22話:怒号と悲鳴

「い、言いたくない、訳じゃないです。で、でも……」

 一度言葉を切って、わたしは口の中に広がる苦いよだれを飲み込む。

「先生に、こんなこと話すのは、迷惑、かもしれないし、先生に、嫌われるかも、知れない――」

「嫌わないっ」

 先生は、少し悲痛さを伴う声で、わたしの言葉を遮った。

 肩が明確に痛むほどの力を込め、先生は唇を噛みしめる。わたしは恐怖を感じて、押し黙ってしまった。その沈黙が少し続いた後、先生は改めて唇を開く。

「みんな、大事な先生のクラスメイト。それは間違いないけれど、それでも……。それでも、もっちーは特に大事に思ってる。だから、言いたくないわけじゃないなら、言って欲しい。……迷惑だなんて、思わない」

 真っすぐとわたしを見つめる双眸に気圧されて、わたしは眩暈を起こしたような錯覚を覚える。だが、その目から反らすことすら、許さないというほど、先生の迫力は強かった。

 観念して、わたしは口の端から息を漏らす。そのまま、数度落ち着けるように深呼吸をしてから、途切れ途切れの言葉を吐き出し続けた。

「……わたし、は、半年前まで、お父さんと、二人で暮らしてたんです。で、お父さん、わたしが学校に行くのも許してくれないほどで、なんか、外は危ないとかって。それに……。それに、わたしのこの病気もその頃からで、それで、外に出したくなかったんだと、思います。そ、それに、わたしも学校には、行きたくなくて、その、友達がいないし、話せないから、家に、いました」

 話しながら、すぐに声が震え始めるのを自分でも感じる。そのまま目頭が熱くなり、堪える間もなく涙が、後から後から、頬を伝って、口の中に垂れる。

 お父さんに怒られてる時の味だ。

 そう言えば、お父さんによく怒られていた。人と話すときは、目を見ろって。わたしはそれを思い出して、都度都度反らしながらも、それでも先生の方に目を向ける。

「っ、で、でもっ、お父さん、怒ると、その、手が出る人だったから、わたし、怖くて……こ、怖くて、い、つも、部屋の隅で、隅の方で、お父さ、んに、殴られてて、でも、わたしが悪いんです。いつも、お父さんの、言うこと。っを、1回で、出来なくて、いつも、怒られてて、それでも、しないとって思うのに、出来なくて、迷惑かけて、だっ、だから、殴られても、仕方ないって、思います。で、でも、それだけじゃなくて、そ、っうぅっ、っはぁ、う、ぅ」

 そこまでが限界だった。

 わたしは口を手にやって、必死に呼吸を整える。しかし意に反して、何度も胃がせりあがるような感覚で身体が震える。口の中に胃酸の味が広がって、それがさらに嘔気を催させる。何度も唾を飲み込むが、吐きそうな感覚と相対して、胸に唾が痞える。何とも言い難い激痛が走り、息が荒くなる。

 そんな様子に、それまでわたしの言葉をじっと聞いていた先生は、我慢できないという様にわたしの肩から手を離す。慌てた様子で、それからわたしの背中をさすろうとしてくれる。

 だがわたしは、その手を払いのけた。

 涙を堪え、吐き気を押し殺し、先生を睨みつけるように向き直る。

「だ、だいじょ、っぅ、うぶです、話せ、ます、話せます、からっ」

 息が震える。吐き気はずっと止まらないし、胸にせりあがってくる胃酸で、喉がひりひりとする。口を開くのもしんどいくらいだ。それでも、わたしは言葉を続けようとする。しかし先生は最早平静を欠いた様子で、払いのけられた手を、もう一度近づけてくる。

「でも、もっちー、しんどそうだし――」

「やめて、くださいっ!」

 怒号が、浴室に反響する。

 わたしは更に強く払いのけた自分の手を、ゆっくりと降ろしながら、今度こそ、歯を食いしばり、息を漏らしながら、先生を強く睨んだ。

 そんな慰めなんて、望んでない。

「葵さん、が、話すように、言ったじゃないですか」

 わたしがこうなる可能性もわかっていて。

 家に来た段階で、お父さんがいないことを知っていて。

 それでもわたしが頑張って話そうとしたところで、今度は聴くに堪えないから、止めるなんて。

 無責任だ。

「先生が、言えって、喋れって、いうから、わたし、言って、るんです」

 息も絶え絶えに、わたしは先生を睨みつけながら、呪いのように言葉を吐く。先生は悲しそうに顔を歪め、視線を反らした。しかし、強く噛まれた唇から、言葉が出ることはない。わたしは更に続けた。

「最後まで、聴いてください。自分勝手なこと、しないでください」

 再び込み上げる吐き気を押し殺すように、自らの首に手をかけると、少し力を込めた。その姿が、先生には自傷に及ぶと映ったのだろうか。一瞬、焦ったような表情でわたしの方へ手を伸ばしかけたが、すぐに元の位置に戻る。

 そして、足を曲げて、座り直す。わたしもまた、いつ我慢できなくなってもいいように、その場で膝をついて、前かがみに座り直す。

「…………それだけ、じゃなくて、お父さん、わたしが中学に上がってからも、手を上げるのは続いて、それに、高校に、上がる前、くらいから、わた、わたしっ、に、乱暴を……するように、なって、わ、わたし、でも、あの家、にしか居場所、なくて、行くところ、なんてないし、お金も、ないし、誰も、誰も助けて、くれなくてっ! た、耐えるしか、なくて」

 今度こそ、胃の中身が口の中に出てきたのを、わたしは咄嗟に口を閉じて溜め込む。そのとても気持ち悪い感覚に思わず立ち上がると、急いで浴室を出た。それから、向かいにあるトイレの扉を開けて中に転がり込むと、そのまますぐに胃の中身をすべて吐き出した。

 何度も何度も。最後、胃酸も出てこなくなるまで、何度も。

 先生と食べたグラタンも、ケーキも、コーヒーも、ウィスキーも。何もかもを、トイレの中に落としてしまう。

 勿体ない。とても惜しい気持ちを憶えるが、吐き気はそれでも止まらない。頭の中ではずっと、お父さんにされたことが、でたらめにフラッシュバックしている。それを思い出さないように心掛けても、全くの無意味だった。

 殴られたこと。怒鳴られたこと。髪の毛を掴まれて、お腹を殴られて、部屋の隅に追い詰められて、頭を壁に打ち付けられて、手首を力任せに捻られて、蹴り飛ばされて。

 せめて役に立てと、凌辱されて。

 身も心も、侵されて、冒されて、犯されて。

「ねえ、もっちー、大丈夫?!」

 そんな先生の声が後ろから聞こえる。だが、今のわたしには遠くの方で聞こえるように、靄がかかっていた。まるで、水の中から外の声を聴いているような、そんな感覚。

 胃酸も出なくなり、よだれも出なくなり、唾も吐けなくなり、とうとう一人でトイレに向かって唸ることしかできなくなったところで、わたしは少しずつ、脳裏に浮かんでいた過去の記憶を、再び胸の奥にしまい込めていた。段々と、酔いが醒めていくように、頭に掛かっていた靄が晴れていく。それと同じく、先生がわたしを呼ぶ声も、身体の感覚も、少しずつ、戻ってきた。

 だが、それは何も快復したわけではない。むしろ、これまで麻痺していた苦痛が、顕現していくようだった。

 息はどうにも浅くしか吸い込めないし、視界はずっとぐるぐると、ミキサーにかけられたようにぐちゃぐちゃに回っている。手足の先の方は冷たく痺れて、身体に力が入らない。どんどん、抜けていく。

 吐き気の次は、過呼吸を起こしているらしい。頭の片隅で、そうわかった。

 わたしは先生にかけてもらったバスタオルを床に落としながら、その力の入らない身体で、今度はトイレを出る。先生は心配そうに、わたしの身体を支えようとしたり、触れようとするが、少なくとも今、それに対して感謝できるほど、余裕はない。

 身も心も。

 こんなになったのは、誰のせいだ。

 あなたのせいだよ。

 先生。

「ねえ、もっちー、ほんと大丈夫?! ちょ、どこいくのか教えてって、ねえ!」

 うるさい。

「なにか欲しいの? 薬? わたしが代わりに取ってくるから、待っててって!」

 うるさい。

「リュック? その中に入ってるの? ほら、チャック開けてあげるから、まってて」

 勝手に触るな。

「ほら、どこ? どこに入ってるの? お、お水、お水組んでくるね!」

 戻ってくるな。

 一人にして。

 今は何もして欲しくない。

 いくら心の中で悪態を吐いても、それを口に出すことは叶わない。むしろ、一層激しさを増す過呼吸で、手先の感覚すらない。わたしは先生の開けてくれたリュックサックを逆さまにして、自分の財布やら着替えやらが、床に散らばるのを見ると、その中に薬の入ったポーチを見つける。

 邪魔なものを退かすつもりが、力加減すら碌に出来ないらしい。辺りに物を散乱させ、ポーチを掴んだ。そこでペットボトルを持ってきた先生が、傍に座り込む。だが、わたしがポーチを掴んでいるため、何をしようか、手持ち無沙汰な様子を見せていた。

 そんな様子を横目に、わたしはそのポーチから吸入薬を取り出す。

 シムビコート。

 残数があることを確認して、わたしはキャップを取ると、それをそのまま床に落とす。そして左右にカチカチと音がするまでまわしてから、大きく息を吐いて。

 それを吸い込んだ。

 無味無臭。かすかに喉に残る、粉のような感覚が、肺の中ほどまで届いた感覚を憶える。本当は、大きく息を吐いてから、深呼吸をするように吸い込まなければいけないのだが、少なくともこんな風に過呼吸になっている状態で、これを奥深くまで吸い込むなんて、不可能だ。

 それに、これが過呼吸に効くかどうかもよくわからない。何せ、この薬は喘息の発作を抑えるため、気管支を広げる薬だ。一応、それなりに効果はあるので持ち歩いているが、これで万事解決するわけではない。

 わたしはようやく、少し気持ち的にも楽になったところで、少し感覚の戻ってきた手先で、更にポーチを漁る。そしていつもの薬を取り出した。

 床に這いつくばって、包装から薬を4、5錠取り出す。それを手に取ろうとしたところで、先生にポーチと薬を奪い取られた。

 この人はわたしを殺す気なのか。

 怒りの篭った目で、わたしは先生を睨みつける。

「返して、ください……」

「……っ、駄目だよ」

 先生はとても悲しそうな顔で、そのポーチを脇によける。わたしが折角、必死になって取り出した薬たちも、一緒に手の届かないところに置いて。

 一錠だけ、わたしに差し出して来た。

「この間、調べたの。この薬、そんなに飲むものじゃないでしょ」

 はっきりとした語調で、先生はわたしに言いつける。だが、そんなことは百も承知だ。それでも、一度こうなってしまったら、一錠なんかじゃ効果がない。だから何錠も飲む。

 長生きとか、健康とか、そんなものには興味ない。

「そんなこと……わかってます」

「じゃあ猶更駄目だよ」

「……ぅうるさいなあもう!!」

 とうとう我慢できなくなって、震える喉から声を絞り出す。すぐに後悔の念が頭をいっぱいにするが、一度出してしまった言葉は、後から後から、湧いて出てきて、留まるところを知らない。

「なんなんですか! そうやって、わたしの薬まで管理して!! 一錠じゃ効かないから、それくらい飲まないと、またしんどくなるから、飲もうとしてるんです! なのになんで止めるんですか! わたしを苦しめて、先生は楽しいですか!? わたしのこと、好きっていうなら、なんであの時、話させたんですか?! 話させなかったら、こんな風に苦しくなんてなってないのに、その上、薬まで取り上げて! そんなにわたしのことが嫌いなら、殴ればいいじゃないですか!! ねえ、嫌いなんでしょ、わたしのこと!!」

 わたしは薬を手に入れるため、そして先生に怒りをぶつけるため、身体を動かして、必死に先生の身体に近寄る。裸の足と手が触れて、そのまま先生とわたしの顔が、正しく目と鼻の先に近づく。しかし先生はそこで、わたしの肩を手で抑えつけた。きっと、わたしが後ろにある薬を奪い取ろうとしていることに気付いたのだろう。

「ごめん。でも、これだけは渡せない」

 冷静な顔で、少し眉間に皺を寄せて、冷たく言い放つ先生。その冷静な態度に、わたしは余計に怒りが込み上げる。

「ふ、ふ、ふざけんな、ふざけんなよ。……ふざけんな!! じゃあ、こんな風になった責任は、どう取ってくれるんですか! 頭は痛いし、手足は冷たくてジンジンするし、さっきから視界はぐちゃぐちゃだし、喉は痛いし、吐きそうだし、さっきからお父さんの声が聞こえて、ずっと耳元で怒鳴ってるのに! 怖いんです! ねえ、どうしてくれるんですか?! どうやって、助けてくれるっていうんですか!! ほらもう今も、ずっと、ずっと、ずっと!!」

 麻耶。お前が悪いんだ。ふざけんな。いい加減にしろよ。殺すぞ。死ね。消えろ。クソが。出ていけ。

 そんな声がひたすら、もういないはずのお父さんの声で永遠と、耳元に流れ続ける。そんな恐怖を消すために、薬が欲しいんです。

 そうどれだけ伝えても、先生は頑なに譲ろうとしない。とうとうその薬とポーチを、部屋の隅に投げ捨ててしまう。

「もっちー、本当ごめん。……ごめん、でも、とりあえず飲んで。それから、わたしのこと、気が済むまでもっちーの好きにしていいから。殴っても、蹴っても、何してもいいから……だからお願い」

 あんな量、飲んだら本当に死んじゃうよ。

 先生はいつの間にか、目を真っ赤にして、涙を流していた。

 それに気を取られた一瞬。

 先生はペットボトルを手に取ると、水を口に含み、次いで薬を含み。

 わたしのことを押し倒す。

 頭に添えられた手のお陰で、床に後頭部がぶつかることこそなかったが、それでもわたしは、途端に恐怖を憶える。

 殴られる。

 そんな恐怖を。

 胸が恐怖でざわめき、身体全体に怖気が走る。息が詰まりそうになり、生唾を飲み込む。

 そんなわたしの唇に、先生は自分の唇を当てて。

 生温い水と薬が、気が付けば口の中に入ってきて、わたしは驚いて、思わず飲み込んでしまった。

 そして、そんな恐怖に当てられて、わたしはその飲み込んだ薬と、先生の涙が頬に当たる感覚を最後に、意識が急激に薄れていくのを感じた。

 いつも通りの感覚。足の先の方から、冷たい水が一気に競り上がってきて、脳天に達するような感覚。

「……好きだから、こうするんだよ」

 抱き締められた感覚が、薄れゆく意識の中、全身で感じられた。

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