14話:味覚障害と克服
味覚障害。
それに対して自覚が芽生えたのは、いつだろう。
確か、まだお父さんと暮らしていた頃だろう。わたしがご飯をいつも通り作ったのに、お父さんに味のことでとても怒られたことを、鮮明に憶えている。
味が濃い。お前は飯も満足に作れないのか。と、そんなことを言われて、わたしは何度も自分で作ったご飯を食べてみた。これでも料理にはかなりの自信があったから、初めはお父さんの言葉を疑った。しかし、醬油を大匙一杯口に含んでみても、砂糖を山盛りに掬って食べてみても、まるで味というものを何も感じられなくて、挙句の果てには砂糖と塩の区別もつかなくなった辺りで、わたしは自覚したように覚えている。
ああ、とうとうわたしは舌もおかしくなってしまったらしい、と。
それから今に至るまでの間、更に悪化してしまったらしい。昔は辛うじて、食べ物の触感を楽しめていたのが、今では食事そのものが嫌いになっていた。
触感は不快なものとして感じられるし、味は全く感じないお陰で、何を食べても土や砂を食べている気分になる。香りも最近では、食べてもおいしくないものの匂い。として脳が判断してしまっているのか、肉が程よく焼ける匂いも、野菜の煮込んだ匂いも、すべて嫌なものとして認識するようになっていた。
そして、それは意識して治そうとすればするほど、悪化していくようにわたしの舌は、鈍感になっていった。きっとストレスを感じているせいで、余計に味を感じられなくなるのだろうか。そんな中で強いて感じられるのが、唐辛子の辛さとコーヒーの苦みだった。だがそれも、通常の人達に比べれば、どうやらかなり鈍いらしい。唐辛子はどれだけかけても、少し辛いかな。程度にしか感じられないし、コーヒーは微かに香りと苦みが感じられる程度。そんな有様では、どれだけ薬の前に食事を摂るように医者から言われていたとしても、あまり積極的にその言いつけを守ろうとしないわたしの気持ちも、分かっていただきたい。
わたしにとって食事とは、嫌な時間だった。なまじ、昔は食べることが大好きだったから、余計に。
勿論、先生の手料理も食べてみたいと思う。だがわたしはそんな有様だから、折角先生が、話の流れで誘ってくれた手料理の提案にも、すぐにラインを返せなかった。
部屋に帰ってきて、うつぶせで寝転がって。それからすぐに先生からラインが来た。この間は家にお邪魔しちゃったから、前に言ってくれていた手料理でもてなしたい。そんな文面に、わたしはすぐにベッドから飛び起きた。そして、是非とも。という返信を返そうとしたところで手が止まってしまい、今に至るわけだ。
勿論、食べたいに決まっている。それに、先生の家へお邪魔する機会など、この先、次にいつ訪れるとも限らない。例えばここで先生の誘いに乗れば、わたしは先生に次もお願いしやすくなる。わたしの栄養状態を心配してくれていた先生のことだ。わたしが少し、先生の手料理を教わってみたいです。なんて言えば、それで済む話だから。しかし、ここでわたしが断ってしまったら、先生は次に誘いにくくなる。きっと食事の誘いがあったとしても、それは外食になるだろう。あの先生のことだ。急に距離を縮めすぎたかな。なんて気にしてしまうに違いない。
だから、絶対に誘いに乗るべきである。だがそれが出来ない理由も、またあった。
要は、わたしはご飯を食べるという行為自体が嫌いになっている。誰だって、美味しくない、どころか変な味のするぶよぶよとした茶色い食べ物とか、茹でられて生暖かくなった赤色の、丁度ミミズのような形のものを食べたくはないだろう。わたしにとって、ステーキとパスタはそう映っているのだ。いくら先生が好きで、家にお邪魔できる格好の機会だとしても、流石に尻込みしてしまう。
わたしはしばらく、一人でコーヒーを飲みながら、うんうんと唸って考える。そうして、腹を括った。
わたしが先生のことを好きな気持ちは、ご飯を嫌いな気持ちと比べた時に、どっちが上だろう。そう考えた。勿論、わたしは好んで不味いものを食べるほど、酔狂な性格はしていない。しかし、好きな先生が一緒に居た時、わたしは確かに何も考えずにご飯を食べられていたのだ。この何も考えず。というのがわたしにとって、とても驚いたことだった。いつも、不味いものを食べる時は、あれこれと考えながら、ちびちびと食べ進めてしまう。それを、何も考えずに。ならば、これこそわたしの味覚障害を直す、絶好の機会ではないかと考えた。
『はい、是非とも先生の手料理、食べてみたいです。何を作ってくれるんですか?』
ラインにそう入力して、わたしは送信ボタンを押す。すると間もなく既読がついて、返事が返ってくる。
『なにかリクエストとかあったら、訊くよ』
食後のコーヒー以外、何を出されてもほとんど変わらない。わたしはそう思いながら、先生にお任せした。
『じゃあ、先生の得意料理で、栄養バランスのいいメニューが知りたいです』
それからわたしは、そのままの服装で、財布を片手に家を飛び出した。向かうのはもちろん、近くのコンビニ。
いくら前回、先生と一緒に食べたコンビニのお弁当が、何も考えずに食べられたとして、勿論、自分一人でも食べられるならその方が良いに決まっている。朝晩、先生と食卓を囲むわけにはいかないのだ。いや、理想ではあるけれど。
自動ドアをくぐり、わたしは店内に入ると、いつも通りにお弁当コーナーへ向かう。いつも数えられるほどの種類しかない中から選んでいるため、一週間、違うものを食べることなどない。二日連続で同じ弁当を選ばないようにするだけで、わたしは精いっぱいだった。なにせ、何を食べても同じもののように感じるのだ。昨日はどのお弁当を選んだか、なんて。そんなことは憶えてなどいない。
だが、今日は何もお弁当で摂りたくない栄養を取る。それだけが目的ではなかった。わたしはカゴを持ってくると、その中へおにぎりやらサンドイッチ、勿論お弁当に菓子パンなんかも、とにかく何でも詰め込んで、レジに通してもらう。
その考えは、こうだ。
まず、わたしはそもそも、自分でも思うのだが、食事を楽しもうとしていない。それこそ、先生が目の前にいない限り。だがそれではやはり、進展がない。ならば、いろんな食事を食べる。そこから見つめ直すことにした。誰だって、一週間を4つ、5つの種類のお弁当で過ごして、その生活が数か月も半年も続けば、食に対する関心自体が無くなるだろう。幸い、わたしのこの味覚障害は心因性らしい。身体の中の亜鉛が欠乏しているとか、そういうわけでないらしいから、要は気の持ちようだ。
ずっしりと重たくなった袋を片手に、しかしわたしの顔色はなかなか悪かったと思う。なにせ、普通の人にとって、これは食事だろう。だがわたしにとって、これはペットショップで犬や猫の餌を買って、それを家に持って帰る様な、そんな気分だった。
自分のご飯じゃない。自分が食べるものじゃない。そう思いながら、持って帰り、そしてそれを食べなければいけない。ほとんど学校帰りのすっぴんだったので、マスクをつけて行っていたのだが、どうやらそれが幸いしたらしい。きっとこれがなかったら、わたしの口元は、何度も胃からせりあがってきていた胃液で汚れた姿を、大衆に見せることになっていたから。
玄関の扉を閉め、わたしは早くも袋を床に落とすと、そのままマスクを外し、靴も脱がないままに嘔吐を繰り返す。といっても、何も食べていない身体から何も出て来はしないのだが。ただひたすら、吐き気を憶えて吐こうとして、胃がひっくり返りそうな感覚に襲われて、胸の上の方がずきずきと痛む。それを感じていた。
そしてわたしの身体がようやく落ち着いたころ、わたしは口元を手で拭うと、床に目を落とす。口を開けてえずいていたために、どうやら床には唾液の、そして少しの胃液で構成された水たまりが、そこにはあった。
わたしはがたがたと震えて、思う通りに動かない手足を動かして、ゆっくりと靴を脱ぐと、それを踏まないように廊下へ上がる。それから壁に身体を預けて、伝いながら洗面所へ向かう。
口を濯ぎ、濡れたタオルでそれを拭き取る。そして洗濯機へ突っ込むと、再び、置いてきたご飯たちの入った袋の元へ向かう。なるべく見たくはなかったので、目を少し反らすようにして、それを拾い上げると、そのままリビングへ向かった。
気が重い。
食べたくないな。
そんなことを考えながら、ソファにゆっくりと座り込むと、まずは中からサンドイッチを取り出した。包みを開け、中から一切れ、手に取る。それを掴む指先が、先ほどから震えている。わたしは落としてしまわないように両手でそれを掴み直すと、口元へ運ぶ。柔らかいパンの感触が唇に触れ、ゆっくりと開けた口の中へ、入ってくる。そして一口。
美味しいと思え、美味しいと思え、美味しいと思え。
味を想像しろ。サンドイッチの具のレタス、みずみずしい触感とか、マヨネーズの食欲をそそる甘酸っぱさとか、黒コショウの清涼感ある風味とか。
わたしは頭の中で、必死に味を想像した。だが、無駄だった。味が感じられないのだ。少なくとも、お父さんと食卓を囲んでいた頃よりも、更に酷くなっているのは、認めざるを得ないほど。なにせ、わたしは口の中に確かにサンドイッチを運んだはずだった。それなのに、何を食べたかもう忘れかけている。自分は何を食べたんだろう。そんなことを考えている。
胸が締め付けられ、悔しさと悲しさで泣き出しそうになるのを奥歯で噛み殺す。わたしは袋の中からペットボトルの水を取り出すと、それで流し込んでから、今度は一気にサンドイッチを食べ進めた。
半ば口の中へ押し込むようにして、いっぱいに頬張る。それから何度も何度も、味わうように噛み続けた。しかしそんなことをしても、得られたものと言えば、とてつもない不快感だけだった。口の中でサンドイッチが、さながら吐瀉物のようにぐちゃぐちゃになって、喉を通ろうとする。まるで人の吐いたものを食べさせられているような感覚を憶え、わたしは何度も胃からこみ上げるものを感じた。それを必死で堪えるために自らの首を絞めたり、胸を拳で何度も叩いたりしながら、更に顎を動かす。
きっと、さっきは口の中に含んだ量が少なかっただけだから。これだけ頬張れば、まだ味を感じられるはずだから。そう自分に言い聞かせながら、何度も何度も咀嚼を繰り返す。鼻から匂いを感じてみようとしたり、舌を動かして、味わいを確かめようとも試みた。
その試みが悉く潰えた後、わたしはゆっくりと、何度かに分けて飲み込んでから、肩で息をしていた。
苦しい。それは満腹感を感じて、というのもあるが、味を感じられない自分に対しての苦しみでもあった。だがそうも言っていられない。先生とご飯を食べるためのリハビリだ。そう思い込んで、わたしは袋に手を伸ばす。次はもっと味の濃いもの。そうして普段は買わないであろうパスタがあったので、それを取り出す。蓋を乱暴に開け、八つ当たりをするように遠くへ投げ、フォークを突き立てた。よく煮込まれているのだろう。いい色をしているミートソースをたっぷりとパスタに絡め、わたしは口の中へ頬張った。
勿論、内心では怖がっている。これも全くと言っていいほど味がしなかったらどうしよう。香りも何も感じられなかったら。そんなことを考え、手はもうずっと震えたままだし、息は自然と荒くなる。水で流し込んでいるせいで、お腹が膨れてきた。なにせ、普段はサンドイッチならあの一つで、十分お腹がいっぱいになってしまうのに、パスタに手を伸ばし、その後もまだまだ食べ物たちは残っているのだから。
口の中に一口分、まずは運び込む。アルデンテ風と書かれていたように、やや固茹での麺が、ミートソースと絡み合って、トマトと挽肉の風味が、口の中に広がるはずだ。にんにくの風味なんかも、食欲をそそるだろう。ああ美味しい。もうひと口、もう一口と、止まらなくなるだろう。
わたしは気が付くと、怒りのままにフォークをテーブルへ投げつけていた。プラスチック製のフォークは、軽く音を立てて転がる。
それから、色々なものを食べた。鮭のおにぎりに梅のおにぎり、ハンバーグ弁当に牛丼、かつ丼に親子丼、ピリ辛ポークカレー、梅ソースをかけて食べるチキンのパスタサラダ。サバの塩焼き。
そのどれもすべて、一口は食べてみた。だがどれを食べても怒りは増すばかりで、その度に机の上が散らかっていく。
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