6話:疑惑と確信

 次に気が付いた時、わたしは自分の布団の上で、目が覚めた。だが、昨日のことはよく覚えていない。ただ、自分の布団に突っ伏して眠ってしまっている先生を見る限り、どうやらわたしは半狂乱になって、そのまま意識を失ったことが見て取れる。

 わたし自身、気を失うことは特段珍しいことではない。それこそ、一人暮らしを始めてしばらくの間は、毎晩のようにお父さんの幻覚、幻聴に悩まされて、明け方ごろに気を失うように、というより本当に気を失って眠る、そんな生活が続いていた。

 だから、わたしは自分の心配などはそれほどしていない。それよりも、先生を結局、あのまま家に泊まらせてしまったことにこそ、罪悪感を抱いていた。

 スマホで時間を確認すると、午前7時12分。丁度、いつもわたしが学校に向かう支度をするような時間だ。といっても、今日は土曜日。学校はお休みで、特に予定も今のところは、入っていない。だからわたしは、せめて昨日のお詫びでもしようかと、先生を起こさないように気を付けながら、布団から這い出ようとする。

 しかし、そこは流石先生。すぐに目を開けると、飛び起きた。そしてわたしと目が合う。

 一瞬、安心したような顔を浮かべ、そして、次の瞬間には先生は、わたしに飛び掛かってきた。わたしはされるがまま、布団に背中から倒れこむ。

 そうして上から覗き込む先生は、今にも泣きだしそうな顔を浮かべて、わたしを見つめ続ける。わたしは照れ臭さと、気不味さで目を反らしてしまったが。

「……ごめんねっ、大丈夫、どこも痛くない?!」

 心配そうにわたしの後頭部に手を置き、先生はそれから、身体に視線を移す。そして、そのまま抱きしめるように、わたしへと覆い被さる。そんな先生の大胆な行動に戸惑いながら、わたしは何もできず、ただ手の力をゆっくりと抜いた。

「だ、大丈夫、です」

「ほんとに? だって、昨日、あのまま気を失っちゃって、それから全然起きないんだもん、心配で、心配で……」

 どうやらわたしは、かなり先生に心配をかけてしまっていたらしい。そこでようやく、普通の人は気を失ったりすることが、日常的に無いことを認識する。みんながみんな、わたしのように、薬の副作用か何かで、嫌なことを思い出すと気が遠くなることはないのだ。わたしは改めて、自分の異常さを思い知り、少し複雑な気持ちになるが、それよりも先生がどうやら、かなり心配してくれていたらしい。そのことに、少しだけ、いけないことと分かりながら、優越感を憶えずにはいられなかった。

 きっと、昨日わたしは大好きなこの先生を独り占めで来ていた。身も心も。それは、不謹慎ながら、とても幸せなことだった。

 それから少しして、わたしの上から先生は身を退かすと、ベッドの上に座り込む。わたしも真似をして、座り込んだ。だが、どれだけ体調が元に戻ったことを伝えたところで、先生の顔から、心配している様子が消えることは一向になかった。むしろ、わたしが言えば言うほど、先生はより心配そうに眉を顰める。

 しかし、先生にはこの後、予定があったらしい。勿論、学生で暇なわたしと違い、先生はあれこれと毎日が忙しい。本当なら、放課後の時間をわたしの為にカウンセリングに費やす時間すら、無理をして捻出してくれているはずだ。そんな先生に感謝を伝え、最後にもう一度、わたしは自分が元気なことを伝えた。これは嘘ではない。ああやって暗い気持ちになるのは、決まって夜だ。だから夜は眠れなくなる。しかし一方で、朝日が昇ると、そんな気持ちはどこへやら、すっかり精神的にも健常に戻る。

 結局、朝ごはんをコンビニで買って、二人、部屋で食べ終わると、先生にわたしはシャワーを貸した。どうやら家に帰る時間はないということは伺っていたので、じゃあせめて、シャワーでも浴びて髪の毛や身体だけでも洗わないと。と、わたしが強引に押し切ったのだ。

 勿論、先生はとてつもなく反対した。

「だって、生徒の部屋のシャワーを借りるなんて! よくないよ!」

「でも先生、この後、お昼前から会議でしょ? だったらせめて、さっぱりしてからいかないと、そっちの方が不味くないですか?」

 心配しなくても化粧品はわたしの、貸してあげますから。そう言うと、先生はまだ何かを言いたげだったが、時間にもそんなに余裕はないらしい。渋々、脱衣所へ向かっていった。その背中を目で追いながら、わたしもお風呂に入りたいな。この後入ろうかな。そんなことを思い、手持ち無沙汰になりながら、部屋の片づけを行う。

「じゃ、じゃあありがたく借りるね?」

 そこで先生は、廊下の先にある脱衣所から顔だけを出し、こちらに申し訳なさそうな顔を浮かべる。とことん、自分は人に無償の親切心を注ぐ割に、人から親切にされることは苦手なようだ。わたしは最早、苦笑いすら浮かべながら、そんな先生を急かした。

「もう、早く入らないとあれですよ」

「あれ?」

「メイク、貸しませんよ」

 すぐに顔が引っ込み、扉が閉まった。そうして一人になった部屋で、私は掛け布団をめくり、脇に寄せると、引き出しからコロコロを取り出した。それで布団を掃除しながら、ふと、先生の髪の毛も落ちていることに気付く。わたしの髪の毛と違い、先生は茶髪のショートヘアー。だから色や長さで、すぐに先生の物と判別がつく。少しだけ出来心で、一本お守りに取っておこうか。なんて考えた自分の頬を自分で叩いて、わたしは涙目になりながら掃除を続ける。

 いったい何を考えているんだ。いくら先生のことが好きだからって、それではまるで変態みたいだ。そんなことをしてしまえば、それこそ軽蔑されてしまう。わたしは断腸の思いで、掃除の終わったコロコロを剥がし、悲しい思いでゴミ箱にそれを捨てた。そして次に、先生の持ってきた鞄を手に取る。見ると、いつかのカウンセリングの時、先生が言っていた好きなブランド、イヴサンローランのショルダーバッグだった。思い付きで鼻を近づけてみると、先生の匂いがする。これは香水の匂いだろうか。甘ったるいような、しかししつこくなく、鼻の中をすっと通っていくような、素敵な香りだ。わたしはそれを近くのフックに掛けようとしたが、そこで思わず手が止まる。わたしもブランド物は好きだから、たまに買ったりする。しかし、所詮アルバイトをしている高校生の手が届くブランド物の鞄など、中古でもせいぜい、一桁万円。何の気なしに触ったり、ショルダーストラップを適当なフックに掛けようとしていたが、それは値段を調べてからでも遅くない。

 調べて、そしてわたしは、せめて家の中で一番ふかふかしている場所を探し、布団の上に丁寧に、それはもう丁寧に置かせて頂いた。

 素敵なデザインの鞄だし、先生にとても似合うと思う。とてもかわいい。しかし、値段が可愛くなかった。少なくとも、その値段を無駄とは思わないが、無理とは思った。

 こうなってくると、わたしは自分の使っているシャンプーやトリートメント、それから化粧品が、果たして先生の普段使っているものの代用品として、いくら緊急だとはいえ、役割を果たせるのか、とても心配になる。先生が使いやすいよう、鏡の前にコスメたちを並べながら、わたしは手が震えていた。

 さすがは先生。教師とは、どうやらかなり稼げるらしい。

 と、そこで浴室の扉が空いた音がする。タオルの場所は、一目でわかる様な位置に並べてあるし、浴室にわたしの下着とかが干してあるのは少し恥ずかしくはあったけど、女同士なら気にするようなことでもないだろう。それよりも、先ほどから鞄から目が離せません先生。怖いです。早く帰ってきてください。

 一時、先生に憧れるあまり、同じ香水を買おうかと悩んだことがあったが、どうやらそれもきっと、わたしの手が届くような値段ではないのかもしれない。部屋に漂う先生の、香水と煙草の混ざり合った匂いを感じながら、わたしは一人、苦笑いを浮かべた。

「いやー、さっぱりしたあ。ありがとね、もっちー」

 濡れた髪の毛をタオルで乾かしながら、先生はリビングに戻ってくる。わたしはすかさず、ソファの上で居住まいを正してしまった。先生は、そんなわたしに目を丸くしながら、隣に座ると、申し訳なさそうに言った。

「ごめん……その、ドライヤー借りてもいいかな?」

 朝起きてから、かなりの時間が経ち、ふたりとも昨晩のことはあまり気にしないで話せる程度には、落ち着いていた。わたしは先生がドライヤーをかけるのを見つめながら、なんだか変な気持ちになる。何せ、この家に人が来ることなど、初めてのことだった。というか、一人暮らしを始めてから、既に2、3回は引っ越しを繰り返しているが、きっと先生が初めての来客だろう。だから、わたしはおもてなしの準備などは何もできず、苦し紛れに湯を沸かし、昨晩のように先生へコーヒーを淹れた。勿論、インスタントである。

「あ。ありがとね。コーヒー好きなんだよね」

「知ってます。昨日も、淹れてくれてましたから。でも、ごめんなさい」

 口からカップを離し、先生はきょとんとした顔を浮かべる。

「え、なにが?」

「その、うち、やかんがなくて。というか、自炊自体、この家ではしてなくて」

 だからお湯は電子レンジで温めたんです。そういうと、先生はとんでもないといった様子で、手を振る。

「いやいや、そんなの言い出したら、それこそ昨日のわたしなんて、ビーカーだよ?! いや、ちゃんと洗ってはいるけどさ」

 間違っても変な薬品とか、混入してはいないけど。そういって笑う先生。理科室ジョークが怖すぎる。

「それよりも、自炊しないのは良くないなあ。あ、勿論、女の子なのに、とかそんなことは言わないよ? ただ、栄養の偏りが気になっちゃってさ」

「……太ってますか」

「違う違う、逆だよ? もっちー、ちょっと痩せ過ぎかな。なんか、不健康な痩せ方って感じで。心配になるなあ」

 目の前のテーブルにコーヒーを置いて、先生は腕を組む。

「自炊、出来ないわけじゃないんでしょ?」

「え、ああ、まあ、得意ではないですけど、でも、なんだか面倒で……」

 それに結局、わたしは朝と晩に、少ししかご飯を食べない。だから変に食材を買うよりも、コンビニでお弁当とか、出来合いの物を買う方が、変に腐らせてしまわずに済む。

「それに、その……」

 そこでわたしは言い淀んでしまう。続きを言うべきか、手のひらでカップを転がしながら考える。しかし先生は、続きを聞きたそうに顔を近づけてくる。

「ああ、フライパンとか高い?」

「いえ、そうではなくて……」

 言い淀むわたしに、先生はどうやら早とちりをしたらしい。いたずらっぽく笑みを浮かべる。

「あっ。……食べてくれる彼氏がいないと、作り甲斐がないってこと?」

「いや、じゃなくて……」

 わたしは否定するが、しかし先生は腕を組んで、うなずく。

「いやいや、でも確かにもっちーも、そろそろ彼氏欲しいとか、そういうことも思うお年頃だもんね。……いい人、いないの?」

 いい人。そういわれて、わたしは目の前を見る。だがすぐに、慌てて目を反らした。

 わたしは何を考えているんだ。わたしと先生は、そもそも教師と生徒という立場だし、それに何より、女同士だ。確かに先生は、ご飯を作ったらおいしそうに食べてくれそうではあるけど、だからといって、それとこれとは話が違う。

 きっと寝不足のせいだ。自分にそう言い聞かせ、わたしは首を振った。その様子を、良い人がいない、と受け取ったらしい先生は、頬杖を突いた。

「とはいえ、わたしも自炊、全然出来ないんだけどねえ」

「えっ、そうなんですか?」

「そうなんですよお」

 科学の実験は得意なのにね。冗談めかして笑った後、先生は本気で落ち込み始める。

「だって、この間も、お素麺、作ろうとしたんだけどさ、失敗しちゃって……」

 何をどうすれば失敗できるんだろう。

 2、3分、湯掻くだけでは。

「気が付いたら、変な化合物みたいなのが出来ててさ……」

 結局、わたしはそこから先生の素麺を失敗した時の話を聞いて、思ったことがあった。

 この人には、実験以外で火を使わせてはいけない。火事になりかねない。

「まあ、わたしがお素麺から炭を錬成しちゃった話はともかくさ。もっちーも、また自炊始めてみたら? そしたら、ご飯を食べるのも、楽しくなるかもよ」

 そうですね。そう納得している振りを、果たしてわたしは上手く出来ていただろうか。

 どうして先生は、わたしがご飯を食べてもすぐに吐いてしまうことを知っているような口ぶりで、言ったのだろうか。それがとても気にはなったが、しかしとても自分からは聞けず。わたしはそのまま、コーヒーカップをシンクの中に置いた。

 一体この先生は、どこまでわたしの秘密を、見抜いているのだろう。それとも、ただの偶然だろうか。

 何を食べても飲んでも、味なんてしない。

 そんなこと、言った覚えはないのに。

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