11話:初恋の相手と性別
心当たりが全くないわけではない。それは言うまでもなく、先生の存在だ。昨晩の時は、先生が一緒にご飯を食べてくれた。朝食も。だから、きっとこの不味さにも気付かないで、食べ進められたのだろう。だが、わたしはそれでもにわかには信じられずに、しばらくシンクの中に残ったその瓜二つのお弁当のゴミを、見つめていた。なにせ、あれほど不味かったのだ。いくらわたしが先生のことを好きだとはいえど、これほど不味いお弁当を、全く気付かずに食べ進められるものだろうか。から揚げはなんだか油が回ってぶよぶよと、太ったカブトムシの幼虫のような、思い出すのも悍ましい触感をしていたし、野菜もゴミ箱の中の残飯を漁って口に詰め込んでいるかのような、惨めな気持ちにさせてくれる鮮度だった。ポテトサラダは粉っぽくて、紙粘土と同じ触感だったし、卵焼きは変に甘ったるくて、よくわからない何かをとりあえず卵焼きの形に押し固めました、というような、偽物のような味わい。極めつけにご飯は、全体がべちゃっとしているところがあったり、変に硬く水分が飛んでいるところがあったりして、大量の蛆虫の死骸を食べている時の感覚だった。
そのどれも経験したことがあるのだから、この例えで間違いないだろう。どれも、お父さんがわたしに過去、してきた行為だ。きっと、そんな食事を摂らされたから、余計にご飯を食べるのが嫌いになったのだろうか。わたしは思い返すだけでも胸がむかむかとして、胃が不規則にせりあがってくるような感覚に襲われたので、思い出すのを中断した。もう、あの手のひらでうねうねと蠢く幼虫を、頭から食い千切り、ねっとりとした体液と、その中にある妙に弾力を持った、食道やら腸やらを、ぷちぷちと嚙み切るあの感覚。口の中に土臭さと、妙な苦さと甘さが混ざり合って、挙句の果てには上半身は口の中で、下半身は摘まんだ指先で、それぞれが気の狂ったようにばたばたとのた打ち回るあの光景。お父さんは、そういったわたしが嫌がることをして――わたしでなくても、誰でも嫌がると思うが――それを楽しそうに眺めていた。
すぐに歯磨きをして、口を念入りに濯ぎ、それからようやく、シンクのごみを集めて、ごみ箱に改めて捨てる。時計を見ると、時刻は夜の19時31分。そういえば、件の先生もそろそろ家に着いた頃なのだろうか。わたしはせめて気を紛らわせるため、あまり味のしないと分かっていながら、インスタントコーヒーを作る。辛うじて苦みが感じられるくらいだから、ミルクも砂糖も入れない。必要ないのだ。お金の無駄と言っていい。
だから、わたしの家の食器棚や、冷蔵庫には、およそ調味料らしい調味料は、何も入っていない。醤油もソースも、ドレッシングも、マヨネーズもケチャップも、かけたところで大差ない。だから一人になってから自炊の必要性も感じなくなったし、この間、塩と砂糖も捨てた。捨てなくともあれば使うかも。と思ったが、見ているとどうにも悲しくなる。わたしに調味料を与える行為は、足の不自由な少女にバレエシューズを与えるようなものだ。そしてその代わりに、最近、わたしは香辛料を集め始めた。一味唐辛子、わさび、からし、黒胡椒、タバスコ、この間コンビニで見つけた、五種類の唐辛子をブレンドした、とても辛いスパイスパウダーなども、我が家の食器棚に鎮座している。幸い、味が分からなくなっても、辛さは痛覚であるため、まるで味がしているかのような気持ちになれる。だからわたしは、どうしても食が進まない時などは、これらをかけている。今日はそんな元気もなかったから、そのまま胃の中に詰め込んでいたが。
電子レンジで湯を沸かして、それをマグカップの中に注ぐ。上から粉を入れて、ぐるぐるとスプーンで掻き混ぜる。それを一口飲んだところで、そういえば鞄の中に、グミを買って入れっぱなしにしていることに気付く。勿論、これも味は分からない。だから嗜好品というよりは、薬を飲んだ時、どうしても何も食べられない状態に陥った時に胃を保護するための物だった。これなら小さくて、水で流し込んでも嫌な味を感じることなく、流れるように入っていってくれるだろう。だが、今は特に使う必要性もなかったので、わたしはそれを冷蔵庫にしまった。
そしてベッドにうつ伏せで寝転ぶと、スマホを手に取った。ラインを開き、先生とのトーク画面を確認する。だが、先生からの連絡は、まだ届いていない。そのことにわたしは肩を落とすと、スマホを
枕元に放り投げた。そして、そのまま横になる。まだ身体だって、万全とは言えない。頭はさっきからズキズキと痛み続けているし、意識だって靄がかかったみたいになっている。それになにより、わたしは薬が効いてきたのか、少しずつ、身体が重くなるような、そんな感覚に苛まれていた。頭では、先生からの連絡を起きて待っていないといけない。そう思ってはいても、今も横になって先生とのトーク履歴を何気なく遡っている、そのことからわかるように、わたしは眠気を憶えていた。
それも、寝不足の時に感じる様な、あの感覚ではない。もっと強烈で、全身が底なし沼に引きずり込まれていくような、あの感覚。わたしはそれに逆らおうと、必死で身体を起こしてみたが、しかし薬の前では、無力を思い知った。そしてそのまま、眠ってしまったらしい。
次にわたしが目を開けた時、一時間半は経過していただろうか。時計の針は、かなり進んでいた。
頭が重い。力を抜けば、弧を描くように頭部を振ってしまうほど、まだ寝足りない様な気もするし、身体も怠い。時々、薬の副作用がこういった形で現れるのだ。わたしはそんな身体を必死に動かすと、枕元へぶっきらぼうに放り投げたらしいスマホに手を伸ばす。
だが次の瞬間、わたしはベッドの上で正座をして、意識も瞬時に覚醒していた。それほどまでに、先生からの不在着信は、わたしの意識を覚醒させるに足るものだったのだろう。震える指先で、先生に電話を掛け直す。
耳元で、呼び出し音が一度ループして、それから先生が電話口に現れた。最後に不在着信があったのが、今から15分前だから、それほど時間は経っていない。ただ、わたしは先生が折角、電話をかけてきてくれていたのに、それを無視してしまったことに対する罪悪感で、胸が締め付けられていた。
『もしもし、もっちー? どしたの?』
会議も終わって、今は家に居るのだろう。気の抜けた様な先生の返事が、電話越しに返ってくる。わたしは思わず顔が綻ぶのも気付かず、口を開いた。
「そ、その、不在着信を見て、折り返しました」
『あっ、そうだったんだ! ごめんごめん、気遣わせちゃったね』
「いえいえっ、そ、そんなことはないです! それで、その、用件は?」
話しながら、わたしは自分がどれだけコミュニケーション能力に欠けているかを思い知る。だが仕方がない。誰だって、好きになった相手と話すときは、これくらい何も話せなくなるものだろう。わたしは落ち着かなくて、ベッドから立ち上がる。つい数時間前まで感じていた身体の不調など、どこへやら。今は先生のことで、頭がいっぱいになってしまったらしい。動くようになった身体で、わたしは部屋をぐるぐると歩き回りながら、先生と話す。
『いや、大した要件ってわけでもないんだけどさ。ただ、会議で急に電話切らないといけなくなったから、申し訳なくなって、かけ直そうかなって』
電話越しに、先生は笑う。きっと、大した要件とかはないのだろう。朝の電話だって、先生に香水のアトマイザーの件で気になってかけただけだ。ただ、わたしは少しでもこの電話を長く続けていたい。そんな気持ちで、先生に話を振った。
「そうなんですね。……そういえば、このアトマイザーの中身、なんて香水ですか?」
本当に、自分で言うのもなんだが、話を振るのが下手だ。だが、先生は親切に教えてくれる。
『えっとね、イヴサンローランのブランドの、モンパリって香水だったかな。……ちょっと待ってね、すぐ見てみるから』
そしてスマホを置いたらしい先生は、香水を探しに行く。わたしはそこで、ふと、思うことがあった。
もし、ここでわたしが事に及んだとして、先生は気付かないのではないだろうか。
わかっている。そんなことをするのは変態だし、それにもし先生にバレてしまったら、わたしはそれこそ学校に行かなくなるだろう。ただ、薬で酩酊したように鈍った脳みそは、きっと本能がいつもよりも表層に現れているのだろう。気が付くと、わたしは遠くの方で聞こえる先生の声と、物音に耳を澄ませながら、決してバレないように、こっそりとスカートに手をかけていた。
何をやっているんだろう。わたしも先生も、女同士だし、そんなことが許される関係ではない。必死に頭で否定して、自分の手を止めようと試みる。だが、一度かけてしまった手は、そのままするすると、自分のスカートを捲り上げ、音が漏れないよう、布団を被っていた。そこで、先生が電話口に再び近づいてくる音が聞こえて、わたしは思わず手を止めた。
『いやあお待たせ、分かったよ。モンパリの……えっと、オーデトワレ? っていうらしいよ。なに、気になったの?』
気になったどころか、自慰行為のおかずにしました。なんて言えるわけもなく、わたしは当たり障りのない返答を返す。すると先生は、ややいたずらっぽく笑った。
『いや、まあもっちーも、確かにお年頃だから、色気づくのは分かるけど、なに、好きな人でも出来たの?』
きっと、先生にとって、それは何気ない一言、もっというと、年頃の生徒をからかう程度の発言だったのだろう。だがわたしは、思わず心臓が跳ねる。まさかとは思うけれど、この気持ち、先生にはバレていないだろうか。そんな不安に駆られ、咄嗟に否定した。
「なっ、そ、そんなわけないじゃないですかっ。……ただ、先生がいい匂いするから……気になって……」
だが、一度生まれた疑念は、そう簡単に払拭できなかったらしい。そのまま先生は、嬉しそうな声を上げた。まるで、友達の恋の話に色めき立つように。
『いやいや、誰かを好きになるのは、別に恥ずかしいことじゃないんだからさ。先生はいいと思うけどなあ。……その子に、良い匂いだなって思われたいの?』
間違ってはいない。ただ、恐らく先生が想像しているのは、相手が男の子の場合だろう。だが実際、わたしが好きになったのは、今まさに貴女なんですよ、先生。なんて言えるわけもなく、適当に話を合わせてしまう。悪い癖だ。こうしてすぐ、人の話に乗っかって、上辺だけで話してしまう。
「まあ、そんな……ところです」
すると先生は、感動したように息を呑む。
『ちょ、ちょっと、本当なの?! 本当に出来たの!? ねえ、先生聞いてないんだけど!?」
膝か何かをぱしぱしと叩くような音と共に、先生は感激したような声を上げた。わたしは、そんな先生に話を合わせるため、虚飾を織り交ぜて話を合わせる。
『え、クラスメイト?!』
「いっ、いえ、違います」
『じゃあ、もしかして……先輩?』
確かに先輩といえば、先生も、人生の先輩だ。わたしは肯定する。すると先生は、スマホが壊れるのではないか、そして先生の家の近隣から苦情が来るのではないか、というような黄色い声を上げた。やはり先生も、かっこいいところはあれど、女の人なのだ。こういう話はとても好物らしい。
すみません、近所の人。わたしは心の中で代わりに謝った。
『そっか、先輩かあ~! いやー、いいね、先輩! 先生も昔、そんな時代があったなあ』
「いや、昔って言っても、数年前でしょ」
だがそんなわたしの言葉は、先生には届いていないらしい。そしておそらく、この恋慕の気持ちも。事実、先生は電話越しにどたどたと音を立てていた。恐らく、部屋の中をわたしと同じように、歩き回っていると見える。
『懐かしいなあ。呉羽先輩、今どうしてるんだろうなあ』
と、そこで耳なじみのない名前が飛び出す。わたしは思わず聞いてしまった。そして、恐らく、この時の何気ない質問を、わたしはこれから先、しばらく後悔することになる。
誰でも、自分の望むモノへの可能性を目の前にちらつかされたら、それに飛びついてしまいたくなるものだ。
『ああ、呉羽先輩っていう先輩が、部活でいてね。格好良かったんだあ。でも、相手が彼氏を作って、やむなく失恋したんだけどねえ』
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