16話:好き嫌いとドライブ
金曜日。その日の放課後になるまで、わたしは先生の家での食事の約束を取り付けてからというもの、学校の授業は勿論、カウンセリングすらうわの空だった。事実、大した記憶が残っていないことを、今更ながら気付かされる。そんなことを先生に言うと、怒られた。
「もうっ、ちゃんと学校の授業は受けないとダメなんだよ?」
運転席でハンドルを握っている先生は、頬を膨らませた。
「すみません……。だって、本当に楽しみで」
そして不安なんです。その言葉は胸の内に秘めて、わたしはシートベルトを指先で摘まむ。
先生との食事。それも、先生の自宅で。手料理。その予定が決まったのは、月曜日の夜。先生からのラインを貰って、わたしが是非とも。と答えたことで、決まった予定。それから金曜日までの食事を、わたしは努めて良く食べるようにした。ハンバーグ、パスタ、おにぎり、サンドイッチ、豚カツ、ささみ、ステーキ、シーザーサラダ、チョリソー、天ぷら、エビフライ、煮付け、などなど。まるで予行演習でも行うかのように、初めはコンビニで売っているものから初めて、木曜日と金曜日に至っては、外食までした。一人でレストランに入るのは、とても緊張したが、その甲斐はあった。ように思う。なにせ、このわたしが、月曜日はコンビニ弁当やおにぎりで吐いてしまっていたわたしが、我慢できるようになったから。それこそ、普通の人が食べる量なら、我慢が出来るようになった。勿論、気を緩めると吐きそうにはなるし、未だに味覚は戻っていないし、問題は依然として山積みである。
ただ、先生の前で、みっともない格好を見せることには、ならずに済みそうだった。
車は安全運転で左右に曲がり、学校から、そして私の家からも少し離れた所へ向かっていく。カーナビは、あまり足を運ぶことのない住所を映していた。どうやらこの先に先生の家があるらしい。そう思うとわたしは、胸が高鳴るのを感じた。これは嬉しいという気持ちからくるものだろうか。あるいは、食べた物を無事に胃に収めて、さも味わっているような演技が、出来るかどうかの不安によるものだろうか。あるいはその両方か。隣でハンドルを握りながら、煙草へ器用に火をつける先生を横目に、わたしはそんなことを考えていた。
「ところで、今更なんだけどさ」
先生は赤信号で車を止めると、灰皿に煙草の灰を落とす。
「もっちーって、好き嫌いとかないの?」
「好き嫌い、ですか……」
「まあ、材料買っちゃってるから、半分手遅れなんだけど、もし何かあるんだったら、それ抜いて作るよ。遠慮せず言ってごらん?」
強いて言うなら、食べ物を食べる行為自体が嫌いです。なんて。
言えるわけもないセリフを思い浮かべながら、わたしはかつて苦手としていた食べ物は何だったか。と思い返す。
「……ないですね」
「おっ? 偉いじゃん」
感心したような声を上げる先生に、わたしは心苦しさを感じる。嘘を吐いてしまった。
本当は、好きも嫌いもわからないだけなのに。
先生は、そこでアクセルをゆっくりと踏みながら、家の近くまで来たらしい。ナビの電源を落とす。
「一応、今日作ろうとしてる料理なんだけどさ。まあ、グラタン……っと、危ない危ない。秘密にしてた方が楽しさ倍増だよね。ふう。危うく口を滑らせるところだったよ」
「うん。ちゃんとグラタンって言ってましたけどね」
「いっ、いやぁ? わからないよ? もしかしたらグラタン風の何かかもしれないよ?」
「そんなカレー風味みたいに言われても」
原材料の大半が小麦粉と牛乳を締める料理に、風味も何もない気がするけれど。
「いやっ、も、もしかしたらほら、ドリアかも?」
「お米があるかないかの違いですね」
「グラタン風コロッケかも知れないよ?」
「いやもうグラタンって認めましょうよ」
これで本当にグラコロとか出されたら、いくら何でも嘘つきのプロ過ぎる。
先生は、車を駐車場へ慣れたハンドル捌きで駐車すると、エンジンを切る。それから車内のライトを、それとなくつけてくれた。
「はい、とうちゃーく。といっても、ここからちょっと歩くんだけどね」
言って、荷物を肩に掛け始める。わたしも慌てて、小さなリュックを手に持った。
先生の車の中は、先生の香りでいっぱいだった。煙草の匂いも、香水の匂いも、この小さな密室の中に閉じ込められて、まるでわたしは先生に包まれているような感覚を憶えながら、道中を過ごしていた。だから若干の名残惜しさを憶えつつ、ドアを開ける。足を降ろすと、慣れない地面が足裏に伝わってくる。なんだか、変な感じだ。あまり普段遠くに出かけることもなければ、車で移動することも滅多にない。だから、なんだか新鮮だった。外もすっかり夕暮れ時で、見知らぬ街中の、マンションの所有しているであろう駐車場。まるで何もかもが未知で、気が付くと、先生の方へ小走りで近寄っていた。
不安とか、緊張とか、そんな大層な思いを抱いたわけではない。ただ、ちょっとだけ怖くなってしまった。もしも、ここで先生に置いていかれたら、わたしは家へ帰る術を失ってしまうのだろう。とか。我ながら悪い癖だ。すぐに物事をありえないほど悪い方向へ考えてしまう。それに見知らぬ街だといっても、先生と家の近くのコンビニで会ったりしたことから推測するに、それほど家からとんでもない距離が離れているというわけでもないだろう。確かあの時、先生は近くの居酒屋だかへ飲みに来ていたはずだ。車で行って、飲酒運転で帰る様なアナーキストでもない限り、タクシーや電車で行き来できる距離なんだろう。
「……どうしたの? かわいいけど」
頭上から降ってくる先生の声に、わたしははっとして、我に返る。腕を見ると、いつの間にか先生の腕にしがみ付いてしまっていたらしい。これではまるで、親から離れようとしない子供のようだ。ただでさえ、わたしは身長が平均より小さく、先生は逆に平均より大きい。スタイルがいいのだ。わたしは恥ずかしくなって、すぐに腕を離す。
「すっ、すみません!」
やってしまった。
先生の腕に触ってしまった。
細かった。てかなんだか近くにいるといい匂いがした。香水の匂いだろう。すごく甘い匂いがする。
えへへ。
「いや、良いんだけどね。確かに足元も暗くなってきたし、危ないから。でもなんか、子供っぽくてかわいかったよ」
「……素直に喜べません」
「いやいや、だって普段のもっちー、同年代の子たちと比べて、割と大人びてるでしょ? だから新鮮だったんだー」
「そ、そんなこと……ないです」
「……ふふっ。手、繋ぐ?」
軽く笑って、手をこちらに差し出してくる。わたしはしかし、素直にじゃあ繋ぎます。という具合に手を握れない。恥ずかしいのだ。なんて言ったって、憧れの先生である。少なくとも、こんな風にからかわれているような口調に対して、はいそうします。と手を差し伸べられるほど、わたしは自分の気持ちに素直にはなれなかった。
「だ、大丈夫です、一人でも歩けますっ」
恥ずかしい顔を見られたくない。顔をそっぽに向けながら、わたしは歩を進める。だがすぐに何もないところで転びかけて、情けない悲鳴を上げた。
「ひゃっ」
体制をすぐに立て直し、口元へ手遅れながら、手を当てる。だが一度出てしまった変な悲鳴を、どうやら先生はしっかりと聞いていたらしい。にやにやと笑いながら近づいてくると、優しくわたしの手を握った。
「まあまあ、本当に転んでも大変だから、こうしてよっか」
やはり大人として、責任感があるのだろう。わたしは恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔を真っ赤にしてしまい、俯いて首を縦に振る。そのまま二人、暗くなった道を歩いて、家に向かった。
先生の家は、大きなマンションの一室にあった。エレベーターで7階に上がり、そこの733号室。隣にも同じマンションが建っていて、どうやらかなり良いところに住まいを構えていることは、容易に想像がついた。今も使っているバッグだって、あの時、わたしの部屋に何気なく置いていたあのカバン、とんでもない値段のあのカバンだったし、どうやら本当に稼いでいるらしかった。
少なくともわたしとは違い、合法的な手段で。
思わず自嘲的になってしまい、わたしは顔を引き締める。そんなことをいちいち考えている暇はない。なにせ、これから先生の手料理を、先生の部屋で食べられるのだ。わたしは緊張しながら、先生に手を引かれて扉の前に立つ。
「待ってね、今開けるから」
バッグからカギを取り出して、戸を開ける。そのまま扉を押さえてくれていたので、わたしは何度も頭を下げながら、部屋に入った。そして仰天する。
「……いい匂い」
「ん、え?」
いけない。思わず口に出てしまった。
「ちょっと、あんまり匂わないで、恥ずかしいから!」
目を細め、はにかみながら先生は顔の前で手を振る。だが、この香水の匂いは、どうやら部屋の中にも充満しているらしい。先生の匂い。甘ったるくて、脳が蕩けるような香り。わたしはバレないように深呼吸をしながら、靴を脱ぐ。
後を追って先生も靴を脱ぐと、さりげなく、わたしの靴も向きを揃えてから、扉の鍵を閉めた。それにはっとして罪悪感を憶えたが、同時に、そんな先生の気が利く一面に、とても好意を抱いていた。
ああ。本当にどうしようもない。
どうしようもなくわたしは、先生のことが好きらしい。
「どうしたの、あがらないの?」
そんな先生の声で、恍惚な気持ちから引き戻される。わたしは慌てて手を振った。
「い、いや、あんまりにいい匂いなので」
「だから匂わないで? 凄い匂うじゃん」
そんなに香水の香りするかな、ごめんね? と、先生はやや的外れな謝罪をする。
それから二人でリビングに上がった。部屋は思った通り、整頓されていて、とてもきれいな印象を受ける。わたしの家みたいにベッドがリビングに置いていないことから、寝室が別にあるらしい。当然といえば当然だろうか。これほど広い家だから、寝室や自室は分かれているのだろう。
わたしは先生に勧められて、椅子に座る。どうやらここでご飯を食べるらしい。まるで高級レストランよろしく、真っ白なマットが敷いてあり、スプーンとフォークがすでに並べられていた。きっと、朝出かける前に用意をしたのだろう。口に運ぶ部分には紙ナプキンが、丁寧に巻かれていた。
そして先生の食器も、同じように隣へ置いてある。カウンセリング然り、先生はあまり対面して何かをすることを好まないらしい。テーブルの広さは、わたしと先生が横並びでご飯を食べたところで、お互いが邪魔になる様な狭さではないけれど、わたしはそんなことを考えていた。
「よーし、それじゃあ、早速ご飯にしよっか!」
バッグを近くのソファへ置くと、先生は手を叩く。それに反応して、わたしは反射的に立ち上がった。
「あっ、そしたら、わたしも何かお手伝いします!」
だが、先生はそれを制する。
「駄目だよっ、もっちーは今日、前回のお礼で呼んだんだから、待ってないと」
「で、でも……」
流石に心苦しい。わたしが前回、先生を家に泊めたのだって、わたしの病気のせいだし、それに晩御飯だって、ただのコンビニ弁当だった。そのお金すら先生が出してくれたくらいだ。少なくとも、恩返しをされるようなことは何もしていない。謙遜ではなく、本当に、何も。
そうして食い下がったが、先生はそれでも頑として譲らない。頬を膨らませて、不服そうな表情を浮かべた。
「いいから、もっちーは今日は、もてなされないといけないの! わかった?」
「いやどんな脅し文句ですか」
「service or deathだよ」
「いやもうおもてなしが脅し文句になってますよ」
わたしが渋々、席にもう一度座るのを、先生は満足げに見届けると、キッチンへ向かった。どうやら、わたしは今日、あくまで先生にもてなされなければいけないらしい。とても心苦しいという気持ちはあるが、しかしそれが先生の望むところなら、仕方ない。大人しく、先生が料理をするのを、ここでしばらく待つことにしよう。
「まあ、もう準備は整ってるから、後はオーブンで焼くだけなんだけどねー」
冷蔵庫から、後は火を通すのみのグラタン皿を取り出しながら、先生は笑う。
わたしは思わず椅子から転げ落ちそうになりながら、座り直した。
「じゃ、じゃあせめて、オーブンにかけて、一緒に運びますよ」
「サービスを受けるか死か。……今日が命日になりたいの?」
「初志貫徹がエグい」
意地でも手伝わせるつもりはないらしかった。
そうしてしばらくして。先生は鍋掴みを手にはめて、熱々の皿をわたしの前に置いた。勿論、机やマットが焦げてしまわないよう、お洒落なコルクの鍋敷きも一緒だ。真新しいところを見るに、この日の為にグラタン皿と一緒に買ったか、あるいは。
かつての恋人と使っていたものか。
わたしは余計な詮索をしてしまわないよう、グラタンに目を落とす。上に掛けられているチーズがオーブンでこんがりと焦げ目がつき、湯気が立っている。先生は一度オーブンの前に戻ると、次いで自分のグラタンも横に置いた。本当にまだ出来立てらしく、ぷつぷつと音を立てて、チーズが気泡を発していた。焼けたチーズの濃厚な香りが鼻腔を通り、わたしは思わず生唾を飲み込んだ。
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