまじめな先生だから。そんな噂ばかり耳にして、わたしはその都度、胸を撫で下ろした。
だが、違った。
そんな優しいものではなかった。
鬱病。奇しくもわたしと同じ病気だと診断された。学校を辞めることになった。そんな連絡が先生から届いて、わたしは居てもたってもいられず、その日、電車で先生の家の近くまで駆けつけた。そして玄関の扉を叩く。
「葵さん、葵さん! 望月です! 来ましたよ!」
夕方ごろだったと思う。西日に照らされた玄関の扉は、しかしいくら叩いても返事がない。わたしは仕方なく、ガスメーターの中に隠してある家の合い鍵で、扉を開ける。だがそこで、そもそも鍵なんてかかっていないことに気付いた。空回りをするカギを抜き、嫌な予感で背筋が凍る。
まさか。
死んでたり。しないよね。
ドアノブを捻る手が、氷漬けにされたかのように止まる。指一本として動かせない。息が上がって、視界がぐらぐらと歪み始める。心の中で、わたしは必死に自分の考えを否定した。まさかそんなことが、あるはずない。あの先生が、あんな適当で、不真面目で、生徒と一線を越えるような先生が。
自殺だなんて。
息を止め、ドアノブが手に食い込むほど、握りしめる。そして、わたしは次の瞬間、勢い良く扉を開けた。
数か月ぶりに入る、先生の部屋。うっすらと香る香水に、懐かしさを憶える。だが、その家の中は、部屋を間違えたかと思うほどの惨状だった。だから次に、自殺ではなく、強盗でも入ったのかと疑った。だがすぐに、それらは何も誰かが物色したわけではないと分かる。
リビングで、今まさにタンスから書類らしきものを引っ張り出し、ゆっくりと、まるで丁寧に仕事をするかのように、ぴりぴりと破いている先生の姿が目に移ったから。
「ん、ああ……もっちーか」
やほ。久しぶり。
手に持っていた紙を、床に置いて、先生は立ちあがる。その姿に私は驚きを隠せなかった。
手に持っていた鞄が、指を滑り落ちて玄関に落ちる音がする。
服の上からでも分かるほど、やせ細った先生の身体は、とても痛ましく、どうやらかなり長い間、まともな食事を摂っていないことが見て取れる。髪の毛は伸びっぱなしで、綺麗に整えられていたショートヘアーは、どこにも認めようもない。襟元の伸びた服と、ゆったりとしたジャージすら、かつてとの対比で、なんだか見るに堪えない。そんな状態で、先生はゆっくりと、ふらふらとした足取りでこちらへ歩いて来ようとする。その顔に張り付いた笑みに、わたしは思わず、息を呑んだ。
あまりにも歪で、見覚えのないほど、下手な笑顔だ。愛想笑いも甚だしい。
胸が締め付けられる気持ちになり、痛ましいとすら思えるほどの。
「ごめんね、ちょっと部屋の片づけしてたから、散らかってるんだけ、ど」
言いながら、わたしが歩く隙間を開ける為だろう。辺りに散らばった本や服、小物類や鞄たちを押しのけて、近づいてきた先生は、玄関で立ち尽くしたままのわたしに、きょとんと首を傾げる。そして、手招きをした。
「入らないの?」
「あ、えと……お邪魔、します」
ようやく我に返って、わたしは極めて平静を装った。靴を脱いで、急いできたせいで振り乱した髪の毛を手櫛で整える。そして、鼻を突く匂いに顔を顰めた。
通りがかった匂いの元を辿って、視線を泳がせる。そして辿り着いたのは、シンクだった。どうやらかなり長い間、先生は洗い物もしていないらしい。三角コーナーで干乾びて、腐ったカップラーメンの残りが、その匂いの元らしい。そのほかにも、使い終わった割り箸とか、お皿、フライパンにこびりついたよくわからないものを見て、慌てて目を反らす。
前を、よろよろと歩く先生に連れられて、先ほど座り込んでいたリビングまでようやくたどり着いたわたしは、進められてソファに座る。そして、なるべく辺りを見渡さないように心掛けた。
先生は隣に座ると、細く溜息を吐く。
「久しぶり、だね」
最近学校行けてなかったから、寂しかったって思ってたんだ。会いたいなーって。そういって、静かに目を細める。その笑顔に、かつての先生の面影を浮かべながら、わたしはしかし、微笑み返せるほどの余裕はなかった。どうやら、先生自体、かなり長い間、満足にお風呂に入っていないのだろう。近くで見ると、肌はすっかり荒れてしまって、顔色も悪い。それを誤魔化すために、化粧と香水が数か月前と比べて、かなり濃くなっている。きっと、今日は出かける用事があったのだろう。連絡の文面からするに、学校に来ていたのかもしれない。
かすかに匂う、饐えた匂いが鼻の奥で不快さを増す中、わたしはふと思い出して、鞄から道中買ってきた缶コーヒーを二つ、取り出した。どちらもブラック。秋口になり、暖かいものも売っていたが、先生は猫舌だから、両方とも冷たいものを選んだ。それを差し出すと、先生の顔に少し笑みが戻った。
「なに、買ってくれたの? ほんとに優しいんだね」
「い、いえ、むしろこれくらいしか、今日は準備できなかったんです。申し訳ないです」
わたしも少し微笑んで、先生に手渡す。先生はすっかり節の張った細い指でそれを受け取ると、プルタブに指をかける。だが、爪もかなり長い間、手入れをしていないらしい。そのままでは爪が割れてしまいそうだったので、わたしは慌てて自分の持っている缶コーヒーを開けて、それを先生に差し出した。
「あ、こっち開けたので。……どうぞ」
「ああ……ありがと」
改めてそれを受けとる先生。
きっと、窓もかなり長い間、締めきっているのだろう。生温い、カビ臭い空気が部屋に漂っている。カーテンの向こう側は、夕焼けがかすかに差し込んでいるが、それを開けようとはしない。むしろ、カーテンの隙間から光が漏れないように、だろうか。クリップで乱雑に留めてあるのが目に入る。それに玄関先に、先生の靴がなかったことも思い出した。もしかしたらこの部屋の中か、それとも下駄箱か。先生の性格のことだ。普段から外出を良くするなら、いちいち出しっぱなしにはしないだろう。ということは。
「わたしね」
消え入りそうな先生の声に、わたしはびっくりして顔を上げる。隣で、缶コーヒーを両手で包むようにして持って、先生は煙草の箱に手をかけていた。中から一本取り出して、口に咥えると、火をつける。
嗅ぎなれた煙草の匂い。それが部屋に煙を生じて充満すると、少し咳き込みながら、先生は震える指で灰皿に灰を落とす。それから机に手を置いたが、煙草の先端は、尚も手の震えで小刻みに揺れていた。
それに気づく様子もなく、先生は部屋の壁をぼうっと眺める。わたしはひたすら、先生の言葉を待った。
すると程なくして。
「学校、やめちゃった。……ううん、辞めさせられた、クビになったって方が、正しいのかな」
首から垂れる汗が、胸元に流れていく。額にも、首筋にも、背中にも、びっしょりと汗が滲んだ。
先生は続ける。
「でも、そうだよね。こんな風に、鬱病で、働いてる場合じゃないから、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。何よりも今は、自分のことを優先しなさいって、先輩の先生に言われちゃってさ」
その目に感情は宿っていない。吸い込まれそうなほどの無感情だけが、そこにはあった。
「それに、ね。薬も貰ったんだけど、全然効かなくてさ。ずっと頭がぼうっとするし、なんか、何もやる気が出ないっていうか……」
そこでコーヒーを飲んで、煙草を吸う。それから、再びこちらに、力なく微笑んだ。
「ごめんね、生徒にする話じゃないよね」
そうして自嘲的な笑みに変わる。
「まあ、もう先生じゃないんだけど」
「そ、そんな」
そんなことないです。葵さんはわたしの先生です。
なんて言いかけてやめた。きっと今ここでそんな言葉を吐くのは、わたしのエゴだ。きっと、今言うべきなのは、そんなことじゃない。
今で精一杯、いっぱいいっぱいの先生に、これ以上、先生なんて肩書き。その重荷を背負わせてはいけない。
「……先生じゃないなら、いいじゃないですか?」
何が? と言いたげな顔で、先生はゆっくりとこちらに首を向ける。わたしは、缶を握りしめた。
「先生じゃないなら、弱音吐いても、良いと思います」
うまく言えないけれど。
「わたしが悩んでること、いつも先生聞いてくれてたじゃないですか。だから……今度はわたしが、先生の悩み、聴きたいです」
「ふふっ」
何をどう話せばいいのか、自分でも分からない。わたしは言葉をあれこれと思案しながら、テーブルに俯いて、ひたすら言葉を繋いだ。それに反応するように、先生は隣で少し笑う。その声に、わたしは少し嬉しくなって顔を上げた。
そして顔を見て、自分の上がっていた口角が、強張るのを感じた。
「なにそれ」
張り付けた笑みの先生が、じっとわたしを睨んでいた。
「……え?」
「なに、じゃあわたしはもう、先生じゃないってこと? ……もう、二度と先生には戻れないの?」
支離滅裂なことを言われ、わたしは戸惑いを隠せない。しかし、それでも向き合おうと歯を食いしばる。
今一番つらいのは。
この人だから。
わたしは何を言われても平気だから。
そう心に言い聞かせるが、それでもずっと優しかった先生が、こんなに弱り切ってしまって。そのやせ細った喉から震えて出て来る怒りの言葉は、予想以上にわたしの心を抉った。
「もっちーの中で、わたしはもう、先生じゃないってこと?」
「そ、そういうわけではないです、けど」
「じゃあ」
じゃあ何。
わたしは何。
もっちーにとって、何なの。
気が付くと、先生はわたしの肩を、掴んでいた。その力のなさが、更に胸を苦しめる。
わたしは掴まれるがまま、悲しみとも怒りとも取れる先生の顔を、せめて見つめ続けた。
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