4話:隠し事とPTSD

 それから車の中で、わたしと先生は色々な話をした。お互いのファッションの趣味や、香水、化粧品について。先生の格好は、なんというかとても上品だったので、恐らく良いブランドが好きなんだろうと、ある程度の予想はしていたけれど、やっぱりデパ地下で売っているようなものが好きだった。

 そんな話をある程度した頃。

 突然、思い出したように先生はこちらへ振り向く。

「そういやさ、もっちーはわたしのこと、名前で呼んでくれてるけど、わたしはもっちーのこと、苗字でいいの?」

「……いや、別にもっちーって苗字じゃないですよ」

「ああ、ごめんごめん、違くて、下の名前のあだ名とかじゃなくていいのかなって。ほら、麻耶だから……」

 先生は顎に手を当てて考え始める。

 だが、そこでわたしは、思わず自分の顔が引きつるのを感じた。ただ、勿論これに関しては先生は少しも悪くない。だから、悟られないよう、すぐに表情を柔らかくするよう、努めた。しかし、流石は先生、というべきだろうか。その観察眼は大したもので、わたしの顔が一瞬、嫌そうになったのを見逃さなかった。

「……ごめん、何か気に障ること言ったかな。申し訳ない」

 先生は、急に真剣な顔つきで、こちらに向けて頭を下げた。わたしは思わず、先生の肩を掴む。

「ちっ、違う、違うんです! 頭上げてください! ほんとに!」

 これまで人に謝ることこそあれど、人に謝られるという経験はそうそうしたことがなかったから、どうすればいいかわからない。とりあえず、先生に頭を下げさせたなんてあっては、わたしは申し訳なさで死んでしまう。ましてや、さっきのは本当に先生に一切の落ち度はない。ただの、わたしの問題だ。

 わたしが必死に頼んだお陰もあってか、先生はすぐに顔を上げる。だが、後悔するように唇を噛み、目を合わせてくれなかった。

「多分、嫌なこと、言ったんだよね。ごめんね」

「いや、だから本当に大丈夫です! ただ、自分の名前が、その……」

「好きじゃないの?」

 眉尻を下げ、先生はわたしのことを見る。正確には違うが、わたしは首を縦に振った。

「できれば、苗字とかの方が、いいですね」

「そっか。それは、うん、申し訳ないことをしたね」

 そう言って再び頭を下げようとする先生に、私はもう一度肩に手を置いて止める。

 正直、名前を呼ばれるのはかなり嫌な気持ちになる。しかし、先生は先生で、どうやらかなりこういうことを気にしてしまうらしい。わたしが話しやすいよう、フランクに話しかけてくれてはいても、その胸中では、ちゃんとわたしのことをあれこれと考えてくれているのだろう。だからこんなにも、わたしの反応に対して申し訳なく思ってくれるのだろうか。

 そうして、車の中にしばらく気不味い空気が流れる。お互いに相手の方を伺いながら、特に何かをするでもなく、ただそわそわとする。その流れで、わたしは車の時計を見た。時刻は日付も変わって、午前1時に差し掛かろうとしていた。わたしは夜型の人間なので、これくらいの時間はまだまだ眠くもなんともない、というかそもそも不眠症気味だが、先生はそうでもないだろう。何せ、朝からずっと学校で授業をしたり、準備をしたり、やることは沢山あるはずだ。その後にこんな時間までわたしに付き合わせてしまっては、申し訳ない。わたしは、この空気のままお別れすることに対して、かなり抵抗を感じていたが、それ以上に、早く先生に休んで欲しいという思いがあった。

「あ、あの、先生」

 わたしは、車のディスプレイに映った時計を指差す。

「そろそろこんな時間ですから、わたし、お家に帰ります、ね」

 すると、先生はわたしの声にびっくりしたように顔を上げた。

「あっ、ああ……う、うん、そうだね、ごめんごめん、長いこと引き留めちゃって。お父さんも、もし起きちゃってたら心配しちゃうよね」

「……そ、そうですね」

 これも、わたしが先生に吐いている嘘の一つだ。本当は一人暮らしなのに、まるで父と二人暮らしかのように偽っている。その理由は単に、そう言っていた方が、余計な詮索をされないで済むから。少々特殊な家庭事情だから、あまり説明はしたくない。

 わたしは、どうかこのまま、先生にはわたしの秘密がばれませんように。そう願いながら、車の扉を開けようとする。しかしそれよりも早く、いつの間にか先生はわたしのいる助手席の扉を、外から開けてくれていた。その表情は、いつもの先生に戻っている。勿論、先生はこう見えて気にするところはかなり気にする性格らしく、まだ申し訳なさそうな素振りが見受けられるけれど。

「はい、どーぞ」

「あっ、す、すみません」

 わたしは頭を下げて、急ぎ足に車から降りる。先生は扉を閉め、車にロックをかけた。

「じゃあ、家まで送るよ。流石に女の子一人で、このまま返すわけにいかないしね」

「えっ、家……ですか?」

 わたしはどきりとする。それはまずい。勿論、先生に家を知られる、それ自体は全く問題はない。なんなら家の中に上げても差し支えないほど、わたしは先生のことを信頼している。だが、そうではなく。

 例えば家の大きさが、明らかに一人暮らしのサイズなところとか、靴がわたしのものしかないところとか、そういうところを見られてしまったら、きっとこの先生のことだ。父がいないと見抜くまではいかずとも、何かしらの疑念は抱くに違いない。

 わたしは、そのありがたい先生の提案を断ろうとした。

「ありがとうございます。でも、わたしの家、ここから近いですから、一人でも帰れます、よ?」

 しかし、先生も先生として、それなりに思うところはあるらしい。

「いや駄目だよ。もしもっちーが、それこそ警察に補導でもされたらどうするのさ。困るでしょ?」

「そ、それは……」

「それに、先生も一応、プライベートとはいえ、深夜徘徊してるところを見つけちゃったのは本当だから、着いていかないといけないのよ。面倒だろうけど、ごめんね?」

 そうして謝る先生を見ると、わたしはついに何も言えなくなってしまう。これが他の先生なら、知ったことかと一蹴して、一人で帰ることも出来ただろう。だが、それでなくても今日は先生に何度も謝らせてしまっている。わたしはあまり、好きな人に謝られるのが好きな方ではなかった。だから、渋々首を縦に振った。先生はそこでにっこりと笑うと、車のカギをポケットにしまった。

「ん、じゃあ行こっか。心配しなくても、わたしはもっちーのお父さんに何かチクッたり、そんなことをするつもりはないから大丈夫だよ」

 やや的外れな心配をしてくれているらしい先生は、そこで思い出したように振り返った。

「あ、そういえば、コンビニに行こうとしてなかった? なにか買うものあったんじゃない?」

「あっ」

 言われて気付く。そう言えば晩御飯を買いに来ていた。すでに薬を服用してからかなりの時間が空いているので、今更お腹に食べ物を入れたところで、とうに胃は荒れているだろうけれど、それ以上に、今はただ単にお腹が空いていた。

 そのことを先生に伝えると、踵を返して歩き出す。

「よーし、それじゃあコンビニだけ行って、それから家まで送るね」

 そういって、楽しそうにわたしのやや前を歩く先生。だが、わたしは余計に申し訳なくなる。こんな時間に、わたしの用事にあれこれと付き合わせてしまって、迷惑だと思われていないだろうか。

「……ごめんなさい」

「え、何?」

 ご機嫌に、自分の鞄を振りながら歩いていた先生は、後ろを振り返る。そして、驚いた様子で駆け寄ってきた。本当にわたしは、今日一日でどれだけ先生に迷惑をかけたら気が済むのか。そもそも、色々と考えすぎるのはわたしの悪い癖だ。そうやって、どうにもならないことをあれこれと考えるから、こうなってしまう。

 わたしはその場にうずくまり、歩けなくなっていた。理由は明快。いろいろと考えすぎたことによるストレスで、めまいがしていた。それも、酷い立ち眩みがずっと続くような、目の前がちかちかと点滅するような。

 そんな状態ではとても歩けない。立っていることすら危うく、こうやってしゃがんでいる時ですら、めまいと吐き気、頭痛が身体を襲って、倒れないようにするので精いっぱいだった。

 そして、こんな様子を学校で、少なくとも先生には見せたことはない。だから余計に驚いてしまったのだろう。先生は咄嗟に、わたしの背中に手を置いて、顔を覗き込んでくる。

「もっちー、大丈夫?! 具合悪いの?!」

 夜も更けてきたため、往来に人の姿はない。こんな様子のわたしをじろじろと見てくる人はいないのがせめてもの救いか。わたしはまた、今日の学校帰りに感じていたのと同じような、手足の冷たさに始まり、酷い頭痛、吐き気、めまいは勢いを増して、平衡感覚すら失いかけていた。こうなると、一人で帰ることはとてもじゃないが、出来そうにない。もちろん、こういう時のために薬は常備しているが、だが今は肝心の水がない。それに、先生にあの薬を見られるのはまずい。ここはなんとかして、ただの体調不良だと誤魔化さなければ。

「ちょ、ちょっと、めまいが……で、でも、すぐに良くなりますから」

「いやいや、何言ってんの!」

 先生は、少し怒ったような口調になる。

「どう見てもかなりしんどそうだし、無理してるでしょ!」

「っ……ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 その怒る様な口調は、わたしのことを心配してくれている、その気持ち故のものだと、勿論わかっている。しかし、身体はその声に勝手に反応して、委縮していた。久しく感じていなかった恐怖が、染み込むようにわたしの全身に、じんわりと滲んでいく。そして、わたしは頭を抱えて、その場にうずくまっていた。

 怒られるのは苦手だ。それがどんな理由であれ、過去のトラウマを思い出してしまうから。

 大きい声は嫌だ。それがどんな理由であれ、過去の恐怖を思い出してしまうから。

 それからの記憶は、ほとんどあいまいだ。夢でも見ていたような、ぼんやりとした記憶の中、先生に言われるがまま、わたしは背中に背負われて、家まで連れていかれていたことは憶えているが、何を話したか、何を聞かれたか、そういったことはほとんど覚えていない。ただ、朦朧とした意識の中、ひたすら静かに泣いていたような気がする。

 そうして次に覚醒したとき、わたしは自分のベッドの上で、仰向けに寝転がっていた。重たい瞼を必死に開けて、辺りを見渡す。そして、キッチンに先生が立っているのを見つけ、慌てて飛び起きた。

 一気に心臓が、痛いほどの早鐘を打つ。緊張で、手足はがたがたと震え始める。そして、そのまま転げ落ちるようにして、わたしは思わずベッドから降りた。

「だ、大丈夫!?」

 その音に反応して、先生はすぐにこちらへ駆けつける。そしてわたしの元まで近寄ると、肩に手を回し、その場に座らせてくれる。その優しさはとても嬉しく思うが、わたしはそれよりも、申し訳なさでいっぱいだった。

「す、すみません。迷惑、かけて」

 乾いた唇で、咳込みながら謝る。先生は、そんなわたしの肩を再び支え直してベッドに戻しながら、安堵した表情を浮かべた。

「何言ってんの。大丈夫だから、まずは安静にしてないとダメでしょ」

 わたしは先生にされるがまま、ベッドに入らされると、上から布団をかけられる。

「話は、落ち着いてから聞かせてもらうから、今は気にせず休んでて? あ、喉乾いた? 水、持ってこよっか」

 わたしの返事を待たずして、先生はすぐにキッチンへ向かう。それからすぐに、ペットボトルの水を手渡してきた。わたしは力の入らない手でそれを受取ろうとするが、どうにも上手く掴めない。先ほどから、言いようのない不安感が全身の言うことを利かなくしているのだ。

 わたしは、握らされたペットボトルを見ながら、少しの間、悩む。しかし、やはり背に腹は代えられない。先生の前で、したくはなかったことをお願いする。

「そ、その、薬……」

「薬?」

 本当に、ばれたくはなかった。しかし、そうも言っていられない。食器棚の引き出しを指差す。

「飲んだら、楽になるから……取らせてほしいです」

 恥ずかしい。先生だけには、こんな姿、見せたくはなかった。こんな薬漬けで、何も出来ない情けない姿なんて。

 先生は、わたしの指差した方向の引き出しを、少し急いだ様子で漁り始める。そしてすぐ、それをこちらに見せてきた。

「これ、かな? もっちーの言ってる薬って」

 それを一瞥して、わたしは首を縦に振る。先生は、それを恐る恐る、わたしの元へ持ってきた。その顔は、何かを言いたげだったが、何も言わないでいてくれる。きっと、なんで薬を飲んでいることを教えてくれなかったの、とか、それこそ先生なら、この薬が一体どういう薬なのかわかるだろうから、それに関してとか、そういうことを言いたいのだろう。

 これでもう、隠し事は何もできなくなった。薬のことも、病気のことも、それから、父親のことも。

 そんなことを考えると、わたしはまたどうしようもなく、泣き出しそうになる。胸が万力で押しつぶされているかのように、ぎりぎりと痛む。呼吸が浅くなり、目の前がふらふらとする。

 先生から受け取った薬を手に三つほど出して、口の中に放り込む。すぐに歯で噛み砕いて、それから開けてもらったペットボトルを口に付ける。先生が背中とペットボトルを優しく抑えてくれていたので、ゆっくりと喉を鳴らして、水を飲んでいく。

「っ、はっ、はっ……」

 飲み終わって、わたしは先生に促されるがまま、ベッドに寝転がる。しかし、すぐにまた泣き出してしまった。

 その様子を見て、先生は隣で慌てふためく。

「えっ、ちょ、どうしたの? だ、大丈夫? なにか辛かった? ごめんね?」

 少なくとも、学校で見せているような大人しい姿とは似ても似つかない今の様子に、先生は相当焦っていることだろう。わたしは心の中で何度も先生に謝りながら、しかし溢れる涙は止まるところを知らない。そのまま、再び身体を起こされ、渡されたティッシュで目を拭いた。

 化粧が落ちてしまうのは恥ずかしいが、どうしようもない。

「ごめん、ど、どうしたら、いいかな」

 普段はマイペースで、適当な先生も、今やすっかりわたしの心配をしてくれて、あれこれと手を尽くしてくれる。わたしは、漠然とした不安な気持ちの中で、少しだけ、それが嬉しかった。今この瞬間だけは、わたしだけを見て、わたしの声だけを聴いてくれている。

 それなら、わたしのお願いも聞いてくれるだろうか。

「て……ください」

「て? いや、わたしマジンガーZじゃ……ああっ、手が欲しいの?」

 そういって、先生はわたしの膝に手を置く。それを握りしめて、わたしは胸に抱き寄せた。

 先生の体温が、とても心地いい。そして、その心地よさが、何故かまた悲しくなった。わたしはそのまま、気持ちが落ち着くまでの間、そうして泣いていた。先生は、わたしの胸に押し付けられた手を無暗に退けることも出来ず、ただ困ったような、どうしたらいいかわからないような顔で、ただそれを眺めている。

 そうして薬が効いてきた頃。

 深夜の3時。

 わたしはようやく、身体がまともに動くようになっていた。

 二人でカーペットの上にクッションを敷き、わたしと先生は、部屋にあるインスタントコーヒーを飲んでいた。その先生に、わたしは一呼吸吐いてから、床に頭をついて謝る。

「すみませんでした」

「ちょ、ちょっともっちー?! 顔上げて!」

 先生は焦った様子で、床にコップを置くと、わたしの肩に手を置く。しかし、わたしは断固として頭を上げようとはしない。それほど、わたしは先生に対していろんな嘘をついていた。むしろ、土下座程度で償えるものとは、到底思っていない。

「わたしのせいで、迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい、許してください」

 だが、やはり大人と子供では力に差があるらしい。力尽くで先生はわたしの身体を起こすと、まっすぐ私の目を見つめた。

「だ、駄目だよ、そんなことしたら! わたしはただ、心配だったから連れてきただけなんだし、それにしんどかったのはもっちーの方でしょ? わたしは全然気にしてなんかないからさ。……ただ、話だけでも聞かせてくれたら、それでいいから」

 焦った様子で、先生はわたしの肩を掴み続ける。だがわたしは、むしろ話をすることこそ、抵抗を感じていた。一体、どこから話せばいいのか。

 目を反らし、唇を噛む。

「その、まず気になったんだけどさ」

 先生は、そこでコーヒーを一口飲むと、落ち着かない様子で、カップを手の中で転がす。

「その……嫌だったら、言わなくていいからね」

 そう前置きをして、続けた。

「お父さん、どこ?」

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