18話:モンブランとティラミス

「本当に、大丈夫……? 食べ過ぎた?」

 やや的外れな心配、ありがとうございます。

 それに対して、わたしがどう答えようか思案していると、先生は急に合点がいったように手を叩いた。

「あ、そっか!」

 きっとその予想、違うと思いますよ。

 レースのあしらわれた、黒のブラ、付けてるんですね。

 目の毒です。

「ごめんごめん、ちょっと待っててね!」

 そう言って先生は勢いよく椅子から腰を上げると、早足で冷蔵庫へと向かう。その様子を目で追っていると、予想通り。

 ケーキの入った箱を片手に戻ってきて、それからいそいそと、お皿を用意し始めた。

 わたしは先生の消し忘れた煙草を慣れないながら、恐る恐ると指でつまむと、火種を落とす。

「いやー、わたしとしたことが、うっかりしてたよ。……食べたいよね!」

 違うんですけどね。

 かわいいからもうそれでいいです。

「というかわたしも食べたかったし!」

 背中越しにそう言って、お皿にケーキを盛りつけ始める先生。わたしは、煙草のフィルターに付いた口紅をそれとなく指でなぞりながら、灰皿の上で火種を潰すと、先生の元へ近寄った。

 またしてもふんわりと、香水が鼻先をくすぐる。どれだけ感じても飽きないくらい、素敵な香りだった。

 それから先生に促されて、わたしは再び食卓に着く。横に立った先生は、そんなわたしの前にケーキを二つとも置くと、再びキッチンへ向かう。

「わたし、コーヒー淹れるからさ。どっちか選んで、先食べてていいよー」

 その言葉に、慌てて立ち上がる。

「そ、そしたらわたしもお手伝い……しないと」

 先ほどから何度も気を使ってくれている先生には、とても申し訳ないことなのだが、わたしはこうして座って、なにかしてくれるのを待つのが、どうやらとても苦手らしい。勿論、じっと出来ないとか、そういうわけではない。ただ、昔の生活のことがあるから、人に何かをしてもらうというのが、どうにも苦手だった。

 罪悪感。

 ではないのだろう。

 それよりも、ただ怒られそうというトラウマに起因しているというのが、わたしの見解だった。少なくとも、お父さんと暮らしていた頃は、こんな風にされることはなかったし、何でも手際良くやらないと、お父さんにすぐ怒られてしまうから。

 殴られてしまうから、わたしは毎日毎時毎分、常にお父さんの一挙手一投足に怯えて暮らしていた。

 その頃を思い出してしまう。

 今だって、座って待っていると、先生がもしかしたら内心では、呆れているんじゃないだろうか。とか、怒られるんじゃないだろうか。とか、そんなネガティヴな妄想ばかりしてしまう。勿論、この先生がそんなことをするような人だと、思っているわけではないけれど。でも、こんな風に優しくされるのは、慣れていない。

 ご飯を作ってくれて、きちんとスプーンやお皿で食べられて、デザートまで用意してくれて。

 わたしはどうしようもなく、辛い気持ちが急に胸の底から込み上げてくるのを、必死で押し殺した。涙を堪え、震える唇を手で隠す。今は泣いちゃいけない。折角、こんな楽しい時間を、幸せな時間を、泣いて無駄にするのは勿体ない。

 数度深呼吸をして、気持ちを落ち着けると、わたしはコーヒーメーカーらしき音の聞こえる、先生の方を伺いながら、ケーキに目を移す。モンブランとティラミス。

 わたしはこういうケーキとかには明るくないけれど、それでもこのケーキが、どちらもかなり良いところのケーキであることは、窺い知れる。なんというか、一目見ただけで、コンビニなどで売っているものとは品格が違うというか。伝わってくるものが、明らかに高級感を漂わせていた。

 値段の詮索だなんて、下世話ではあるのだが、しかしこのケーキ二つで、大体先生の吸っている煙草が、8箱買ってもおつりがくるほどの値段であることは、大体予想が付く。

 恐るべし。

 そんなお高いものを食べたら、ショックで気を失ってしまいそうだ。

 普段大したものを食べていないわたしは、それから先生がコーヒーカップを二つ持って、隣に座るまでの間、ずっと悩み続けていた。なにせどちらも遜色がないほど、美味しそうに映っているのだ。甲乙つけがたい。

 モンブランの方は、完熟した栗を使っているのだろう。ずっしりとした甘い香りが、鼻を近づけたりしなくとも、常に香りの方が鼻先に漂ってくる。それに上からこれでもかと覆い掛けられた、マロンクリームの濃厚な色たるや。そして、その頂上を飾り付ける、黒い宝石のように光を放つ栗。ほのかにラム酒の香りが漂ってくる。

 だがコーヒーの好きなわたしにとって、ティラミスもまた捨てがたい。目を惹く、クリームの白と、エスプレッソによる黒のコントラスト。重厚なその香りは、正しく大人のデザートとも言うべき代物で、中のスポンジに染み込んだエスプレッソが、口の中に広がる想像をしただけで、よだれが垂れてしまいそうだ。

「お待たせー。もっちーはどっち食べるか決めた?」

 私の前にコーヒーカップを置いてくれた先生は、自分のコーヒーを啜りながら、こちらを伺う。だが、わたしがこのまま、どちらにするか悩み続けていては、日が暮れる、もとい夜が明けてしまいそうだったので、結局、先生に委ねることにした。

「……せんせ、葵さんはどっち食べたいですか?」

「へ、わたし? わたしかあ」

 先生は少しの間、顎に指を当てて考えてから、ティラミスを指差した。

「じゃあこっちかな?」

 その指を、しかし先生は下げる。

「でも、いいの?」

「はい、悩みだしたらキリがないので、大丈夫です」

 わたしが差し出したティラミスとフォークを受け取りながら、先生はそれなら、と、納得した様子でそれを受け取る。

 それに、こうしてみると、モンブランのこの芳香。甘いものが好きだったわたしに、丁度合っている気がするし、先生といえば、やっぱり大人のデザートという感じもする。

 いいな、ティラミスの似合う女の人って。なんか素敵。

「ささ、遠慮せず食べてね」

 ティラミスに早速フォークを立てながら、先生はわたしに微笑む。わたしはそれでも、まだ少し、味がしなかったらどうしよう。なんて懸念してはいた。しかし、実際に口に運んでみると、それは杞憂であったと思い知る。勿論、全快したわけではないらしく、まだ少し味に靄がかかったような感じはしたが、それでも、これまでずっと感じられなかった甘さを感じられただけで、わたしは声を上げたくなるほど嬉しかった。唾液腺が痛むほどの、口の中が蕩けるような甘み。しかし砂糖の甘みではない。きっと、栗や生クリームなどの持つ、元々の甘さなのだろう。目を閉じて口の中に意識を集中させるようにして、わたしは滑らかな舌触りや、鼻から抜ける栗の風味を堪能し、勿体なく思いながら喉を通した。

「えへへ……」

 どうやら口元がすっかり緩んでしまっていたらしい。わたしは無意識の内に出ていた声に気付いて、慌てて口元を押さえる。いけない。なんだかとてもだらしない顔をしていた気がする。

 だが。

 隣を見ると、先生もまた、恍惚な表情で、目を瞑り、幸せそうにティラミスを頬張っていた。

「んーっ! 本当にいつ食べても、ここのケーキ屋さんは美味しいんだよね」

 もっちーもおいしい? と、満面の笑みで聞いてくる先生。わたしは首を何度も縦に振る。

「はい、美味しいです! 久しぶりにこんな甘いもの食べました!」

 数年ぶりに。

「そっかそっかあ、よかった! ……ねえ」

 そこで先生は、思いついたようにわたしのケーキに目を落とすと、珍しく、少し恥ずかしそうに唇を食む。

「その……一口貰ってもいい? わたしのも、ほら、あげるからさ」

「え、あっ、はい、いいですけど……」

 もとより、先生にも食べてもらいたいくらいだった。

 先生は嬉しそうに、そしてやや恥ずかしそうに笑うと、先に自分のティラミスにフォークを立てて、一口分、にしてはやや多い量を掬う。そして、それをわたしに差し出して来た。

「はい、あーん」

 なんだこれ。

 なんだこれなんだこれ。

 え、恥ずかしすぎる。

 わたしは耳まで真っ赤になるのを感じながら、優しい笑顔を浮かべる先生を直視できなくなる。

 まず、食べさせてもらうのが気恥ずかしい。勿論、嬉しくないわけではないけれど、照れる。

 そして、先生と間接キスというのも、嬉しいけれど恥ずかしい。それこそ、生娘でもあるまいに、間接キスくらい、先生はどうとも思ってはいないのかもしれないけれど、わたしにとっては一大事だ。

 好きな人と間接キスとか、胸が躍らないわけがない。

 恥ずかしい思いを感じながら、わたしはゆっくりと目を細め、口を開ける。顔が真っ赤なのを先生は気付いているだろうか。恥ずかしいな。

 だが、先生は気付くどころか、零れてしまわないように、わたしの顎の下に手のひらを添えた。ひんやりとした先生の手の感触が、顎の下に伝わる。自然、身長差で顎がやや持ち上げられ、口を大きく開かせられる。

「ほら、零れちゃうから、もっと口開けてー」

 こちらの気も知らないまま、先生は呑気にそんなことを言っている。わたしは、先生に聞こえてるんじゃないだろうか、と心配になるほど、高鳴る鼓動を抑えることも出来ず、更に大きく口を開けた。そして、行儀が悪いことは知っていたが、思わず舌を出して、フォークを搦めとってしまう。

 ピアスがフォークに当たって、かちりと音がする。そのまま、口の中へティラミスを頂戴すると、先生はゆっくりとフォークを抜き取った。

 そうしてティラミスの、想像していたよりもずっとビターで、ラム酒の香りが効いているのを感じながら味わっていると、先生は何故か、驚いた様子で口元に手を当てていた。

 わたしはもぐもぐと口を動かしながら、先生に問いかける

「んーふふふんふふふ?」

「いやなんて?」

 そうでした。

「んっ……。その、どうかしました?」

「ああっ、いや、びっくりして」

 秋月先生は、口元から手を離す。

「……もっちー、両耳に一杯ピアス開いてるでしょ?」

「え? はい」

 まあ、それなりに。

「もしかして、さ。舌にも、開いてるの?」

 え、今更?

 わたしはとっくに気付かれていたと思っていたので、思わず目を見開いて驚いてしまう。だが先生の方こそ、驚きとしては大きいらしい。

 まあ確かに、今気づいたのだとしたら、これまで接していた教え子の舌に、まさかピアスが空いているとは予想だにしていなかっただろうから、驚くのも無理はないだろう。

「てっきり気付いてるものかと思ってました……」

「いやいや、知らなかったよ? え、なに、本当に開いてるの?! どれ?!」

 声が大きくなる先生は、しかし何も起こっているというわけではないらしい。わたしは胸を撫で下ろした。そう言えば、この間ピアスがばれた時も、先生は別に怒ったりはしていなかった。理解があるというか、寛容なのだろう。ありがたいことである。

 それにしても。

 わたしは顔を近づけてきた先生から逃げるように、やや仰け反る。

「そ、その……あの」

「ん? あっ、大丈夫、怒ったりするわけじゃないから! ただ、気になってるだけ! 見せて?」

 そういって、顔の前で手を合わせる先生。しかし、はい分かりましたと見せるのは、なんだか恥ずかしい。これだって、自傷行為の一つなのだ。無暗に見せたくはない。……なら開けなければいいだけの話だが。それに、こんな風に先生からお願いされて、弧っと割れるほど、わたしは意志の強い人間ではない。結局、唇の隙間から、少しだけ舌を出した。かちりと音がして、歯の隙間からピアスが現れているのだろう。それを先生は顔を近づけて、まじまじと見つめる。

「へえ、本当に刺さってる……すごい……」

 わたしは口の中に、舌をすぐにしまう。名残惜しそうな先生の声が聞こえたが、流石にこれ以上は恥ずかしすぎる。大体、先生は距離感がいちいち近い。あのまま見せておくと、手を伸ばしてきそうですらあった。いや、別に先生なら何をされてもいいけれど、先生の指をわたしのよだれで汚すのは心苦しい。

 間接キスなんかよりも、よっぽどどきどきしてしまうだろうし。

 再び椅子にもたれた先生は、そんなわたしの心境など知らず、にやにやと笑っていた。

「いやあ、貴重なものが見れたよ。あんな風になってるんだね」

「まあ、はい……」

 次の瞬間、先生は部屋に二人だというのに、急にわたしの耳元へ口を寄せてきた。

 そして、いたずらっぽく声を上げて笑うと、小さく囁く。

「舌ピ付けてると、キスの時とか、気持ちいいって聞くけど、ほんと?」

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