10話:食欲と虫
事が済んで、わたし達はシャワーを浴びてから、裸のままで布団に潜る。ホテルを出ないといけない時間まで、まだもう少しあるから、ゆっくりしてもいいかな。そう彼に言われて、わたしは首を縦に振った。
「なんか、こういう時、どんな話をすればいいのかわからないんだけど」
枕元に灰皿を置いて、煙草を吸いながら、彼はつぶやく。わたしはそんな彼の隣で、両肘を立てて、うつぶせになった。
「その……気になったことなんだけどさ。手首のそれ、自分でやってるの?」
気まずそうに眼を反らすくらいなら、聴かなかったらいいのに。わたしは改めて、彼のお人好し加減に、首を傾げずにはいられなかった。
布団の中から腕を出すと、包帯の巻かれたそれを彼にも見えるようにする。どうやら、かなり気になるらしく、彼は目が離せない様子で、その腕を凝視していた。
「やっぱり、気になっちゃいます?」
「まあ、明らかに痛そうだし……その、悩みとか、あるのかなって」
そういってくる人は、これまでにもいた。このアルバイトの性質上、わたしも服を脱ぐことになるから、こういう傷とか包帯とかは、曝け出される。それを見て、プレイを中断する人こそいないものの、ほとんどの人が、事後に尋ねてくる。その理由は大きく分けて二つ。ひとつは、興味本位。痛そうとか、病んでそうとか、地雷系女子なのかとか。やっぱりこういう界隈だし、一回寝るだけの関係だから、あまり気を使って聞いてくれる人はいない。わたしも慣れたもので、お決まりの返答を返すのみだが。
そしてもうひとつは、本当に心配してくれている人。といっても、そんな人は数少ない。人のことを慮るくらいなら、そもそも未成年の買春に手を出すことが間違っているし、そんなわたしを抱いておいて、今更心配されても。なんて気持ちにもなる。それにそもそも、わたしは男の人、それ自体が嫌いだった。それはお父さんのことがあるからなのか、そもそもの気持ちが苦手としているのか。
なんにせよ、いくら心配されたところで、わたしが服を脱げば、理性を捨てて、欲情する。そんな動物みたいな思考回路の男の人が、苦手だ。
しかし何故か、今のわたしは彼に対して、そんな気持ちを抱けなかった。むしろ、素直に心配してくれたことが嬉しく思うほどだった。といっても、悩みをすべて打ち明けるわけではない。わたしは冷静に考えて、汎用的な返答を返した。
「いやあ、まあ色々ですかね。わたし、寂しがり屋だから、すぐ人のこと好きになるのに、すぐ病んで捨てられちゃうから……」
すると思惑通り、彼は興味を惹かれたらしい。恐らく、自分のことも好きにさせたい。とか思っているのだろうか。だが、わたしの本心としては、男の人を好きになる女の人の気持ちがわからないと、言ってしまいたい程だ。こんな性欲に左右されるような、意思の薄弱な生物を、どうして好きになれるのだろう。考えてみると、父もそうだった。一時の性欲で、不貞をして、妻に逃げられ、それからは苛立ちをわたしにぶつけ、最後には性欲の捌け口にすらしていた。
あの地獄のような一年間を、わたしは一生忘れないだろう。そして、お父さんを許すことも、また、一生無いだろう。
それからしばらくの間、わたしは当たり障りのない、それでいて彼が次回もわたしを買ってくれるように、思わせぶりな態度を取ることに注力した。そうしてホテルを後にする頃には、すっかりそう思わせることが出来たらしい。次もまた会いたいよ。なんて言って、色を付けた金額を、渡してくれた。それをわたしは断ろうとして、断り切れずに財布に入れる。というポーズを取って、彼と別れる。今回の収入で、恐らく二週間の食費くらいにはなるだろう。そんなことを考えながら、近くのコンビニに入る。そしてトイレに入ると、持ってきたうがい薬を口に含んだ。
念入りに口を濯ぎ、吐き気の込み上げる気持ちを抑えながら、洗面所へ吐き出す。鮮やかな緑色の液体が排水溝へと流れていって、口の中に、わざとらしい清涼感が広がる。
それから水道水で口を濯ぎ、鏡を見つめる。彼と別れてから、コンビニのトイレに入るまでの間、何度か嘔気に苛まれたせいだろう。涙でメイクはやや崩れ、目は赤く充血していた。事実、今でも吐きそうだ。早く家に帰りたい。
わたしはそのコンビニで、食欲の湧かない頭を働かせながら、適当にお弁当を手に取ると、レジに並んだ。そして会計を済ませ、帰路に就く。
その帰り道は、重たい体を引きずるようにして、ゆっくりとした様子で歩を進める。丁度月が空高くに上り始め、繁華街に明かりがぽつぽつと灯っている。キャッチのお兄さん、お姉さんたちが路上で立って、待ち行く仕事終わりらしいサラリーマンに声をかける。そんないつもの光景。わたしは改めて、教育に悪い地域に住んでいるものだ。と思った。
道中、ナンパだかキャッチだかわからない人たちの誘いを断って、家に着くころには、温めてもらったコンビニのお弁当も、すっかり生温くなっていて、とても美味しそうとは思えない。わたしは先に引き出しに手をかけて、箸よりも、薬を手に取った。
そろそろ薬が切れてくるころだ。窓の外の太陽も、沈みかけていることだし、気持ちだって、だんだんと落ち込んでくる。
わたしは、夕方が嫌いだ。世間一般では、夕焼けというと、何とも神秘的な時間帯として形容されがちだが、わたしは、そんな感傷的な連想は出来ない。考えるのは、そう、お父さんのことだった。
お父さんが帰ってくる時間。車がガレージに停まり、家の扉をガチャリと開ける音。靴を脱ぐ音。リビングの扉を開けて、こちらには目もくれずに部屋に入ってくる光景。そして、気に入らないことがあると、すぐに手を上げる父の姿。そんなことを、夕焼けから連想してしまう。だからわたしは、夕方が嫌いだった。今でも思い出すだけで、恐怖で胃がキリキリと締め付けられる気分になる。
そしてわたしは、思わず吐き気を憶えて、シンクに顔を突っ込んでいた。胃液がお腹の中からせり上がり、喉を焼きながら唇を伝って、シンクにぽたぽたと垂れる。恐らく、朝の食事と、水分の交じり合ったものだろうか。それが口の中にも残り、その嫌な触感に、更に吐き気を催す。そうして、なにも出ないのに何度も声を漏らしながら吐き続け、足は震え、最後には立っていられなくなる。そのまま、わたしはせき込みながら、いつものように座り込んだ。
まだ口の中も、喉の奥も胃液で焼けてジンジンと痛む。それに胸が不快感に襲われている。目からは大粒の涙があとからあとから垂れて、拭った腕に、赤いアイシャドウが溶けてこびりついている。
だが、そんな吐き気すら、お父さんを連想してしまう。
あれはいつのことだっただろうか。お父さんに殴られ、倒れたところへ、足が飛んでくる。それがわたしの鳩尾を抉り、しばらくの間、ひたすら呼吸すらままならない状態で、嘔吐し続けた。息を吸い込みたいのに、吐き気と、横隔膜が動かなくなったことによって、満足に息が吸えない。その状態で、ひたすら吐き続けたあの苦しみ。このまま死んでしまうのではないか、とすら思ったし、酸欠で目の前が明滅し始めた時は、本当に死を覚悟した。
わたしは、あのときと混濁しているのだろう。ふと顔を上げると、そこに父が立っている気がして、思わず身体を跳ねさせて、その場から飛び退く。だがよく見ると、そこには何もない。ただ、殺風景な自分の部屋の中で、一人、苦しみに涙を流しているだけだ。
しんどいな。死んでしまいたいな。わたしは頭の中で一人呟くと、身体の力を抜いて、床に倒れこむ。そういや、お父さんは、わたしが床にこうして倒れこむことすら、許してくれなかったな。なんて思いながら。
それからしばらくの間、わたしは床に突っ伏して、呼吸が整うのを待っていた。そして、徐々に身体が楽になると、ゆっくりと起き上がり、震える指先で薬を取り出す。我慢して、ちゃんと規定量の一錠にしておこうか。そう思ったが、しかし少なくして効かなければ飲んでいる意味がない。それが危ない考え方だと分かりながら、三錠ほど手のひらに出して、歯で噛み潰す。
それからはいつも通り、水で流し込むと、頑張って机に座った。流石に二日も三日も連続で、空腹状態で薬を飲むわけにはいかない。そう思ってのことだ。こんな状態でも、食べられるだけ、胃に物を押し込まなければいけない。わたしは小さく息を吐くと、買ってきたコンビニ弁当のラベルに指をかける。
ミシン目を切って、蓋を乱暴に取り払うと、近くに置く。そして、割り箸を取り出すと、言うことを利かない指で必死に箸を持ち、から揚げに突き刺した。
油物は嫌いだ。だが、胃を保護するためには、こういったものを食べておかないといけないだろう。覚悟を決め、口の中に放り込む。
口の中で噛みしめると、安い油を使っているせいだろうか。ねっとりとした肉の感触に混ざって、どろっと冷えて固まった油が、口の中に染み出して、気持ちの悪い歯応えと共に、じんわりと広がる。息を止め、鼻を掴むと、わたしは上を向いてそれを必死に飲み込んだ。喉を通過するときも、誂えた様な安い肉の臭いが、いちいち食欲を削いでいくのが分かるほどだ。
わたしは次に、箸をサラダに突き刺す。そしてこれも口に運ぶが、このレタスだかキャベツだかわからないこれも、廃棄寸前のマヨネーズでも使っているのだろうか。妙に甘酸っぱい、腐ったような匂いと、色の悪い野菜との相性は、かなり食べる気を失せさせてくれる。わたしは嫌々ながらもそれを口に運ぶと、これも頑張って飲み下した。それから、付け合わせのポテトサラダ、卵焼き、ご飯と、順々に食べ進めていく。これが普通の人なら、から揚げをおかずにご飯を頂いたり、蓋についてある調味料で味を付けたり、そんなことをするのだろうか。だが、私にとってそれほど無駄と思える行為もなかった。
いつからは憶えていない。しかし、お父さんと食卓を囲む――正確には、わたしがお父さんと一緒に、平和に机に座ってご飯を食べていたことはほとんどなかったが、ともかく、その頃から、わたしには味があまりわかっていなかった。特に、おいしいという感覚が。だから、調味料の分量などは、すべてレシピを正確に再現して作っていたし、お父さんに褒められることこそなかったが、怒られなかった分量は、ノートにまとめて必死に記憶していた。そして、それは一人暮らしを始めて、薬を飲み始めたころから、特に酷くなった。
味が分からなくなったのだ。
味覚障害。それが薬の副作用によるものなのか、はたまたこれも心因性の物なのか。もっと別のものなのか。それは分からない。ただ、極めて不幸なことに、味が分からなくなったといっても、生憎と、不味いと思う気持ちが残っているせいなのだろうか。味は分からないはずなのに、不味さはしっかりと感じていた。特に、今日のお弁当はかなりのもので、何度も吐きそうになりながら、最後の白ご飯を胃袋の中に詰め込んで、わたしは涙を浮かべながら手を合わせた。
このお弁当、もう二度と買わない。
「ご、ごちそうさま」
日もすっかり落ちて、いつの間にか暗く闇の差し込んだ部屋で、わたしは食べ終わったお弁当のごみを袋に入れて、ごみ箱の中に押し込もうと、蓋を開ける。もう、下を向くだけで先ほどの不味さからくる吐き気に逆らえず、そのまま出てきてしまいそうだ。量もわたしの一日分の食事ほど入っていたのに、頑張って一食で胃の中に詰め込んだから、それも拍車をかけているのだろう。そこでふと、先生と食べた朝食のゴミが目に入った。それを押しのけると、昨日のお弁当のゴミも。そこでわたしは、少しの違和感を憶える。汚いのであまり触りたくはなかったが、しかし確かめずにはいられない。そのごみを引っ張り出すと、シンクの中で、先ほど食べたお弁当のゴミと見比べる。その頃には、手に付いたから揚げの油も、全くと言っていいほど気になっていなかった。
それよりも、どうやら食べたお弁当が、全く同じものだった。という事実の方が、よっぽど気になっていた。
もちろん、初めはラベルを何度も見返してみたり、中身が違うのか、とか、容器を重ね合わせたりとか、色々と比較してみた。だが、どれだけ見てみても、本当に全く同じ容器で、恐らく中身も一緒の物が入っていたのだろう。
あれ、わたし、昨日の晩は美味しく食べたよね。
なんで?
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