15話:無駄な食べ物と先生の連絡

 いろんな食べ物が散乱した机を前に、わたしは項垂れた。いろんな食べ物で膨れ上がったお腹は、不快感でしかない。味のしないものを食べている感覚は、さながら紙粘土で作られた食べ物でも食べているような感覚になるし、さっきから吐き気が止まらない。それを何とか抑え込んで食べていた食べ物の風味が、それも嫌な風味だけが、息を吐くたびに鼻と口を侵している。

 それでも、先生の為。

 先生の手料理を、美味しく食べるため。

 そう思い込み、わたしはもう一度、近くにあった食べかけのパスタへ手を伸ばし。

 次の瞬間にはソファを立ち上がり、早歩きで浴室へと向かっていた。

 倒れこむようにして、扉を開けて中に転がり込む。そして次の瞬間には、激しく嘔吐していた。先ほど、最後に食べた物たちが、喉の奥から次から次へと、止めどなく溢れ出して、床に飛び散る。鼻を突くような胃酸の匂いと、交じり合った食べ物の匂いで、鼻の奥が痛む。喉も胃酸で焼けたのか、ひりひりとする。

 食べたばかりだからか、喉を通る食べ物の間隔も、米や麺を飲み込んだものと似ていて、とてつもなく気持ちが悪い。わたしはその感覚に、さらなる吐き気を憶えた。

「っ……ぅ、え゛うっ」

 更に不快感が押し寄せ、吐いた吐瀉物の上から、更に吐き続ける。両手は嘔吐のたびに跳ねる体を安定させようと、浴室の床に突っ張って、その手にも吐瀉物がかかる。

 何もかもが不快。鼻から息をしようにも、下を向いて吐き続けているため、鼻水で息が出来ないし、口はえずいては吐き、えずいては吐きの繰り返しで、息をする暇もない。目は充血し、大粒の涙が反射的に溢れ出す。

 ようやくすべての食べた物を吐き終えた頃、わたしは全身の気力を削がれたように、そのまま指一本、動かすことが出来なくなっていた。涙と鼻水、それからだらしなく開かれた口から垂れるよだれにまみれ、きっと口の端にも跳ね返った嘔吐物が付いているのだろう。痛みとはまた別の、酸で焼ける様な不快感が口腔内を襲い、時々むせ返ってしまう。頭は呼吸困難の為か、ぼうっとするし、ようやく息をそれなりに吸えるようになった口は、酸素を求めてひたすら喘いでいた。

 けれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。わたしは必死の思いで、なるべく手足がこれ以上吐瀉物に触れないように気を付けながら、口元を手で拭い、壁伝いに立ち上がる。どうやら足もがくがくとして、言うことを聞く気はあまりないらしい。歯を食いしばり、シャワーのコックに手をかける。それを勢いよく捻ると、すぐにシャワーヘッドから勢いよく、水が出てきた。それが湯に変わったのを確認してから、わたしは両手を洗い流す。それから次いで口を濯ぎ、口元も洗い流す。粘性のあるよだれが口の中にへばりついていたので、唾を吐きながら、わたしはようやく、シャワーを手に取った。

 浴室の外に跳ねないよう、扉を閉める。それから私は、壁にも飛び散っていることを考えて、辺りにシャワーを当て始める。そうして湯煙に包まれた浴室が、ようやく元の通りに戻ったころ、わたしは臭い消しのためにボディソープを床に何プッシュか撒いて、上から再度洗い流す。

 一体、先ほどはどうしてしまったんだろう。確かにご飯を食べるのはあまり得意ではないし、食べなくてもいいのなら食べたくない。しかし、これまで一度も吐いてしまうほどのことはなかったから、わたしは自分でも驚いていた。どうすればいいのかわからない、という気持ちまである。

 それこそ、もしかして症状が悪化してしまったのだろうか。という懸念すら抱えながら、綺麗になった浴室を確認して、わたしはひとまず外に出た。このままシャワーを浴びたいくらいだったが、何せ制服のままだというのもあれば、それよりも先にあのお弁当の食べかけ立をどうしようか。ということもあった。

 服については、この後どうせシャワーを浴びるのだから、そのままでいいにしても、あの食事。明らかに今のわたしが食べきれる量ではないので、残念ながら粗末にしてしまうのは避けられない。それにしても、今日の夕食として考えていた栄養は、すべていま吐き出してしまった。身体の中は空っぽである。せめて、なにか口に入れないと。

 先生の手料理のことは、また後で考えよう。そう思い、わたしはまず目の前の問題を解決するために、ソファに座り直した。そして目に入る食事達。それらを見て、何なら食べられそうかな。と考える。出来ることなら、辛いものが食べたかったが、カレーもそれほど辛くはない。少なくとも、わたしの舌で感じられるほどの辛さではなかった。いうまでもなく、ミートソースパスタも辛くはないし、強いて言うならコンビニの食事は、そもそもの味が濃い目に作られているはずだ。だが、味の濃さ、薄さどころか、そもそも味自体が分からない。不味いも美味しいも、好きも嫌いも、私にはなかった。味の概念を感じなくなって、忘れかけている最近では、甘いとはどんなだったか、酸っぱいとはどんなだったか。そんな感覚だった。

 結局、わたしは引き出しから一味唐辛子を手に取っていた。それを逆さまに向け、表面が真っ赤に染まるまで、近くにあったおにぎりに掛ける。だが、これは出来れば、したくなかったことだった。いくら味を感じないからといって、こんな風に何でもかんでも辛くして誤魔化すというのは、味覚障害をより悪化させてしまいそうで、怖いのだ。それに、ただでさえ胃を荒らし気味なわたしの生活のことだ。きっと健康に悪いだろう。

 結局、一味唐辛子の小瓶が目に見えて減ったと分かるほど消費して、ようやくおにぎりを一つ、胃に収めた。それだけで満腹感を感じてしまうほど、わたしの胃は小さいらしい。いや、それともただ嫌いなものだから、食欲が湧かないだけか。少しぴりぴりする口の中を、近くにあった水で濯ぎながら、わたしは続いて、残飯の処理に移った。

 勿体ないとは、勿論思っている。食べ物に対する罪悪感だって憶えているし、これを買うために必要なお金のことも、無駄な使い道をしたな、と思う。しかし、どうやらこれ以上この食べ物のことを見ていると、またぞろ吐いてしまいかねないらしい。事実、ごみ袋の中に弁当箱やパスタの皿を捨てている時ですら、その混ざり合った匂いに嘔気を催してしまったほどだ。折角、頑張って食べたおにぎりが、また出てしまうかと思って、必死にこらえた。

 胸を拳で叩いたり、首に手をやったりして、何とか出してしまわないようにして、袋の口を固く縛る。それを部屋の隅、ごみ箱の傍に押しのけて、ようやく今日の晩御飯が終わった。

 この後は、薬を飲んで、ゆっくり休むだけだ。わたしは、嫌いなものを一杯食べたり、吐いたりして、精神的に疲弊した身体を休めるため、いつものように薬を噛んで飲み下すと、すぐに布団へ寝転がった。お風呂はそういえば入っていないし、服だって制服のままだった。しかしどうせ夜中に目が覚めるか、このまま入眠できずにだらだらと過ごすのだから、その時でいいか。なんて考えて、スマホを触る。

 先生とのトーク画面を開くと、新しいメッセージ。

『そしたら、なんか考えとくね! 楽しみだなあ』

 それを見て、わたしは改めて、先生とまたご飯を一緒に食べられることに思いを馳せた。とても嬉しい。先生と一緒なら、味のしないご飯でも、きっと味が少しは感じられるかもしれない。何せ、先生の手料理なのだから。

 机の上に、ずらっと並ぶ先生の手料理。わたしは部屋で一人、口に手を当てて、思わず涙を零していた。

 本当に、自分が嫌になる。

 好きな先生と食卓を囲んでいるところを、想像しているはずなのに、それだけで吐き気が止まらないのだ。

 先生と一緒なら、吐きそうになることなんてないはず。きっと気の迷い。自分にそう言い聞かせ、わたしは喉に手をやった。こんな吐き気なんて、憶えるはずがない。きっと何かの間違い。

 大好きな先生の作るご飯なら、食べられるはず。きっとそう。

 不安な気持ちを押し殺して、必死でそう思い込もうと努力する。そして、より強く、先生の手料理に思いを馳せる。きっとお洒落な部屋で、先生が美味しいご飯を作ってくれていて、部屋に入るとその匂いが漂っている。先生がエプロンなんかつけていて、二人で楽しく食事をする。

 先生が口に食べ物を運び、わたしも恐る恐る食べ物を口に運ぶと、味を少し感じられる。

 そんな想像。

 そんな想像は、自傷行為に等しいらしい。わたしはとうとう抑えきれなくなって、再び浴室へ飛び込むようにして入ると、そこでようやく、呼吸諸共抑え付けていた手を、喉から離す。そして次の瞬間には、何度も何度も嘔吐を繰り返していた。今度は、先ほどよりもよっぽど酷い。胃の中に入っているのはおにぎり一つだけだ。それはとうに吐き出されているはずなのに、それでも吐き気は収まらない。胃酸だけがとめどなく喉を通って吐き出され、食道がひりひりとする。咳き込み、えずき、くちからよだれを垂らし、見開いた目から涙が垂れる。苦しい。吐きたくない。でも吐き気は収まってくれない。

 一体どれくらいそうしていただろう。ようやく吐き気が治まり、わたしは咳き込んで、唾を吐き出す。血が混じっているのか、やや赤い唾が床に垂れる。喉は奥の方が腫れあがり、とてつもなく痛い。息をするのも、唾を飲み込むのも、吐き出すのも。喉を使うすべてに痛みと不快感を憶える。そしてこの様子では、飲み込んだ薬も当然、吐き出してしまったことだろう。結局、空腹の状態で飲まざるを得なくなって、誰に対して、というわけでもない罪悪感を憶えた。

 強いて言うなら先生だろうか。

 好きで好きで、大好きでたまらないはずの先生を想像して、手料理を思い浮かべて吐いてしまう。わたしは本当に、死にたくなった。

 いっそ、死んでしまおうか。

 冗談ではなくそう思い、わたしは吐きすぎてぼうっとする頭の中、気が付けば手で喉を締めていた。意外と、自分の首というのは片手で押さえるには太いな。なんて思いながら、その手に力を込めていく。気道と頸動脈を、特に押さえるようにして、締める。昔お父さんに、幾度となくされていたことを思い出しながら、わたしは呼吸を止めた。

 脳に供給される血も直に循環が悪くなり、顔が充血し、膨らんだ風船を想起させるような苦しみを感じる。だが、懐かしい感覚でもあった。

 ベッドに押し倒され、顔を何度も殴られ、ようやくわたしがお父さんの言うことに逆らわなくなったところで、お父さんはわたしの首を絞めたり、髪の毛を掴んだりしながら、乱暴に、まるで物でも相手にしているかのように、何度も犯してきた。

 今からまだ半年も前のことである。

 お父さんは、お酒に酔っぱらうと、いつもそうだった。わたしのことを実の娘と知っていながら、この身体を凌辱した。破瓜の屈辱は、未だに忘れられない。とても怖かったし、悔しかった。思えば、その頃からわたしの精神は、ゆっくりと、壊れ始めたのだろう。少なくとも、暴力を振るわれる程度なら、わたしはまだ耐えられていた。お父さんがわたしを殴るのは、わたしに原因があって、わたしが悪いからと自覚出来ていたから。

 首を締め付け続けて、朦朧とする意識の中、わたしはお父さんのことを、ふと思い出していた。

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