19話:ウィスキーと未成年飲酒

 顔が真っ赤に染まったわたしを見て、先生は何とも言えない、嬉しそうな顔を浮かべる。時々、この表情が垣間見えることをわたしは知っていた。きっと心境としては、年頃の女の子をからかうのが楽しいとか、そういう感じなのだろう。だが、わたしの方としては堪ったものではない。なにせ、誰よりもキスをしたいその相手が、正しく目の前にいて、キスの具合を聞いてくるのだ。

 心臓に悪いとか、そんなものではない。そりゃあ顔も赤くなるし、恥ずかしさで俯いてしまうのも、仕方ない。

「ま、まあ……言いますね、気持ちいいって」

 強いて言うなら、気持ちいいのはキスというよりは、もっとそれ以上の行為を差してだと思うが、それを言えるほど、わたしは先生に対して積極的ではない。むしろ、こんなにも零れそうな好意を抱きながら、初めの一歩すら踏み出せずにいる、奥手も奥手だ。

「え、なになに、したこと、あるの!?」

 再び身を乗り出して、先生はこちらに顔を近づける。どうやら興味がお有りのご様子。わたしは、なんと答えるべきか悩んでいたが、結局、首を横に振った。

 嘘を吐いた

 訳ではない。少なくとも、キスはしたことがなかった。といっても、ロマンチックにファーストキスは初恋の人に捧げる。なんて高尚な気持ちは抱いていない。ただ、タイミングがなかっただけだ。少なくとも、お父さんはそういうことはしてこなかったし、わたしを買ったこれまでの人にも、それは断っていた。

 断っていた理由も、単に気乗りがしないだけだった。

 しかしこうして、目の前で色めき立っている先生を見ると、わたしはなんとなく、報われたような気持ちになる。

「へえ、ファーストキス、まだなんだぁ」

 それこそ、唇を交わすかのような距離まで先生は顔を近づけ、にやにやと笑みを湛える。その唇に、わたしは思わず視線を向けてしまう。

 桜色と形容すべき、先生の唇。グロスが部屋の蛍光灯を反射して、艶やかに光る。その薄い唇に、もう少し近づけたら。そんなことを思い、慌てて気を確かに持つ。勿論、この距離なら先生の不意を突いて、キスをすることなど容易だろう。だが、わたしは必死でそれを理性で制した。

 本当は重ねたい唇を動かして、言葉を紡ぐ。

「ま、まだですっ」

 必死の思いで、それから先生の唇より顔を背けると、モンブランを急いで頬張る。顔がさっきから本当に、燃えるように熱い。自分の吐息も心なしか熱く感じるし、そもそも息が上がっている。

 先生は、そんなわたしの様子を横目に、柔らかい笑みを浮かべながら、自分もケーキを頬張った。

 それから、洗い物を今度こそさせてもらうために、わたしは先生より先に食べ終わったお皿とフォークをもって、足早にキッチンへ向かうと、水を出した。そこへ遅れてやってきた先生は、今度こそ、観念したようにわたしへ、自分の分のお皿とフォークを手渡す。

「もうっ、わたしが洗い物するって言ったのに」

「いやいや、わたしにもそろそろさせてください。いくら何でも、流石に申し訳無いですって」

 言って、先生からそれらを受け取ると、水にくぐらせてからスポンジで擦る。洗い物をするのは、そういえば久しぶりだ。わたしは念入りにスポンジを擦ってから、水で濯ぐと、傍にある水切り籠へ立てかける。今更になって気付いたが、このお皿もまた、意匠が凝っている。具体的な値段は分からないけれど、それでもわたしが想像しているより、一桁は多い値段なのだろう。フォークだって、シンプルながら、装飾が丁寧に施されている。

 そうなると、いよいよこの家にあるもの全て、触れるのが恐ろしく感じてしまう。前に触ってしまった、先生のあのカバンではないけれど、いくらするのか、分かったものではない。

「じゃあ、折角だし、わたしは先にお風呂でも貯めとこっかな」

 どうやら折れてくれたらしい先生は、そのままキッチンを立ち去ると、壁に取り付けられたお風呂の操作盤へ向かう。それをぽちぽちと触ってしばらくすると、お風呂場の方から、水が出てくる音が聞こえ始めた。

「勿論、もっちーも入るよね?」

「あっ、え、本当に……泊まっていいんですか?」

 わたしは思わず、今更ながら気になっていたことを尋ねる。勿論、泊まりとのことは伺っていたが、それでもこちらからそれを積極的に言うのは、どうにも口幅ったい気がしていたので、言い出せなかったのだ。だからこれはありがたい。

 先生はキッチンに戻ってきた。

「いやいや、勿論よ。前回、わたしも泊めてもらったことだし、もっちーならいつでも泊まりに来てほしいくらいだもん。……本籍地、ここにして欲しいくらい」

「本気度がすごい」

 最早結婚の域です、それ。

「まあでも、本当にいつでも来て欲しいくらいだよ」

 今度は先生が隣でお皿を拭きながら、にこにことしている。

「いち教師がこんなことを言ったらダメなんだけど、というか、そもそも生徒を個人的に家に連れ込む自体、駄目なんだけど、でももっちーのこと、わたし好きだからさー」

 そうして爽やかに微笑む先生。わたしもそんな風に、先生のことを好きだと伝えられたら、どれほど幸せか知れない。

「あっ、でもあれだよ、皆には内緒だからね!」

 もしばれたら、わたし多分首飛ぶから! 先生は、自分の首を水平にした手のひらを動かすジェスチャーで示しながら、わたしに忠告する。だが勿論、わたしは言うつもりなど更々ない。こんな幸せなこと、誰にも言いたくないくらいだ。

 先生のことを独り占めしたい気持ちでは、誰にも負けない。

「じゃあこれから、先生の手料理が食べたくなったら、誰かに口滑らせちゃうかもって、先生に言えばいいんですね」

「うん、ちゃんと恫喝」

 丁度拭き終わった食器を片付け終わったところで、先生は布巾を水切り籠へかける。それから、後ろの食器棚にある扉へ手をかけた。

「じゃあ、一仕事終えたことだし、わたしはこれでも頂こうかなー」

 そう言って、先生はなにやらごそごそとしたかと思うと、綺麗な切子の施されたグラスと、大きな瓶を取り出した。

「……お酒、ですか?」

 全く詳しくないわたしには、何がなんやら分からない。しかし先生は、うっとりとした表情でそれをわたしに差し出した。

「そ、お酒ー。それも結構いい奴なんだよね。この間買ったんだー」

 円柱状のどっしりとした瓶に、ガラス製のキャップ。ちらりと見えるのは、コルク栓だろうか。そして黒いラベルに掛かれているのは、なぜか日本語だった。てっきりウィスキーと言えば、英語が書かれていると思っていたのだが、そこには達筆で、響。と、その横にローマ字表記でHIBIKI、そして21との数字が張られている。

 何が何だか分からないわたしは、思わず首を傾げてしまう。

「美味しい、んですか?」

「美味しいのなんの!」

 今日一番の大きな声で、先生はそれからしばらくの間熱弁を続けていた。その大半は、よくわからない話だったので、わたしは唖然として訊いてしまっていた。それよりも、こんなにはしゃいでいる先生の姿が、あまりにも新鮮だったのだ。

 確か21年物とか、ジャパニーズウィスキーとか、モルトだとかグレーンだとか、よくわからなかったけれど、とりあえず先生のテンションの上がりようから、相当な上物であることは、辛うじて通じた。

 それよりも、実際にそのグラスに大きな氷を2、3個入れて、ウィスキーを注いだグラスを目の前にしている先生の表情を見た方が、わたしとしては分かりやすかった。

 煽情的ですらある、その表情。うっとりとしたように目を細め、氷の乾いた音を鳴らしながらグラスを回し、香りを楽しむ。それから、先生はゆっくりと、グラスの淵に唇を当てた。そして傾けると、琥珀色の液体が、滑らかに先生の唇へ触れ、その口の中に満たされた。喉が微かに動き、それを味わうようにして、吐息を漏らす。

「うんまっ!」

「いや最後の最後で台無しですって」

 最後まで色っぽくいてください。

 折角綺麗なのに、感想がビールを飲んだおっちゃんと一緒って。

 先生はグラスを机に置く。

「いや、それくらい美味しいんだって! もうね、なんて言うか、最高よ?」

「美味しさが伝わってきません」

 お洒落なのになあ。

 綺麗なのになあ。

 台無しなんだよなあ。

 色々と。

 わたしは、かすかに漂ってくるウィスキーの香りを感じながら、その慣れない匂いに少し、顔を顰める。きっと味が分かれば、この香りも素晴らしいものとして感じられるのだろうが、何も知らないわたしにとっては、ただのアルコールの匂いにしか感じられない。

 すぐに二口目を飲みながら、先生は隣で、予め用意していた煙草の箱から一本を器用に唇で摘まみ上げると、そのまま火をつけ。

 ようとして、思い立ったように手を止めた。

「いや、折角だし、いつもわたしがやってる飲み方、してもいい?」

「飲み方……?」

 首を傾げるわたしに、立ち上がった先生は煙草を指に持ち直しながら、気取った風に尋ねる。

「そ、飲み方。いや、嗜み方って言った方が、いいのかな?」

「上物のお酒飲んで、うんまっって言ってる人が言ってもなあ」

「あれれ、心の声漏れてんじゃん」

 それから先生は、なにやらいそいそと準備を始めた。といっても、部屋の蛍光灯のリモコンと、小さなスピーカーを用意しただけだったが、これで準備は整ったらしい。満足げに再び椅子へ座った先生を、わたしは思わず怪訝そうに見つめてしまう。

「あっ、もっちー、暗い部屋とか苦手じゃない? 大丈夫?」

「へ? あ、まあ、おばけとかも平気です」

 言った後で、どうやらそういう心配ではないことを察した。が、黙っていた。

 きっと、わたしのもっと別の問題を心配してくれているのだろう。

「じゃあ、照明落とすねー」

 ぴっ。

 そんな乾いた電子音が部屋に響き、ゆっくりと部屋の明るさが落ちていく。どうやら、昼白色の蛍光灯から、それよりも暖色の、電球色に変わったのだと気付かされる。もっとわかりやすく言うなら、リビングの白い明かりから、トイレで使われるようなオレンジ色の光に変わった。それによって、部屋全体が仄暗く、落ち着いた印象に変わる。物の輪郭がぼやけて、幻想的な雰囲気を醸し出す。そこで次に、先生は自分のスマホを操作する。すると、テーブルの上に置かれたスピーカーから、ゆったりとしたクラッシックが流れ始めた。

 その誰でも一度は耳にしたことがある曲。勿論わたしのような、曲に疎い人間ですら、そのタイトルは知っていた。

「エリーゼのために、ですか?」

「そ、良く知ってるね」

 再び、乾いた音を立てながら、先生はウィスキーを呷る。そして次の一杯を、グラスに注いだ。再び、氷だけになったグラスに、ウィスキーが中程まで満たされる。その様子を、わたしは、それとなく眺めていた。

 煙草の煙が、風のない部屋の中を、ゆったりと一筋になって立ち上る。その匂いと交じり合う様にして、先生の香水が香る。そこにグラスを鳴らす氷の音と、曲。視界は暖かい光で照らされた先生の姿が占めている。

 まるで全身で先生を感じているような感覚に、心地よさを憶えながら、わたしはゆっくりと、先生の口にしているグラスに顔を近づけた。

 匂いで、あるいは雰囲気で寄ってしまったのだろうか。顔に熱を生じているのが自覚できる。

「ん、匂ってみる?」

 そんなわたしに気付いた先生は、そのグラスをわたしに手渡してくる。受け取ると、氷で冷やされて、ひんやりとした感覚が、手先から伝わってくる。結露した水滴が手のひらをじっとりと濡らし、熱を持った掌に伝わる。

 鼻を近づけ、ゆっくりと息を吸う。慣れない匂いに、一瞬戸惑ってしまうが、すぐにその香りが肺を満たすことに、快感を覚える。これは先生が熱弁するのも、分からないでもない。

 息を鼻から吐くと、冷気が顔を撫でてグラスから零れ落ちる。そうしてまた吸い込んで。

 そのまま、グラスを傾けた。

「え、あっ、ちょっと!」

 先生が止めるころにはもう、わたしはそのグラスの中身の半分を、口に含んで、そして飲み込んでいた。

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