21話:傷と対比

 自分の家よりも、かなり広々とした湯船に足を入れると、心地よい熱が足先から、ゆっくりと染み込んでいく。そのままわたしは、湯船に肩まで浸かると、両足を伸ばした。波打つ湯が、静かに音を立てて、身体全体を包み込む。手首からヘアゴムを取ると、それで髪の毛を括った。

「……あったかい」

 こんな風に、広々とした湯船に浸かるのは、どれくらいぶりだろうか。少なくともわたしの家は、膝を曲げて入らなければならないような大きさだし、ラブホテルの湯船だって、使うことはない。大抵、シャワーで済ませてしまう。となると、やっぱりお父さんと暮らしていた頃の、あの家以来かもしれない。

 二階建ての、大きな一軒家。今あの家がどうなってしまったのか、わたしは良く知らない。家賃を払う人が居なくなり、戻ってきたとしても、確実に数年後。そうなった家は、やっぱり他の誰かに買い取られてしまうのだろうか。それとも、取り壊されたりするのだろうか。

 まあ、どちらにせよ、決して楽しい思い出なんかはない、そんな家だった。いっそ、取り壊されて跡形もなくなっていればいいのに。なんて思った。お父さんとの思い出なんて、この世から全て、消えてしまえばいいのに。それこそ、お風呂だって、いい思い出はない。憶えているのは、私が何か失敗をした時、お父さんにされたことだった。後ろの髪の毛を掴まれ、怒鳴りつけられながら、何度も何度も、水中に頭を突っ込まされて、苦しくて、いっぱい水を飲んでしまって、気管にも入って。むせて顔を上げても、すぐにまた浴槽の中に頭を突っ込まされて。呼吸が出来なくなって。死にそうになって。頭を上げさせられる度に、ごめんなさいって、何度も言わされて。

 地獄とは、まさにあの頃を差すのだろう。きっと、あれに比べたらわたしのこの先の人生に起こる、辛いことなんて、なんてことも無いように思えてくる。それくらい、わたしにとって、あの頃の生活は、酸鼻極まるものだった。今だって、思い返すだけで胃がきりきりと痛む。

 だから、唐突にがらがらと音を立てて、お風呂場の扉が開いた時、わたしは思わず大きな声を出してしまった。身体がびっくりして跳ねて、危うく湯船に溺れかける。浴槽の縁を掴んで身体を支えながら、すぐに姿勢を正した。こんな風に、ゆったりとした体制で過ごしているのを見られたら、またお父さんに怒られてしまう。

「ごっ、ごめんなさ――あ、葵さん?!」

「おまたせー」

 驚愕に次ぐ驚愕。

 そこに立っていたのは、果たしてお父さん。ではなかった。当たり前だ。冷静になって考えると、お父さんがここにいるはずがない。そこに立っていたのは先生だった。裸で、であるが。

 わたしは咄嗟に目を背けてしまう。裸より、もっと過激なものをお互いに見せ、見られた間だから、今更一緒にお風呂へ入るくらい、どうってことはない。はずなのだが、わたしはどうにも、そんなあられもない先生の姿を直視できなかった。

 というか、まず。

「え、あっ、一緒に、入るんですか?」

 目を背けたまま、わたしは口を開く。

「わたし、てっきり、先入っといて、って言われてたから、後から入るのかなって思ってました」

「ん? うん。だから、後から来たでしょ?」

 なるほどね。

 順番の話ではなく、後から追いかけて入るから、という意味だったらしい。いや、だったら恥ずかしいから、上がりたいくらいだ。

 勿論、この家のお風呂はとても広い。二人が一緒に入るくらい、造作もないだろう。だが、わたしの気持ち的には、色々と問題だらけというか。逆上せたわけでもないのに、顔が熱くなる。そんなわたしに気付いていないのか、あるいは気付いたうえで面白がっているのか、先生は後ろ手にお風呂場の扉を閉めた。それから浴槽の縁に左ひじをついて、顎を乗せているわたしの隣へ、浴室用の椅子を持ってくると、そこに腰かけた。

 シャワーを捻り、頭にお湯を浴び始める。綺麗な髪の毛を伝い、身体へと流れ、柔らかなお尻を伝って、床へ流れていく。それからシャンプー。コンディショナー。メイク落としに、洗顔。

 そしてボディソープを手に取ると、それを自分の身体に、手で塗り伸ばしていった。

「……な、なにかなぁ?」

「へ?」

 そこでようやく口を開いた先生は、明らかに苦笑していた。

「いや、そんなに見つめられたら、流石のわたしも……恥ずかしいよ?」

 両胸を隠すように、泡立った手を胸の前で交差させながら、先生は珍しく、顔を少し赤らめていた。そんな普段見られない表情に、わたしは少し物珍しさを憶えながら、自分のことへ目を向ける。

 湯船の縁に両腕を組んで、その上に顎を乗せて、身体ごと先生の方へ。

 ……これはいけない。

 見る気満々って感じ。

 わたしは慌てて、足を伸ばして、湯船に身体を沈める。

「すみません、つ、つい、綺麗で……」

 ベッドの上でも思っていたことだけど、本当に先生の身体は綺麗だ。身体は普段から日焼け止めなど、気を使っているのか、とても白い。腕や足はとても細いし、モデルのよう。お腹のくびれなんかも、とても綺麗で、羨ましい。

 そんなことを考えていると、先生は身体を洗い終わったのだろう。ぽたぽたと水の滴る身体で、浴槽の縁を跨いで、わたしの正面へ足を入れる。足を曲げて場所を作ると、そこに先生も座り込んだ。湯船からお湯が、少し音を立てて洗い場に流れていく。

 そこで、先生は浴室の中で足を曲げて座り込むと、やや前かがみになる。必然、わたしと先生の顔が近づく。視界に大きく広がる先生の顔。だが、どうやらまたぞろ口づけをする、わけではなかった。そのまま先生は、わたしの身体を舐めるように、隅々まで見つめる。そんな様子をしばらく、どんな意図で行っているのか想像がつかないまま、わたしはただ疑問に感じていた。だが、一通り眺め終わったところで、先生はようやく口を開く。

「あのさ、もっちー」

 さっきから思ってたこと、なんだけど。と、そう前置きをして、先生はわたしの両肩に手を置く。そして真っすぐ、顔を見つめる。その先生の顔は、またいつかの時のように、難しい顔をしていた。もっと言うと、単に怒っているようにすら見える。

 実際、怒っているのだろう。この後の言葉を聞いて、わたしはそれを確信した。

「身体の傷、なにこれ」

 片眉を吊り上がらせ、伺う様な、詰問するような、怖い顔。わたしは思わず、胸が強く締め付けられるのを感じた。そして、咄嗟に言い訳をしてしまう。

「こ、これは、ほら、前にも言ったじゃないですか。その、自傷行為で……」

 言いながら、左腕に付いた傷を示す。それから、同じようについた左肩と、左太ももの蚯蚓腫れを。だが、先生の目は、まるでそこで固定されたかのように、じっとわたしを睨みつけて離さない。

「うん、それはその傷かもね」

 じゃあこっちは? 言って、先生の細い指が、私の脇腹にある、治りかけの痣を指差す。そのまま、体中に点在する、無数の傷跡を指差していく。

「じゃあこの傷たちは?」

 わたしは流石に言葉が詰まる。そうだ、念願の先生に抱かれたい。そんな思いばかり先行していて、すっかり忘れていた。服を脱いでしまった。

 基本、仕事でも人前では服を全部脱がないように、努めて心掛けているというのに、すっかりやってしまった。そうなると、もしかすると先生が今、お風呂に後を追って入ってきたのも、これを確認するためだったのだろうか。わたしは暖かい湯船に浸かっているはずなのに、頭から冷や水をかけられたような気持ちになる。

 いや、実際に冷や水をかけられたことはあるけれど。

 沈黙が耳に痛い。口を開こうにも、上等な返答が出てこない。何を言っても駄目だ。詰んでいる。誤魔化せない。そんな風に必死で逃げ場を探すわたしに、先生は掴む肩に、少し力を入れた。顔を更に近づける。

「クラスメイト?」

 クラスメイト。

 ……。

 ……。

 ……。

 意味が分からない。どういうこと? 先生は、何を訊きたいのだろうか。わたしは思わず、きょとんとした顔を浮かべてしまう。すると先生は、流石に言葉足らずだったと気付いたらしい。付け加えるように口を開く。

「だから、もっちーにこれをした相手。クラスメイトの誰かなの?」

 わたしは慌てて首を振った。

「ち、違います違います! 別にいじめとかじゃないですよ?!」

 別にクラスメイトの人たちに、これといった思い入れはないし、庇う義理もない。とはいえ、流石に無実の罪で、怒られたりするのはいくら何でも理不尽だ。わたしは必死で否定する。だが、それが余計に先生には怪しく映ったらしい。怪訝そうな面持ちを崩さないまま、更に詰め寄ってくる。

「本当に? 脅されてるとかじゃ、なくて?」

「いやいや、本当ですって!」

 どうやら、先生は本当にいじめの可能性を疑っているらしかった。しかしよく考えればなるほど、そう思ってしまうのも無理はないのだろう。実際、わたしの身体にある無数の傷跡を見た、事情を知らない人は、確実にそう思うことだろう。学校で起きたいじめによるものだと。まさか、その父親がこの傷を作った張本人だとは、思うまい。

 しかし現実は、そうではなかった。実際に、わたしの身体にある傷で、それこそ手首と肩、それから太ももについてある切り傷。自傷行為によってついた傷はそれくらいのもので、後の全身に広がる傷跡は、すべてお父さんによってつけられたものだった。

 首に今もうっすらと残る、細い紐の痕も、鎖骨や肩から胸部、腹部、腰部、大腿部、下腿部、果ては背中にも、まだ残っているかもしれない。殴られたり、蹴られたり、煙草の火を押し付けられたり、首を紐やネクタイで絞めつけられたり、バットで殴られたり。

 幸い、顔に傷がつくことは滅多になかった。それに、お父さんと別れてから通っている整形外科の先生の処置の甲斐もあって、首から上の傷は、かなり良くなっている。今ではたまに、経過観察でしか通院していない。というか、それよりも今はもっぱら、精神の方を優先しているくらいだから。

「あのね」

 先生はわたしの肩に掛ける指に、強く力を込める。少し痛くて、顔を顰めてしまう。

「先生はあくまで先生。もっちー本人じゃない。だから、もっちーが話したくないって思うなら、話さなくていい」

 けれど。

「もしいじめられてるんだったら、先生は見過ごせないな」

 いじめじゃないなら、誰にやられたの? と、先生はわたしの肩からそこで手を離した。

 じんじんとしびれるように痛む肩に手をやりながら、わたしは目を反らす。

「それは……」

 シャワーヘッドから、雫がぽたりと、床に落ちた。その音が嫌に大きく、浴室に響き渡る。

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