5話:暴力と怒号
「お、お父さんは、その……」
言えない。わたしは唇を噛んで、この後どう誤魔化したものか、それを考えた。しかし、どうしたって、先生は勘付いているいる様子だった。これでは、中途半端な嘘は、先生の不信感を買いかねない。そう思った私は、意を決した。服の袖に手をかけて、ゆっくりと捲り上げる。
「えっと、実は、一人暮らしで、その、お父さんは、その……む、昔、わたしと暮らしてた時に、その、け、け、けいさ」
警察に。と、そこまで言い終わらないうちに、先生が飛び掛かってきた。
わたしは思わず体に力が入り、小さく悲鳴が口から洩れる。
その表情は間違いなく、鬼の形相としか言いようのないものだった。
「ちょっと、何してるの!」
先生はそう叫んで、わたしの両腕を抑えつける。むしろ、それはわたしが先生に言いたい程のことだったが、それよりも、まさか先生に、押し倒されるとは思っていなかった。わたしは歯を食いしばり、叩かれても舌を噛まないようにする。だが、その先生の表情は、よくよく見てみれば、かつての父がわたしを叩こうとする際に浮かべていたような怒りの形相ではなく、むしろ、わたしの身を案じているような。
「……葵さん?」
「なんで自分の手首なんか、切ろうとしてるの!」
先生は、そう言ってわたしの手からカッターナイフを奪い取ると、部屋の隅へと投げ捨てる。
とても大きな音がして、視界の端でカッターナイフが壁にぶつかり、刃が折れて飛んでいく。
そこでようやく、わたしはどうやら無意識の内に、手首を切ろうとしていたことに気付いた。
それほど父の話をすることに、身体が拒絶反応を示したらしい。
無意識とはいえ、自分の行動ながら、わたしは背筋が薄ら寒くなるのを感じた。そうして、どうしたものかと、変に冷静な気持ちで先生を見つめる。
乱れた髪の毛の間から、先生はこちらを強く見つめている。その視線は、依然として、わたしを心配するようなものだった。
息を切らした先生と、落ち着いたわたし。しばらくの間、二人の呼吸だけが静かな部屋に響くが、先に口を開いたのは、わたしの方だった。
「す、すみません、えっと、わたし……何しようとしてたんですか?」
本当に自分が何をしようとしていたのか、まだ確信が持てず、先生に尋ねる。先生は、ゆっくりとわたしの手を抑えつけている腕の力を抜くと、身体を横にずらした。それから、わたしの背中を支えて、起き上がるのを助けてくれる。
「無意識、だったの?」
「……まあ、えと……はい」
「そ、っか」
先生はそこで、ようやく安心したように溜息を吐く。それから、放り投げられたカッターナイフを指さした。
「さっき、あれで、手首切ろうとしてたんだよ。……ごめん」
「……なんで謝るんですか?」
わたしは不思議になって訪ねる。それと同時に、どうやら手首を切ろうとしたということは、元から巻いている包帯のこともばれ、自傷行為を行っていることもばれたらしいと、想像していた。わたしにとっては、今切ろうとしたことより、そっちの方がよっぽどショックだった。
「だって、まさか、そこまで言いたくないことだったとは思わなくて……ごめんね、カウンセラーとして失格だよ」
そう言って肩を落とし、頭を垂れる先生。わたしは再び、袖を降ろして、包帯を手遅れながら隠す。あまり人に見せるようなものではないから。
その間に先生は、ベッドの上から立ち上がり、わたしの傍を離れると、投げ捨てたカッターナイフを拾う。幸い、刃が折れた程度なので、壊れたというわけではないらしい。それをわたしが無意識の内に取り出していたらしい、ベッド横のキャビネットにしまうと、そのままポケットから煙草を取り出した。
「ごめん、ちょっとベランダ、出ていいかな」
一緒にベランダへ出たわたしと先生は、二人で夜風に当たる。生温い梅雨の風は、湿気を帯びていたが、気温自体はそれほど高くない。ひんやりとした風が、なんだか気持ち良かった。
先生はその風で髪の毛を靡かせながら、煙草に火をつけると、細く煙を吐き出した。
「言いたくないこと、だったんだね。ごめん」
そう言って、愁いを帯びた表情で、眼下に広がる繁華街を見つめる。
そんな風に悲しそうな先生を横目に見つつ、その表情も綺麗だな。なんて思いながら、わたしは顔の前で手を振った。
「いやいや、やめてください、先生。わたし、別にそんな気にしてないですし、それに言いたくないことは、言わないようにしてます」
これは本心だ。事実、カウンセリング中でも、先生からの質問に対し、わたしは言いたくない質問に対しては、きちんと言いたくないと断っている。だから、今回のことはそれほど言いたくなかったわけではない。むしろ、誰かに受け止めてほしいとすら思っているのかもしれない。わたしとしても、どうして、自分で手首を切ろうとしたのか、分からないほどだ。
そのことを先生に伝えると、先生は少し悩んだ後で、うなずいた。
「じゃあ、さ。これも嫌だったら、嫌でいいんだけど」
言いかけて、中断した。
「待って、その前に、先にもう刃物とか、危ないもの持ってないよね」
一応確認させてね。そういって、先生は煙草を咥えると、わたしの身体に手を伸ばしてきた。さながらボディチェックのように、ポケットの中や、腕や肩、胴体や腰、太ももへと手を滑らせていく。わたしは場違いながらも、そんな先生の手つきに、恥ずかしさを憶えていた。
先生に全身を、あますことなく触れられている。そう考えると、胸がどきどきとしてくる。もっと触ってほしい。なんて、品のないことを思ってしまうほど。
そのボディチェックが終わった後で、先生は改めて口を開いた。
「腕、見せれる?」
わたしは悩んだ。きっと、今ここで断ることは、とても簡単なことだろう。きっと先生は、少しでもわたしが嫌がる素振りを見せるだけでも、今後、同じ質問は二度としてこないことは想像に難くない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。先生も、何も興味本位で見たいと言っているわけではない。それに、今日は先生に迷惑をかけっぱなしだ。わたしは意を決して、首を縦に振った。
そして、先生に腕を差し出す。先生は、再び咥えたばこをすると、袖を恐る恐る捲り上げた。その下からは、今日家に帰ってきてから切った血が滲み、乾いて赤黒く変色した痕が、丁度何本も線を引いたみたいに、染みついていた。
その包帯に手をかけ、先生はゆっくりと剥がしていく。最後の方は、血がこびりついて張り付いてしまっていたため、少しだけ痛かったが、それを先生に言うだけでも、きっと自分が原因だと思い、これ以上見るのをやめてしまうだろう。わたしは手を強く握り、なんとか痛みを耐える。
そうして露わになった手首を見て、わたしは自分でも、酷いと思わざるを得なかった。赤く腫れあがった傷口が、幾重にも折り重なって、瘡蓋を形成している。また、その傷口のどれもが、深く切り込まれて、皮膚に小さく口を開けさせていた。
みっともない。わたしは我ながらそう思った。そして先生も、恐らく見るに堪えないと思ったのだろう。気不味そうに腕から視線を反らし、すぐに包帯を元通りに巻きなおす。そうして端をテープで止め、袖を降ろし終えると、先生は手に持っていた缶コーヒーの中で、煙草の火を消した。
静かなベランダに、沈黙がしばらく続く。先生は、しばらく空き缶を手で揺らしていたが、やがてこちらへと向き直る。
その顔は、やはり怒っていたりはせず、ただ申し訳なさそうに、唇を歪めていた。
「……まさか」
まさか、薬を飲んでたり、自傷行為してたり、そんなこと、考えもしなかった。そんなに一人で悩んで、辛い思いをさせていたなんて。
先生はそう言うと、私に向かって、改めて頭を下げる。だが、わたしはそうやって先生に頭を下げられることの方が、よっぽど辛かった。
だって、先生は何も悪くない。悪いのは全部、わたしだから。わたしの心の弱さが、すべての原因だから。だからお父さんも、よく怒ってわたしを殴ってたんだと、思うんです。
だから先生は悪くないです。そこまで呟くように言って、わたしははっとして顔を上げる。それから、すぐに先生の元へ詰め寄る。
「ちっ、違うんです、今のは、その、何でもないんです! だ、って、わたしが悪いから、その、殴られても仕方ないと思ってたし、だから、その、お父さんは悪くないっていうか、だから、その……」
この癖はいつからだろうか。わたしは途中で、言葉を詰まらせる。いつから、父を庇うように癖がついたのだろうか。母が居なくなり、父と一緒に暮らし始めたころだろうか。それとも、初めて父に殴られた日だろうか。あるいは、父の暴力で学校に行けなくなった日だろうか。家に児童相談所の職員さんたちが来た時だろうか。警察が家に来た時だろうか。それとも。
お父さんが警察に連れて行かれて、一人で暮らさないといけなくなった日だろうか。
お父さんは悪くない。そう思うようになったのはきっと、そう思っていないと、わたしはいつかお父さんを殺しかねないと自分で分かっていたからだろうか。
わたしはなんだかとても辛くなり、思わず先生にしがみつく様にして、抱き着く。先生はそんなわたしを初め、動揺した様子でどうしたものかと、手を添えあぐねていたが、ゆっくりとわたしの背中に手を回す。そして、そのまま優しく撫でてくれた。そんなわたしの頭の中では、かつての恐怖が、漠然と蘇っていた。そして、今は誰かにそれを吐き出して、楽になりたかった。
勿論、その行為で楽になるのは自分だけだ。誰かに悩みを打ち明けるということは、自分の肩の荷をその人と否応なしに共有することに他ならない。それこそ、相手は楽になるどころか、むしろ辛さを背負い込む。だが、それは冷静な思考回路でなら辿り着ける結論だ。少なくとも、今のわたしはそんな理路整然とした考えを持てるほど、落ち着いてはいなかった。
ともすれば、父の幻聴すら聞こえていた。
お前ってさ、ほんと使えないよな。俺が稼いできた金で、飯を食わせてやってるのに、俺に迷惑ばっかりかけやがって。
そんな、かつて言われたような言葉たちが、耳の中で何度も反響する。わたしは耐えられなくなって、そのまま先生の服を強く握りしめた。
怖い。
もう今は父の元から離れて、殴られる心配も、怒鳴られる心配もない。それは自分でもわかっている。なのにどうしてだろう。父のことを少しでも思い出そうとするだけで、息が詰まり、父の声が耳元で聞こえるのは。まるでそこに父がいるかのように、恐怖を憶える。首を絞められているような感覚すら、憶え始めて、わたしは思わず喉元を搔き毟った。
「もっちー……? どうしたの?」
そこで異変に気付いたらしい先生は、わたしの背中から手を離し、ゆっくりとわたしの身体を引き起こす。しかしその頃には、わたしはすっかり呼吸が出来なくなっていた。ただひたすら、過去の恐怖から息が出来なくなり、必死で喉に手をやり、爪を立てて掻き毟る。
先生は、それに気づいた瞬間、咄嗟にわたしの腕を抑えつけて、これ以上爪を立てないようにしてくれたらしい。だが、わたしの耳元では、その間もずっとお父さんの声は大声で聞こえているし、実際に首を絞めつけられているような苦しさも、実際に感じている。
「ごっ、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
先生の身体を必死に掴み、わたしはいないはずのお父さんに対して謝り続ける。そうしている間に、また呼吸が浅く早くなって、視界が酸欠でぐわんぐわんと揺れ始める。口の端からは涎が垂れ、恐怖で心臓が酷く痛む。
そんな様子に、先生はひたすらわたしの肩を揺すったり、声をかけたりして、何とか正気に戻そうと試みてくれていたようだが、わたしは最後には、過呼吸を起こしてしまったらしい。そのまま、冷たい水が足先から這い上がってくるような感覚と共に、意識が飛んだ。
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