12話:男と女
彼氏? わたしは頭の中に飛び交うクエスチョンマークの中、先生に尋ねる。
「あ、あの、彼氏って……」
言いながら、わたしはしかし、その答えを知っている。相手の人の性別は、きっと女性なんだろう。
そして、その通りだったらしい。先生はやや恥ずかしそうに、続きを話した。
「ああ、そうなんだよ。先生、高校は女子高でね。そこで好きになったのが、呉羽先輩だったんだ』
それから聞いたところによると、その呉羽さんという方は、絵に描いたような才色兼備。勉強も出来れば、運動も出来る。おまけにショートヘアーの似合う人だったらしい。
つまり、先生の初恋の人とは、女性らしかった。まあ、女子高であるなら、それは珍しい話ではない。事実、女性は男性よりも、自覚のない同性愛者、もしくは両性愛者である割合が多いという研究結果も目にするほどだ。だから、先生がその類だったとして、驚愕するほどではない。むしろ、都合が良いとすら思う。別にわたしは、少なくとも自覚している限りにおいて、女性が好きだという感覚はない。ただ、どれだけ口ではあれこれと言っていても、結局わたしが服を脱げば、迷わず抱こうとする男たちより、先生のように優しい女性に惹かれるのは、ある種の必然と言えるだろう。
女性が好きなのではない。男性が、それ以上に嫌いなのだ。
あんな肉欲で脳みそを支配されたような生物。好きになれるわけがない。
『……どうしたの?』
そんな先生の声で、わたしは自分が眉間に皺を寄せていることに気付く。慌てて返事をした。
「い、いえっ、大丈夫です!」
『そう? ならいいんだけど』
それからわたしは、先生と他愛もない話をして、電話を切った。本当はもっと、先生と話をしていたかったが、それは先生の迷惑になりかねない。わたしと違って、先生は忙しい身だ。学校の教師という仕事は、片手間に務まるものではない。だからわたしはその代わり、引き出しからアトマイザーを取り出すと、鼻に近づけた。
不思議だ。別に今は先生が目の前にいるわけでも、写真を見ているわけでもない。それなのに、この香りを感じると、先生とのいろんなことが想起される。例えば、先生が家から出ていくときのあの悲しさ。色々とカウンセリングで話した内容。先生の見た目。そういったものが、まるで濁流のように脳みそへあふれ出す。そして、わたしはまた、気持ちが落ち沈む。
もう、きっと先生はわたしの部屋に来てくれることはないんだろう。そう思うと、吐き気すら催すほど、落ち込んでしまう。胸が痛むほど締め付けられて、首を持ち上げておくのすらしんどくなる。そのまま、わたしは枕に顔を突っ伏した。息がし辛くなる。だが、このまま死んでしまいたい。そう思ってしまうほど、落ち込んでいた。
なんであんな人、好きになったんだろう。どうせ手が届くはず、ないのに。そう思って、わたしは何度も、先生への恋心を忘れようとした。きっと、カウンセラーとしてわたしの話を聞いてくれているのを、わたしが勝手に勘違いしているだけだ。この気持ちは、だからまやかしだ。本当は、先生のことが好きなんじゃない。ただ、心の拠り所と、恋心を混同してしまっているだけだ。わたしは何度も、自分に言い聞かせた。そうして、自分の恋慕の気持ちを否定した。だが、否定し切れなかった。
どれだけ先生への気持ちを否定したところで、それでもわたしはあの人が好きだった。教壇に立っている姿も、隣を通った時に香るこの匂いも、先生の声も、姿も、何もかも。だから、部屋に来てくれた時、とても嬉しかった。
わたしはキャップを締め、引き出しにしまう。そしてベッドへ身を沈めた。近くのリモコンを手に取り、眩しい蛍光灯を消す。そして、目元に袖を当てた。
眠りについたのは、いつだっただろうか。気が付くと、朝を迎えていた。わたしはあまり寝た様な気持ちもしないまま、ベッドから身を起こす。そして、昨日冷蔵庫に入れたグミを口の中に放り込みながら、朝の支度へと取り掛かる。その気持ちは、待ちに待った月曜日だというのに、どうも身体が重たく感じられた。だが、そうも言っていられない。学費が無駄になる。そうやって自分を騙しながら、わたしは昨日入りそびれたシャワーを浴び、髪の毛を乾かし、自然なメイクをする。そして薬を飲むと、鞄を肩に掛けた。
玄関のドアを開けると、外の空気の匂いがする。窓もカーテンも閉め切った、湿ったわたしの部屋とは違い、今日は快晴らしい。太陽が燦々と照り付け、駅から学校へ着くまでの間、わたしの首や背中をセーラー服越しにじりじりと照り付ける。周りを歩く学生たちは、みんな楽しそうに話している。きっと、自分が口を利けていることに、何もありがたみや、疑問を抱いたりしていないのだろう。当たり前だ。彼ら彼女らは、生まれてこの方、わたしのように大勢の人の前で口が利けなくなる苦労など、感じたことがないのだから。
なんでわたしだけ。そう思って鋭くなる目つきを、必死に元へ戻しながら、下駄箱の上履きを履いて、授業を受ける。
授業は退屈だ。予習しているせいで、分かりきっていることを教えてくる先生達に、嫌気すら憶える。今日は時間割に科学がないから、余計に嫌になるのだろう。せめて科学があれば、秋月先生と会えるのに。わたしは淡々と板書をしながら、この後のカウンセリングで話す内容ばかり、頭で考えていた。
今日は授業が楽しくなかったです。先生。また家に来てほしいです。先生の匂いを感じたいです。先生と少しでも一緒に居たいです。先生に、……先生に、抱かれたいです。
結局、最後の授業が終わるまで、わたしはそんなことばかり考えながら、ただ黒板の文字をノートへ写していた。そして放課後。
誰よりも早くノートなどを鞄へ詰め込むと、わたしは早歩きで先生の待つ部屋へ向かう。そこでようやく、窓に映った自分が、笑顔を生じていることに気付かされる。ようやく先生と会える。ようやく話が出来る。そう考えるだけで、胸が緊張と興奮で、高鳴るのを感じる。息は小刻みになり、歩幅は大きくなる。
扉をノックすると、ほどなくして、先生が開けてくれる。
「やっほ、いらっしゃい」
いつも通り、わたしは口角が上がらないように必死で平静を保って、部屋に入る。それから、準備室へ通されて、丸椅子を示される。
「座ってー」
寝不足なのだろうか。先生はいつもより少し目を眠たげにして、自身も換気扇の近くに座る。それから、煙草に火をつけた。
「あー、つっかれたあ」
「大丈夫、ですか?」
わたしは丸椅子を先生の近くまで引きずって近づくと、隣に座る。近くで見ると、先生の目の下にはやや隈が出来ていた。どうやら、それなりに寝不足らしい。それでもメイクはちゃんといつも通りしているし、髪の毛だって綺麗に整えているところを見ると、流石は先生だ。
感心するわたしに、先生は台に突っ伏しながら、答える。
「だいじょばないかも……今日、特に授業が多くて、しかも3年生の授業ばっかりだったから……疲れた」
「ああ、そろそろ受験対策に向けて、難しいところに入る時期、なんですかね?」
分からないながらも尋ねてみると、先生は顔を上げずに頷いた。そんなところも可愛いです。
わたしは、よしよししてあげたら元気出るかな。なんて考えながら、そんな先生の姿を眺める。先生は、顔を背けて煙草を吸うと、またうつ伏せに戻った。
「そう……だって、みんな賢いからさ、わたしも家で頑張って毎日勉強してるんだけど……わたしがついてけないよ」
なんなん、ファラデーの電磁誘導の法則とか。先生はうつぶせのまま、何か良く分からない法則を呟く。だが、それが分からないのはわたしも同じである。なにせ、科学は苦手なのだ。先生の授業だから、頑張って勉強こそしているものの、他の授業と比べて、圧倒的に理解できない。ファンデルワールス力と、水素結合の違いが判らない。だって、洗濯物は水素結合だけど乾くじゃん。意味不明。嫌い。
というか、わたしは勉強自体、そもそも苦手だった。嫌いではないが、苦手。その理由は、きっとわたしが中学時代の勉強を、まるまる学校で済ませていないことに起因しているだろう。何せ、そもそも学校に行っていないのだ。今でこそ、ようやく高校二年生の授業の予習まで漕ぎつけたが、つい数か月前、高校一年生の終わりまで、わたしは中学生が習うであろう内容の勉強に、躍起になっていたのだ。
別に、学校に行きたくなかったわけではない。ただ、行かせてもらえなかったのだ。その理由は勿論、わたしのお父さんにある。彼がわたしを家に縛り付け、学校に行かせようとしなかった。けれど、そこに責任を求めたところで、失われた私の時間が戻るわけでもない。それに、しようと思えば、勉強はいくらでも出来た。それをしなかったのは、わたしの怠慢だと自分で思う。教科書は破り捨てられ、ノートも見つかれば怒られていたけれど、それでも甘えてはいけない。
周りの大人たちは、勉強できなかったのは自分のせいじゃないとか、そんな身勝手な言葉をかけてくれる。だが、それに甘えて、そうか、わたしが勉強できなかったのは、お父さんのせいなんだ。なんて思ったところで、だれかがその先の面倒を見てくれるわけではない。大人とは、つくづく身勝手なものだ。慰める一方で、出来ないことに叱責してくる。
「あっ、そうでした。……悩んでることなんか、ありませんよ?」
わたしはあくまでしらを切る。だが、無意味なのはわかっている。事実、先生は目を細め、こちらに疑惑を孕んだ目を向ける。
「嘘。昨日も電話してて思ったんだけど、絶対に悩んでること、あるでしょ? それ、言いたくないこと?」
言いたくない。わけではない。それをわかって、先生は訊いてきているのだ。わたしは観念して、口を開く。
「そ、その……実は、最近、薬の量が、また増えて……」
だが、観念したといっても、本当のことを話すわけではない。いや、薬の量が増えたのは本当だし、悩んでいるのもまた、本当だが、最大の悩みではない。肉を切らせて骨を断つ、わけではないが、この悩みはあくまでも、一番の悩みではなかった。
というかそもそも、一番悩んでいることなんて言えるわけもない。どんな顔をして伝えればいいのだろうか。先生、あなたのことが好きで好きで、いっそ死んでしまいたい程悩んでいます。なんて。
女子が女子を好きになることについて、先生はどう思いますか。なんて。
どんな顔をして言えば。
「望月さ」
その時の先生の顔は、あまりわたしが目にすることのない顔をしていた。だから、よく覚えている。少なくとも、先生はわたしがこの時、話をぼかそうとしたことが、あまり嬉しくなかったのだろう。
いや、嬉しくなかった、なんて言い方は良くない。もっと正確には、気に入らなかったのだろう。
気に入らなかった。つまり不快。その顔に、わたしは久しぶりに、人に対して恐怖を憶えた。
普段怒らない先生が、怒っているような表情を浮かべていることに対して。
「なんで嘘つくの?」
「え、えっ……と、その」
先生は身を乗り出すと、わたしに顔を近づけてくる。わたしは咄嗟に仰け反ろうとしたが、しかし。
しかし、先生の浮かべた表情を見て、目が離せなくなる。先生は、怒っている。というより、どこか悲しそうな顔を浮かべて、こちらをじっと見つめていた。
肩に添えられた手に、少しだけ力が篭る。奥歯を噛む音がして、先生は視線を反らした。
「……あんまり、ひとりで抱え込むのは、良くないと思うよ。もっちー」
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