17話:服装と下着

 紙ナプキンを取り外し、焦げ目の付いたチーズの上に突き刺す。ぱりぱりと小気味のいい音を立てて、チーズが割れていく。そうしてスプーンで掬うと、中はホワイトソースに玉ねぎ、それから鶏肉が入っているらしい。湯気が一層立ち込め、食欲をそそる香りと共に、その姿を露わにする。わたしは息を何度か吹きかけて冷ましてから、それでもなお湯気の立つグラタンを、口に頬張った。

 口に運んだ瞬間、程よい熱さと、口全体に広がるチーズの濃密なミルクの香り。甘くなるまで熱された玉ねぎや、油を中に閉じ込めるため、強火で表面を予め焼いていたであろう鶏肉の油が、いっぱいに広がって、思わず目を見開いてしまった。

 なんだこれ。美味しすぎる。これまで食べたグラタンが、霞んで見えるほどだ。

 マカロニも下茹でされているから、程よい柔らかさで、中にたっぷりとホワイトソースが入っている。小麦粉とは、これまでに甘く、素晴らしい味だったのか。わたしは思わず感動して、声も出なくなっていた。その横で先生は、猫舌だからだろうか。いまだにふーふーと息を吹きかけ、熱々のグラタンを冷ましていた。

「そんなに熱いですか?」

 わたしが思わず問いかけると、先生は一度首を傾げて、温度を確かめる為だろう。唇にグラタンを当てた。そしてすぐに声にならない声を発して唇から遠ざけると、涙目でこちらを睨む。

「……熱かった」

 でしょうね。

 それから先生がグラタンにようやく箸を、もといスプーンを付け始めたのは、わたしが食べ始めてから凡そ10分後のことだった。

 確かにグラタンは、冷めるまでが遅いかもしれない。ましてや、先生のように猫舌な人ともなれば、より一層熱く感じるのだろう。結局、わたしが息を吹きかけて冷ませたグラタンを恐る恐る、口に運んで、それから先生は自分のグラタンに手を付け始めた。その頃にはわたしのグラタンは後三口程度で食べ終われるほどになっていた。

 残り少ないそれに名残惜しさを感じながら、スプーンで掬って口に運ぶ。そこでふと横を見ると、先生は何故か頬杖をついて、笑みを湛えながらこちらを見つめていた。わたしはグラタンを迎えるために開けた口で、先生に問いかける。

「……なんですか?」

「んー? いやいや、美味しそうに食べるなあって、嬉しくなっちゃってさ」

 いいよ、食べて食べて。そう言って笑う先生に勧められるまま、わたしは何も考えず、グラタンを口に運ぶ。少し冷めてきてはいたものの、それでも味は素晴らしい。マカロニは口の中でとろりととろけるようだし、チーズの香りは食欲を掻き立てる。それが冷めても感じられるとは、本当に先生は料理が上手なのだろう。

 そしてわたしは気付いてしまう。

 味を感じていることに。

 咄嗟に、先生に動揺が伝わらないよう、何食わぬ顔でわたしは先生を見つめ返した。依然として、先生は楽しそうに微笑みながら、自分の目の前にあるグラタンを口に運んでいるところだった。その顔は、美味しそうに口角が緩んでいる。

 その顔を、しかしかわいいと呑気に思っていられるほど、わたしは平常心ではいられなかった。心臓が破裂しそうなほど高鳴り、頸動脈が耳の近くを通っているためだろうか。その音の速さが、耳にまで届いている。何せ、ずっと失っていた感覚が、急に戻ってきたのだ。

 味覚。

 誰しもが当たり前にそれを享受していて、今更意識することもない感覚。リンゴを食べればリンゴの味が、レタスを食べればレタスの味が、塩を舐めれば塩の味が、当然のようにするその感覚。だが、それを長らく失っていたわたしにとって、それは驚愕に値する感覚だった。

「……どうしたの? 大丈夫?」

 深刻そうなわたしの顔色を、先生は心配してくれたらしい。しかしわたしは、その驚きを先生に伝えるわけにもいかず、あいまいな返答をした。

 これまでずっと、わたしが隠し続けている悩み事。その一つが、味覚障害なのだ。今更言えるわけもない。

「そ? もしかして、多かったかな?」

「いえ、むしろお代わりが欲しいくらいです。本当においしい……。本当に」

 言って、口いっぱいにグラタンを頬張る。

 気の迷い。などではない。実際に味覚が戻っているらしい。玉ねぎの甘みも、鶏肉の旨味も、すべて感じられる。こんがりと火の通ったチーズの香ばしさも、何もかも。

 気が付くと、わたしは空っぽになった皿に焦げ付いたチーズを、スプーンでかりかりと剥がしているところだったらしい。

「……先生のも、いる?」

「あっ、いえ、大丈夫、です! ……美味しいけど、先生にも食べて欲しいくらいですから」

「いやわたしはよく作って食べてるけどね」

「それもそうでした」

「それに、お腹空いてるなら、さ」

 先生はスプーンを置くと、立ち上がる。そして冷蔵庫に向かうと、扉を開けて何やらごそごそとしている。そして、しばらくして戻ってきた手には、白い箱があった。

「折角だし、今日はデザートも買ったんだ」

 箱が開くと、中には二つのケーキが入っていた。一つはモンブラン、一つはティラミスらしい。わたしは思わず生唾を飲み込んだ。

「食べ終わったら、用意するからね。ちょっと待っててね」

 わたしと同じく、先生も楽しみにしているらしい。上機嫌な様子でその箱を冷蔵庫に戻すと、席について、グラタンを食べ進めた。

 ケーキ、か。

 しばらく食べていなかったな。

 少なくとも、味覚が消失してからというもの、わたしはそれまで大好きだった食べることへの感動も、なにも感じなくなっていた。どころか、何を食べても変な味でしか感じられない。きっと味覚が無いから、食べ物ではないものとして認識してしまうためだろう。実際、このグラタンだって、味が分からなければ、カブトムシの身のようにどろどろな液体を焼いて固めて、上から粘りのある幼虫の体液をかけた物として映っていたことだろう。

 いや、先生が折角作ってくれた料理に、たとえ話でもこんな想像をするのは、いけないことだが。

 しかし、味覚が無くなるというのは、とどのつまりそういうことだ。

 口に運ぶものすべてが、とんでもなく不味く、まるで虫でも食べているかのような気持ちになる。食べてはいけないと、脳みそが拒否する。

 だからわたしは今、ケーキを思って、きっとあれも美味しく感じるんだろう。という期待と、もし美味しく感じなかったらどうしよう。という不安が綯い交ぜになっていた。

「ふう、ご馳走様ー」

 そんな先生の声に、意識が引き戻される。

 隣を見ると、先生のお皿も空になっていた。食べ終わったらしい。先生は満足気な表情で、お腹をさすっていた。

「いやー、結構多かったよね。ごめんね、わたし、結構大食いだからさ」

 明らかにそうは見えない体型で、先生は笑う。

 それから先生の一服を待って、ケーキを食べることに決まった。

 だが、その前に先にグラタン皿を洗うことにしたらしい。先生は食器を手際よく纏めると、キッチンへ運ぶ。その後を、何か手伝うことはないかと付いていこうとしたが、またしても先生に止められてしまう。

「んっ、手伝おうとしてるでしょ、駄目だよ! お客さんって言ったでしょ! ほら、ソファに座って、だらだらしないと!」

 どんな怒り方なの。

 しかし片付けまで、先生に一任するわけにはいかない。わたしは今度こそ、と食い下がった。

「いやいや、流石に何か手伝いますっ」

「んもう、お客さんなのに……」

 頬を膨らませ、先生は渋々といった様子で、乾いた布巾を渡してきた。

「そしたら、じゃあ……これで洗い終わった食器、拭いていってくれる?」

「……はいっ!」

 えへへ。

 先生と共同作業。

 わたしは隣で洗い物をこなす先生に見とれながら、食器の水気を取る。といっても、大した量があるわけではない。グラタン皿二つに、スプーンが二つ。サラダや付け合わせがなかったのは、きっと先生がわたしの小食なのを気遣って、減らしてくれたのだろう。

 実際。

 わたしは自分のお腹に目を落とす。満腹感はかなり感じていて、今が丁度いい程だった。さっきは美味しさの余り、お代わりが欲しい。なんて無茶を言ってしまったが、冷静になって考えると、あれ以上は食べられないだろう。流石先生といったところだろうか。

 だがそうなると、不安になるのは先生のお腹だ。きっと足りていないんじゃないだろうか。

 この後、コンビニにでも誘ってみよう。そう思いながら、最後のスプーンを先生から受け取る。

 そこで、濡れた先生の手と、わたしの手が、軽く触れあう。

「あ、ごめん、濡れたかも」

 蛇口の水を止めて、手を拭きながら先生は言う。わたしは、顔を背けてしまった。

「いっ、いえ、大丈夫、です」

 生娘でもあるまいに。

 今更先生と手が触れたことがなんだというのだろう。わたしは変に自嘲的な気持ちになろうとするが、しかし先生と手が触れただけなのに、顔が熱くなるのを感じる。

 というか、冷静になって考えてみると、先生と今日は一晩を共にするわけだ。……勿論、変な意味ではなく。

 とはいえ、夜はここで寝るのだから、間違いではない。そう思うと、どうにもむず痒いような、今にも踊り出したくなるような。そんなうきうきした気持ちが込み上げてくる。

 しないけど。踊り出したりとか、しないけども。

 とはいえ、丸一日とは言わずとも、かなり長い時間を、わたしは上手れて初めて、先生と過ごせるのだ。気持ちが妙に高ぶってしまうのも、無理はないのかもしれない。

 ……欲を言うなら、24時間、一緒に居たいけれど、それは叶わないだろう。

 コンビニじゃないんだから。

 タオルから手を離した先生は、わたしの後ろを通り、換気扇の下へ行くと、折りたたみの椅子を二つ、引っ張り出して来ていた。

 その一つを組み立てると、私の元へ移動させる。

「ありがとね。座る?」

 わたしはそれを受け取る。

「あっ、ありがとうございます」

 そのまま先生も自分の椅子を組み立てると、そこに腰を下ろした。そして近くの引き出しから、煙草とライターを取り出す。

 煙草を唇に咥え、火をつける。いつも見ているその姿に、わたしは改めて見とれてしまう。

 今日の先生は、いつもより化粧に気合が入っているというか、あの時、わたしの部屋に来た時のような化粧だった。少なくとも、学校にいつもしているようなナチュラルなものではない。それに服装も、そうして気にかけてみると、いつもとは毛色が違う気がする。

 いつもはオフィスカジュアルというか、ゆったりとした服装でいることが多い先生。しかし今日は、ボトムスが黒のスキニージーンズに金色のスクエアバックルのベルト。トップスは少し大きいブラウンのロングシャツをタックイン。そして上から、レザー素材の白いジャケット。といっても、そのジャケットは部屋に入ってすぐに脱いでしまっていたが、そのせいで、大きめのシャツが、タックインしているせいで、余計に先生のスタイルの良さを際立たせていた。

 どうやら、本当に綺麗な人は、こういうシンプルな服装でも――いや、シンプルな服装だからこそ、様になるらしい。

 というか、足が細すぎる。組んでいる足は、決して露出度が激しいわけでもないのに、何故か色気がとんでもない。きっと、スキニージーンズで細さが際立っているためだろう。恐らく、下手に生足を出すよりも煽情的だ。

 率直に言って、エロい。

 そんなエロい先生は、煙草をゆっくりと吐くと、こちらに視線を向けた。

 目と目が合う。

 わたしは咄嗟に視線を反らすが、先生は流石に気になったらしい。小首を傾げ、こちらに身を寄せた。

 前かがみになるのはいけない。

 ただでさえそのトップスは、胸元がゆったりとしたデザインなのに。

 そんなことをしてしまっては、見えてしまう。

 そう思いながら、しかし目が離せなくなっているわたしの気持ちをよそに、先生は少し不安そうに眉を寄せた。

「……どうしたの? 具合でも悪い?」

「えっ、あ、その、いえ、大丈夫です!」

 明らかに大丈夫ではない。

 少なくとも、その姿勢をやめて欲しい。わたしは胸元からちらりと覗く、黒い下着から目が離せないまま、首だけをそっぽに向けた。そうして、目を反らしてはついつい先生の胸元へ目をやり、目を反らし、そんなことを繰り返していた。

 そして、そんな挙動不審な様子を見逃す先生でもない。すぐにわたしの元へ更ににじり寄ると、より一層、不安の色を滲ませた。

 煙草の煙が、柔らかく揺らぎながら、換気扇に吸い込まれていく。

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