7話:苦手なことと香水

 正直なところ、わたしはご飯を食べるのが苦手だった。あの口に物が入る感覚。食べ物を噛み、どろどろになったそれを飲み込み、そしてお腹がどんどん膨れていく感覚。満腹感なんてものはわたしにとって、不快でしかない。だからいつも、少しの量を食べて済ませるか、あるいは食べなければいけない時は、必死で胃に食べ物を詰め込み、最後には吐いてしまっていた。しかし、空腹感を憶えないわけではない。人並み、とはいかないにしてもお腹はそれなりに空くし、栄養を取らないと、という意識から、ご飯の大切さはそれなりにわかっているつもりだった。だが、それでも苦手なものは苦手で、食事という行為自体、生きるために仕方なく行っているものに過ぎない。だから、今朝の朝食も、正直なところ、あまり気乗りするものでは無かった。

 だが違った。

 先生と一緒に、食卓を囲み、二人で食べたコンビニ弁当。初めこそ、先生にお金を出して貰ったものだから、食べないと失礼だと思い、ご飯を口に運んだ。だが、気が付けばわたしは、それをぺろりと完食していた。普段なら、朝と晩に分けて食べるような量のご飯を、である。

 我ながら不思議だった。どうして食べられたのか、自分でも分からなかった。しかしそこで先生の一言で、はっとさせられたのを憶えている。

「やっぱりご飯は、一人で食べるより、誰かと食べたほうがおいしいよね」

 恐らく、一人暮らしのわたしを案じての言葉だったのだろう。しかし、わたしはそんな言葉に、どきりとさせられていた。

 勿論、誰かと食べるだけで食が進むわけではない。正確には、わたしは先生と一緒だったから、ご飯が美味しく感じたのだろう。

 化粧を済ませ、あのハイスペックなパソコンくらい高級なバッグを一切気負うことなく肩に掛け、先生は玄関で靴を履いている。その様子を見つめながら、わたしはその事を先生に言おうか迷っていた。先生のお陰で、ご飯が初めて美味しく感じました、と。だが、それを言うのは今ではない。そんなことを言ってしまえば、先生のことだ。またぞろ気を遣って、学校でもわたしとご飯を食べるために時間を作りかねない。それはわたしにとっては願ってもない幸福だが、しかし、そんな自分勝手な幸福は、いけないことだと知っている。少なくとも今のわたしは、先生の好意に漬け込めるほど、図太くはなかった。少なくとも、昨日のようには。

「じゃあ、行ってくるね。いやあ、ほんと助かったよ」

 玄関の扉を開け、こちらを振り返る先生。外の空気が、部屋の中に流れ込む。わたしは先生から自分のシャンプーの香りがするのを少し嬉しく思いながら、同時に名残惜しさを感じていた。行ってほしくない。せめて、また遊びに来てほしい。離れたくない。もっと話を聞きたい。いろんなことを離したい。

 行かないで下さい。

「行ってらっしゃい」

 わたしは笑顔を振り絞って、先生に手を振る。だが、そこではっとした様子で、先生は玄関に戻ってきた。それから鞄の中を漁り始める。そうして、手のひらに載るほどの大きさの、小さな筒を取り出した。どうやら、携帯用のアトマイザーらしい。そのキャップを開けようと手をかけたところで、動きが止まる。

「っと危ない危ない。ごめんね、つい家の癖で。匂いが残るといけないから、外で」

「駄目っ」

 やってしまった。しかし体は動いていて、先生の袖を引っ張ってしまっている。先生は少しだけ驚いた様子で、こちらに振り返る。しかしわたしは、そのまま袖を引っ張り続ける。

 本当は、このまま、ここに帰ってきてください。そう言いたい気持ちをぐっと抑えた。そして、精いっぱいの作り笑顔を浮かべる。

 寂しさで、泣いてしまわないように。

「その……。その、香水の匂い、すごい好きなんで、家の中で振ってほしい、です」

 わたしの言葉に、先生はしばらくきょとんとしていたが、首を傾げながら玄関の扉を閉める。

「う、うん、良いけど……。でもこれ、かなり濃いから、玄関が思いっきりわたしの匂いになるけど、いいの?」

「いいんですっ」

 いっそ、永遠に香ればいいのに。そう思いつつ、袖から手を離す。先生は、ようやく納得してくれた様子で、首の後ろに一回、それから手首に一回、香水を吹き付けた。

 すぐに玄関へ、甘ったるい匂いが漂い始める。わたしはその匂いを、不自然でない程度に感じながら、少しだけ心が満たされた気持ちになった。

「……いい匂い」

 先生は、少し自慢げに笑みを浮かべる。

「でっしょー。これ、好きな匂いなんだよね。なんか、こういう甘い匂いが好きで、最近大きいサイズのやつ、買ってさ。家に置いて、いつもこういうのに詰めて持ち歩いてるの。なんていうのかな」

 玄関先だからだろうか。先生は唇に指を当てると、わたしを手招きする。誘われて近づくと、より強く、脳に響くように先生の香りが鼻を突く。そんなわたしの耳元に手をやると、小さく呟いた。

「ちょっと、えっちな香りだよね」

 わたしは熱でも出た様に顔が熱くなるのを感じて、咄嗟に口を抑える。まさか先生が、そんなことを口にするなんて。そのギャップは、しかし不快なものではない。むしろ、わたしの心臓は、跳ね回るように脈打ち、全身に熱い血液が廻っていくのを感じる。そうして言葉に詰まっているわたしに手を振り、先生は最後にもう一度、からかうように笑った。

「ほんともっちーって、初心だねえ」

 玄関の戸に手をかけ、先生はいつもカウンセリングの終わりで言う様に、別れの言葉を告げた。

「じゃ、また明後日、学校でねー」

 ひらひらと手を振りながら、扉がゆっくりと閉まっていく。わたしはすっかり、先生を追いかける気力すら失い、その場に力が抜けて座り込んでしまう。あの囁き声が、何度も脳内で反響しているみたいで、わたしは耳まで赤くなっているのを、鏡を見ずとも分かってしまう。

 先ほどまでの、泣きそうな気持ちはどこへ行ったのだろう。少なくとも、今のわたしの脳みそは、泣くことよりも、先生に次、会える日を楽しみに思うことと、それから、家の中に濃く漂う先生の香りを感じて、すっかり麻痺してしまったらしい。それからしばらくの間、わたしは糸の切れたマリオネットみたいに床へ座り込んでしまっていた。

 別れ際に握らされた、先生のアトマイザーに気付くのは、ようやく足が立つようになった頃。

 一体、いつ握らされたのだろう。少なくとも、記憶を辿ってみても、先生に対しての好きだという気持ちしか想起できなかったので、完全に脳みそが憶えていないのは確かだった。というか、これはどうしたらいいのだろう。わたしはその後、リビングで一人、ソファに座って悩んでいた。

 勿論、わたしが先生の立場だったとしたら、あげるつもりで渡すだろう。だから、これは先生からのプレゼント、ということになる、のだろうか。だがアトマイザーのデザインからして、少なくとも百均で買ったようなものではないらしい。明らかにケースが可愛すぎる。薄いピンク色で、金色の装飾が施されているし、そもそも中身自体、満タン近く入っている。というかこの香水が、そもそもからして相当な値段の物だろう。

 駄目だ、絶対に貰っていいものじゃない。わたしはそう思い、バッグ同様、ベッドの上へ丁重に置く。だが、本心は違った。

 本当は滅茶苦茶欲しい。本当に喉から手が出るほど欲しい。だって、あの先生が使っている私物。それを手元に置いておきたい。一人、部屋の中でわたしはそれからしばらく葛藤を続け、最後には直接、先生へ聞くことにした。

 スマホを手に取り、先生の連絡先を探す。前に一度、先生とカウンセリングをしている時、教えてもらったLINEがある。そこで聞くのが、一番手っ取り早いだろう。トーク画面を開き、文字を打ち込む。

『お仕事中、失礼します。今朝、渡して頂いたアトマイザーについてなんですが、これは月曜日、お返しすればよろしいでしょうか』

 と文面を打って、送信する。しかし、すぐに悩み始めるのがわたしの悪い癖だ。例えば、このお返しすればよろしいでしょうか。という一文。これではまるで、先生に渡されたこのアトマイザーを、要らないと言外に言っているみたいではないか。いや、勿論考えすぎだと自分でも分かってはいるのだが、しかし普段から、LINEをやり取りするような相手のいないわたしにとっては、ぽんぽんと送信するなど、出来ない。すぐに送信を取り消してしまう。

 昔、LINEがなかった時代に使われていたメールでは、送信の取り消しなどは出来なかったらしいし、LINEでも、普及してからかなりの間、送信の取り消し機能は追加されていなかったらしい。わたしは技術の進歩に感謝した。

『お仕事中、失礼します。今朝、渡して頂いたアトマイザーについてなんですが、これは月曜日、お返ししたほうがよろしいでしょうか?』

 送信ボタンを押す。これならどうだろう。ニュアンス的にも、ありがたいけど、返した方がいいよね、感が出ていると思う。いや、些細な違いだが。しかし物の言い方は大切だ。

 ……いや。そもそも、お仕事中と分かっていながら、こんなラインを送ること自体、間違っているのではないだろうか。そうと分かっているなら、そもそも仕事終わりの時間を見計らうべきだろうか。それに、アトマイザーについてなんですが。という一文。これも如何なものだろうか。いくら仲が良くなったとはいえ、相手は年上で、先生という立場。敬語にはあまり詳しくないが、ここはアトマイザーについてです。で一度区切るべきだろうか。そもそも、折角の頂き物だとしたら、それを返すかどうか打診すること自体、間違っていないだろうか。人に上げたものを返した方がいいかと聞かれて、嬉しく思う人間はいないだろう。いくらそれが謙遜とか遠慮の表れだったとしても、相手が不快になってしまっては元も子もない。

 送信取り消し。

『お仕事中、失礼します。今朝、頂いたアトマイザーですが、こんな素敵なもの、本当に頂いてもよろしいのでしょうか』

 送信。これならどうだろう。この文面なら、プレゼントだと決めつけてはいるが、相手に不快な思いもさせないし、あげた側、先生としても、『気にしないで』や、『大切に使ってあげてね』など、かなり返信もしやすいに違いない。

 ……いや待って。そもそも、頂いたと決めつけるのはどうだろう。仮に先生がわたしに貸してくれていただけの場合、あげてないんだけど。とも言い辛い雰囲気を作っていないだろうか。いや、確実に言い辛い。お人好しの先生のことだ。きっと、あげたことにしてしまおう。と諦めてしまうに違いない。そんな風にして自分のものにした香水なんて、きっと気持ち良く使えるものじゃないだろう。きっと二人の間にも、わだかまりが残るに違いない。

 送信取り消し。

『お仕事中、失礼します。今朝お渡しいただいたアトマイザーについてです。こんな素敵なもの、貸していただいてありがとうございます。月曜日に、お返ししますね』

 送信。今度こそ確実だ。これなら借りた前提だから、相手がもしあげたつもりなら『いいよ、あげたつもりだったし、そのまま持ってて』とか、『いやいや、それはもっちーの物だよ、大事に使ってね』と、言いやすいに違いない。それにもし貸したつもりだったとしたら『じゃあ月曜日に、カウンセリングの時にでも渡してくれたらいいよ』と、こちらでも筋が通る。これこそ完璧な聞き方だろう。

 ……いや。……いや待って待って。

 と。

 そうこうしている間に、トーク画面は、送信取り消しのシステムメッセージが何個も連なった状態になっていた。そして、わたしはすっかり忘れていた。

 送信取り消しをすると、メッセージを送信した時の通知、それから送信取り消しをした時の通知、この二つが飛んでいくということに。勿論、送信を取り消している以上、その時点で取り消した文については、閲覧できなくなる仕様らしい。だが、きっとさっきから、先生のスマホは通知の嵐が訪れていたことだろう。

 送信取り消しが、3つ。それに送ったままのメッセージが一つ。計七回は、通知が飛んでいることになる。そして、それを見た先生は、恐らく何事だと思ったのだろう。

 会議前ではあるのだろうが、そこで電話がかかってきた。

 突如として画面に表示される、先生のアイコンと、通話画面。わたしは着信音が鳴り響くスマホを、びっくりして床に落としてしまう。それだけでも、こちらは慌てふためいて、言葉にならない言葉を口走りながら、パニックでスマホを拾い上げている。しかし、不運は連続するらしい。拾い上げた指が、どうやら通話ボタンを押してしまったのだろう。先生と電話が繋がってしまった。

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