2話:エチゾラムとカッターナイフ
家に着いたわたしは、靴を脱いで上がる。高校二年生にして、マンションに一人暮らしなんて、同級生からはとても羨ましいもの、それこそ夢のような生活であると思われるかもしれないが、実際に一人暮らしをしてみて思ったのは、真反対のことだった。幸い、わたしは料理や家事炊事など、そういったことは一通り出来るので、そこに不自由は感じていないが、それでも家に自分一人きりというのは、どうにも落ち着かない。だから部屋のテレビはずっとつけっぱなしか、あるいはスマホでずっと音楽を聴いたり、動画を見たりしている。今日も、リビングの突き当りにあるソファに腰かけると、わたしは制服のまま、スマホで動画を見ていた。ちなみに、最近は魔法少女になってしまった女の人が主人公のアニメを、一気見していた。
そのアニメをテレビで見ながら、わたしは先生と別れる直前に囁かれた、あの一言を思い出す。思い出そうとすると、一緒に耳元で囁かれたあの時の記憶も一緒に想起されてしまって、なんだかとても恥ずかしい気持ちになるが、それよりも。
思わず自分の耳。そこに通っている無数のピアスを触りながら、わたしは思わず呟く。
「いつからバレてたんだろ……」
これでも、自分なりに隠れていると思っていた。普段は髪の毛で耳が隠れるようにしているから、まず見えないはずだし、体育の授業などで、どうしても髪の毛を結ぶ必要がある時は、予め家でピアスを外してから通学していた。だから、先生がわたしのピアスについて、余程注意深く観察でもしていない限り、まず見つかるはずがない。少なくとも、言われるまではそう思っていた。しかしこうして、実際に気付かれたところを見るに、どうやらそうでもなかったのだろう。
わたしは居ても経ってもいられなくなり、ソファから立ち上がると洗面所へ向かう。電気をつけて、すぐに身体を少し捻る。そうして確認してみても、やはりこの可愛さの欠片も感じない髪型によって、しっかりと隠されている。だが、確かに片耳辺り、7個も空いていれば、何かの拍子で見えることもあるのだろうか。
左耳は耳たぶから耳の外周にかけて4つ。それからインダストリアル、ダイス、ロック、アウターコンク。
右耳は耳たぶから耳の外周にかけて3つ。それからアンテナヘリックスとコンクに2つずつ。
それから、わたしは鏡に向かって舌を出す。勿論、鏡の中の自分に向かってあっかんべーをしたわけではない。ただ、もし耳のピアスが先生に発覚している以上、このピアスも見られていたとしてもおかしくない。
そこには、小さな銀色の玉が、薄い舌の上に乗っかっていた。
これで合計、15個。
わたしはすぐに舌をしまい、耳にかけていた髪の毛を下ろす。そして、溜息を吐いた。
他のピアスを好きな人がどうなのかは分からない。ただ、わたしはピアスを開けたり、自分で眺めたりするのは好きだが、別に人へ見せてどうとか、そういうことはあまり考えていない。むしろ、学校に付けて行っている事だって、外すのが面倒だからという、ただそれだけの理由だった。だから、秋月先生にバレたということはわたしにとって、失敗でしかない。少なくとも、学校でのわたししか知らない先生にとって、正直ドン引きされていてもおかしくない。わたしにとってピアスを開ける行為とは、自傷行為のようなものに思えてしまうから。所謂、リストカットとか、ODとか、そういったものと感覚としては近しい。その感覚で、ピアスをこれまで開けてきていた。まあ、だからといって、リストカットをしなかったわけでも、ODをしなかったわけでもないけれど。
事実、わたしの左手首から、それこそ二の腕の方まで、夥しい数の傷跡が今も残っているし、先日付けた傷跡だって、まだ瘡蓋が形成されて、蚯蚓腫れを生じさせていた。一昨日は、病院で処方されている抗精神薬を、1錠では効果がないからと、5、6錠程飲んでいる。
それを先生に言えないのと同じように、わたしはピアスのことについても、先生にはこれまで相談したことがなかった。だが、何故かバレている。わたしはそれを思いながら改めて、先生の言葉を反芻する。
「他の人に、バレないように……」
思わず口に出してしまう。まるで、胃に鉛を入れられたかのように、身体全体が重たく、だるくなる。あの先生に嫌われたくない。学校でわたしの居場所は、今やあの先生とのカウンセリング。その時間だけだから、それがなくなってしまうのはとても恐ろしい。だからこれまで、わたしはずっと、先生とのカウンセリングの為、嘘の悩みを言い続けてきていた。とはいえ、全部が全部、嘘の悩みという訳でもない。ただ、先生には言えない悩みをあれこれと省いてしまうと、言える悩みが数少なくなってしまう。それでは隠していると疑われてしまうので、そのための嘘だった。例えばそれは、クラスのみんなともっと仲良くなりタイだとか、どこでも簡単に声が出せるようになったら、あんなことをしてみたい、こんなことをしてみたいだとか、将来の漠然とした不安だとか。そういう、誰でもわたしくらいの年代なら抱えるであろう、モラトリアム期特有の悩みを先生に打ち明けるふりをしていた。
先生はピアスのことを、どう思っているだろうか。単純に、趣味の一つと受け止めてくれているだろうか。それとも、病んでいると受け止めているだろうか。もしかしたら、隠し事についてもバレているんじゃないだろうか。わたしのことを、嫌いになったんじゃないだろうか。
耐えられなくなって、思わず洗面所から這い出て、そのまま廊下に座り込んでしまう。冷えたフローリングの硬さが、スカート越しに伝わってくる。震える手でスマホを取り出し、カレンダーを確認した。今日はバイトの予約は入っていない。そう思うと、途端に肩の力が抜けた。きっと、今日は泣くのを我慢する必要がないと、知ったためだろう。わたしはそのまま、日が落ちて、暗くなっていく部屋の中、ひたすら一人で、得も言われぬ恐怖と、先生に嫌われるとの恐怖に襲われ、泣き続けていた。
そして次に気が付いた時。わたしはフローリングの上で、座り込んで膝に顔を埋めたまま、横に倒れて眠ってしまっていたらしい。いや、気を失っていたような気もする。とにかく、部屋の中はすっかり日が落ちて、暗く静まり返っており、テレビだけが明るく、一時停止の状態のまま、止まった映像を映し続けていた。
その明かりを頼りにわたしは立ち上がると、固い床によって痛む手を壁に付き、倒れないように歩く。そうしてリビングへと向かった。
食器棚の引き出しまで、そうやって壁伝いに歩いて辿り着いたころには、身体の方は限界を迎えていた。いや、あるいは精神の方か。とにかく、吐き気と頭痛がさっきから酷い。実際、起きた原因も、この耐え難い苦痛を憶えてのことだった。
まるで頭の中は、ひたすら拳で殴りつけられているかのように、周期的な痛みが襲い来る。喉の奥は常に酸っぱく、胃が引っ繰り返って競り上がってくるような嘔気を憶える。
そんな満身創痍としか言いようのない状態で、わたしはその引き出しを力なく引っ張る。そして、中に入っている処方薬を取り出した。わたしは指先が震え、息も切れて、目も霞んできたその状態で、何とかシート状の包装紙をつまみ、一錠を取り出す。本当は、一日二回、決められた時間に飲まないといけない薬なのだが、そんなことを守っていられる状態でもないことは、自分がよく分かっている。こんな状態では、食後薬だからと、コンビニで何かお腹に入れるものを買ってくることは疎か、諦めて眠ることもできない。
胃が荒れることを心配するには、わたしはいささか、心を荒ませ過ぎていた。少なくとも、こんな心理状態ではろくに身体の心配など出来た物ではない。
口の中に錠剤を含み、歯で噛み潰す。そしてそのまま、縺れる足を踏ん張って、必死にキッチンへと向かう。起きた時から、床はまるでスライムかトランポリンのようにふわふわと頼りない感覚だし、手足の末端は、まるで氷水に浸されたかのように感覚が鈍く、おまけに震えも増す一方だ。だが、それもこの薬を飲んで少し経てば、すぐに収まることをわたしは知っている。本当は、今みたいに噛み砕いて服用することも禁止されているが、吸収されて効果が発揮されるまでの時間を、少しでも短縮したいわたしは、そうするしかなかった。
「死……にたい……な」
倒れ込むようにしてシンクへ上半身を預けると、今朝、コーヒーを飲んだマグカップを乾かしてある乾燥棚から掴み上げる。それをシンクの底へ立てようとするが、手の震えも相まって、上手くいかない。とうとう、音を立てて転がって行ってしまう。それを再び掴み、歯を食いしばりながら、何とか立て直す。そして上から、蛇口の水を注いだ。当然、勢いが強く、辺りに水が飛び跳ねてしまうが、それを気にしている余裕はない。
知ったことではない。
わたしはそれでもなんとか、手でマグカップを調整して、溢れんばかりにカップの中へ水を貯めることに成功する。それを鷲掴みにして、水が零れるのも厭わず、一気に飲み干した。その際、またしても手の震えや、力加減がおかしくなっているために水が服をびしょびしょに濡らしてしまう。襟元から、冷たい水が胸の間を垂れ、お腹を伝っていく感覚は、とても不快である。
しかしわたしは、その服や下着を取り換えることも出来ず、気が付けば床に崩れ落ちてしまったらしい。シンクの角に擦ってしまった腕が痛むような気がする。痛覚も麻痺し始めている証拠だろうか。
そうして、薬が効き始めるまでの数十分間。わたしは水浸しになった床で、更に背中や左半身が水に濡れていくのを感じながら、寝転がって過ごす。その間、頭の中ではどうしてこんな目に遭っているのか。それをずっと考えていた。
なんでわたしばっかり。
他の人みたいに上手く喋られなくなって。
頭がおかしくなって。
薬漬けになって。
おまけにしょっちゅう死にたくなって。
そんなわたしが、それでも何とか首の皮一枚、ギリギリ生きている心の支えと言えば。
わたしは、ようやく動くようになった身体で、床に寝転がりながら、ポケットから再びスマホを取り出して、ロック画面を見つめる。
「……せん、せえ。……っ! せんせえ、せんせえ……!」
盗撮が悪いこと。それは重々承知している。しかしわたしは我慢できず、一度だけ、先生の横顔をこっそり、取ってしまったことがある。そしてその写真は、ロック画面にも、ホーム画面にも、壁紙として設定されていた。その画像を眺め、わたしはまた、泣き出していたらしい。視界が揺らぎ、それが晴れると同時に、涙が右から左へ垂れていき、こめかみを伝う。そのままわたしはまた、声を押し殺して、先生の写真を抱きしめ続けていた。
「せんせえ、せんせえ……たす、けて。死にたい、死にたいよ、死にたいっ……死んだ方が……楽だよ……」
こんな薬を飲んで、辛うじて保てている正気。それは果たして、本当に正気だと言えるのだろうか。
だが、そんなわたしの情緒も、薬がそれから更に本格的に効き始めてくると、少しずつ落ち着いてくる。勿論、そうやって落ち着くまでに、それからまたしても、何錠か追加で服用したのだが。それでも、最初に薬を飲んでから一時間もする頃には、身体もいつも通り、動かせるようになっていた。そうして、わたしは元気を取り戻した身体で、いつものように手首へカッターナイフを当てている。
よくお医者さんにも言われることだが、わたしは何も辛いから、苦しいから手首を切っている。という訳ではない。昔はそうだったかもしれないが、少なくとも今は違う。これは、どちらかといえば自罰的な行為だった。わたしが悪いから。今日も薬を決められたとおりに飲めなかったから。今日もみんなと話せなかったから。そういう自己嫌悪の気持ちから、出来損ないの自分に対して、戒める気持ちがリストカットへと繋がっていた。
そうして、最後には10本近くだろうか。もう肘から下の傷口と傷口が、血で汚れて判別が出来ないほど切ったところで、ようやくカッターナイフを床に置いた。足を崩して床に座り込むようにして切っていたので、紺色のスカートに血がかなり垂れたことだろう。だが、幸いにも目立つ色ではない。わたしは、近くにあったタオルで傷口を抑えると、血が床を汚さないように気を付けながら、キッチンに腕を突っ込んで、上から水をかける。
そしてある程度の血を流し、それから手首へ、やや強めに包帯を巻く。ここまで何度も広く切ってしまえば、ばんそうこうなどは到底意味を為さない。精々、包帯を上から巻いて、血が服を汚さないようにすることしか、わたしには出来なかった。
包帯の最後を、サージカルテープで止め終わる頃には、深夜の11時30分を過ぎた頃。夜もかなり更けたころだった。そしてわたしはようやく、ご飯に意識が向く。多少の空腹を感じられるくらいには、落ち着いたということだろうか。
それもそのはず。わたしは今日、朝ごはんにコーヒーと、カロリーメイトを一本食べたっきり、何も口にしていない。お昼ご飯はいつも、かつての習慣のお陰で抜いているから、通りで今、空腹を多少、感じるという訳だ。
わたしは立ち上がると、よろめく足で部屋の電気を付けに行く。
蛍光灯の明かりが、目に染みた。
リモコンを使ってテレビの画面を消し、アニメは帰ってきてから見ることにして、ようやく出かける準備を整える。
まずは服だろう。いくら何でも、こんなにびしょびしょに濡れた服では、外は出歩けない――それでなくとも、制服で外をこの時間に出歩こうものなら、一瞬で補導されかねないが。
適当にクローゼットの中から、かわいい服を取り出す。
所謂、ロリータ系。世間一般で言うところの、地雷系ファッション。とはいえ、わたしが好むのは、その系統の中でも、比較的ライトなもの。よくあるピンクのカーディガンに、黒のタイトミニスカート、というよりは、量産型、というのだろうか。
いや、どっちでもいいけど。
とにかく、自分で買っている服ながら、なかなか奇抜なファッションセンスだという自覚はある。しかし、わたしの借りているこのアパートは、広さの割に安く、その理由は、近くにガールズバーとかキャバクラ、それ以上のお店もかなり多い土地だから、意外と馴染む。少なくとも、制服姿で出歩くよりは。
その服に身を包み、髪の毛をハーフツインにする。それから化粧。
赤いアイシャドウを使い、泣き腫らしたような目を――作るでもないけれど、いつもの手癖で作ってしまう。そうして、すべての工程が終わる頃には、学校でのわたしとはどう見比べても別人レベルの姿へと、変貌していた。
本当は、こういう格好が好きだし、こういうメイクが好きだし、こういう髪型で学校に行きたいとすら思う。だが、そんなことをしたら、絶対に悪目立ちするのは目に見えている。
わたしは、あくまで学校に置いて、悪目立ちを避けていたかった。
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